<続き>
ここで元・明史に記録されたランナー王国関連記事と年代記類*の記録を以下に比較しておくが、年代記には元寇に関する記述が少ないことがわかる。
(*年代記のみならず、北タイ各地に残る碑文、刻文より、定説化している即位年)
尚、元史は本紀のみ記述した。以下は筆者の想像である。元史、明史によると元の南下圧力は凄まじいものであったと思われる。戦乱下での物品や工芸的技術や技能が、伝播したと想定できる(但し雲南のみではなく大越国(安南・ベトナム)から北ラオス経由の技術伝播も存在したであろうと考えている)。それは13世紀末ー14世紀初頭にかけてサンカンペーンで焼造が開始されたとの説と符号する。
・・・但し2019年現在の今日に考えることは、北部諸窯創業の陰にはクメールやモン(MON)族の陰が見え隠れすると考えており、課題としてはそれらモン族と南下、西南下したタイ族との関連を調べるのが、今後の課題と考えている。
尚、以下の事柄について付記しておく。チェンマイ年代記によると、ティローカラート王(1441-1487)は、アユタヤ王国との戦いのみならず、ランサーン王国を陥落した大越国(黎朝)を逐ったほか、西双版納やサルウィン川以西に遠征して多数の住民を連行し、ランナー地域に移住させた。但しこの15世紀にはすでに開窯がおこなわれており、創始というより第二波の技術移転であったか?
このチェンマイ年代記の記述が、サンカンペーン窯創始の出典になっているものと思われるが、これを採用すると先述のように矛盾が存在する。結局、サンカンペーン窯成立過程は、タイの年代記を含めて文献史学のみでアプローチするには、やや無理がありそうである。ここは地道ながら考古学的に窯址調査と陶磁の発掘調査に期待し、それが進展することを希望する。
<了>
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