<続き>
当該シリーズ(五)を除き前回までは、文献史学や地名・神社名の語呂合わせで『出雲と古代朝鮮』について記述してきた。特に語呂合わせについては、その域を脱していないようにも思える。
それらの事どもが考古学的裏付けがとれるのかどうか、先ず弥生期の遺跡とその出土物を朝鮮半島との関係で概観したい。
朝鮮半島では新石器時代の終焉とともに、稲作の開始や支石墓・石棺墓などに伴う無文土器の時代に至る。紀元前1000年から前300年迄を前期、以降紀元前1世紀頃までを後期とする。前期の前半を孔列文土器、後半を松菊里式土器、後期を粘土帯土器で代表される時代区分である。
韓国中央博物館の蔵品をそれぞれ紹介しておく。
(孔列文土器:韓国中央博物館)
(松菊里式土器:韓国中央博物館)
(粘土帯土器:韓国中央博物館)
これらの朝鮮半島系無文土器が、出雲の縄文・弥生遺跡から出土している。孔列文土器については、飯南町大字志津見の縄文遺跡・板屋Ⅲ遺跡から多数出土した。ここは出雲の深南部で神門川の上流に相当する地域である。神門川の水運を利用して運び込まれたと思われる。この遺跡は縄文期の稲のプラントオパールと、稲籾の圧痕が残る縄文土器が発見されている。この孔列文土器と稲作が繋がるのかどうか、土器は何も語らない。
(孔列文土器片:松江市立鹿島民俗資料館)
この孔列文土器は縄文遺跡である、島根半島中央部の松江市鹿島町の佐太講武貝塚からも上の写真のように出土している。更に孔列文土器が出土した遺跡を列挙すると、松江市西川津のタテチョウ遺跡と西川津遺跡。この両遺跡は弥生遺跡である。
松菊里式土器は、タテチョウ遺跡と共に松江市鹿島町の古浦遺跡、堀部第一遺跡から出土している。
(古浦遺跡出土の松菊里式土器:松江市立鹿島民俗資料館)
玉や勾玉については、別稿に掲げたいと考えているが、堀部第一遺跡からは半島産の管玉が出土しており、交易の一つの証となっている。
(朝鮮半島産管玉:松江市立鹿島民俗資料館)
横道にそれたが、粘土帯土器については、西川津遺跡の他に出雲市の原山遺跡とその西南に在る矢野遺跡からも出土している。
(奥・朝鮮半島系土器:出雲弥生の森博物館)
また出雲市の中野清水遺跡(弥生後期)からは半島系土器、先の鹿島町沖合からは海上がりとして楽浪系瓦質土器(下写真)が引き上げられている。
(楽浪系壺:松江市立鹿島民俗資料館)
今回は出雲から出土した朝鮮半島系土器を見てきた。縄文期以降の交易は存在したであろう品々である。今回取り上げた弥生遺跡の位置を下に示しておく。
弥生期においては、矢野遺跡や中野清水遺跡は、入海の海岸であった。出雲における弥生遺跡は、入海や日本海の海外沿いで平地に立地していた。稲作と北九州や越さらには半島との交易の関係であろう。
尚、これらの朝鮮系土器は各々の遺跡でメジャーな存在ではなく、出土する土器の一部である。つまり渡来人としてまとまった集団の渡来ではなかろう。渡来ではなく、交易により入手したとも考えられるが、いずれにしても出雲と半島の交渉は存在した証であろう。
<続く>
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