またまた、どうでも良いような噺で恐縮である。出雲大社の社殿は南北配置である。『君子は南面する』との例え通り、大国主命は南面するかと思いきや、大国主命の神坐(かみくら)は西面している。この西向きの謎解きについては、百家争鳴で定説らしきものに出会っていない。
(北)
(南)
そこで中国の故事から考えてみたい。項羽と劉邦の戦いで、最終的に劉邦が勝利し『漢王朝』を建国するが、その劉邦の絶体絶命の『鴻門の会』の場面。”項羽は西の方に座って東を向く。それに対し劉邦は南に座って北を向いた。”
「経書」によれば、西に座って東を向く、この西の座席がいちばん尊貴な座であると記されている。先祖の祀りをした宗廟では、西に太祖の霊、つまり王朝を開始した始祖の位牌を安置した。これによれば、項羽は慣習通りに座したことになる。つまり東を向いて西に座るのが上座である。劉邦は下座である東に座り、劉邦のいる西を向いたかと思いきや、南に座って北を向いたというか、向かわせられた。つまり下座以下の扱いである。
後世、「君子南面す」と云われ、帝王は南に向かって座す。「臣は北面す」。北を向いて座す。つまり、南を向いて北に座るのが上座、北を向いて南に座るのが下座となった。
古来、東西の秩序に対し南北秩序が勝るのは、漢から唐に至る歴史的な流れの中で発生した。それは宮殿や皇帝陵と臣下の陪塚の位置が、時代の変化と共に、上述のように変わってきたことによる。このように上座とは、南北配置の建物で、南を向いて北に座るのが上座ということになる。京都・二条城を観光された方々は、二の丸御殿で将軍が諸大名を接見する大広間を御覧になられたであろう。将軍は南を向いて北に座り、諸大名は北を向いて南に座る配置を御覧になったと思われる。それが日本古来の上座、下座に相当し、中国伝来である。
日本の神社の多くは南北配置で、神坐は南面している。然るに、出雲大社本殿は、西面していることは先に記した。これと事例はやや異なるが、鹿島神宮は北面し、蝦夷に対峙しており、宇佐神宮が南面するのは隼人に対峙するためのものである。つまり、異族を調伏させる意味を持つ・・・とすれば、出雲大社の神坐が西面するのは、新羅調伏の目的であろうか。
これらのことから、ヤマト王権の姿が垣間見える。服(まつろ)わぬ勢力に対し、神々の神通力を動員した姿である。大国主は新羅調伏の役割を担わされたであろう。いやいや、ヤマトは大国主命が南面するのを許さなかった。先の項羽と劉邦の事例が示している。いやいや、大国主命自身が東のヤマトの方角にソッポを向けて、反対の西を向いた・・・とも思われる。
当該ブロガーは、大国主命の反骨精神である3番目の、ヤマトの方角にソッポを向いた・・・との理由を考えている。上座とは何ぞや?とのテーマで著述をスタートしたが、最後は大国主命の神坐の話にすり替わってしまったことをお詫びする。
<了>
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