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北タイ陶磁に魅せられて:第7章

2019-10-07 08:08:34 | 北タイ陶磁

不定期連載として過去6回に渡りUP-DATEしてきた。過去に掲載した記事をご覧頂けたらと思い、それらのURLを掲載しておくので参考にされたい。

〇北タイ陶磁に魅せられて:第1章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9e015d9fcaf6a02f33bbb92747452b95

〇北タイ陶磁に魅せられて:第2章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/064fddaeccaf6dd6886827e73c5ffb8f

〇北タイ陶磁に魅せられて:第3章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/1dcad4db5e1347f88d342c6dae2a4858

〇北タイ陶磁に魅せられて:第4章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/5990013b5a36044056e97932badb92da

〇北タイ陶磁に魅せられて:第5章

https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/fc359c79a6d232c857102aa77b92fc48

 北タイ陶磁に魅せられて:第6章https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/9a53e0ba73d6a5cc3d6861ac63722540

過去5回に渡り『ランナー古陶磁の窯址を巡る』と題して、旧ランナー王国の4つの古窯址群について紹介してきました。今回、番外編として過去に紹介できなかった古窯址群のなかから、幾つかの古窯址を紹介させていただきます。番外編の2回目(第7章)はワンヌア古窯址群です。

ワンヌア古窯の所在地は、ランパーン県ワンヌア郡内で、タイ芸術局の調査により25基を確認したとのことですが、それ以上であったろうと云われています。操業開始時期は、他の北タイ諸窯に比較し、やや遅れた14世紀と云われ、操業期間は14世紀~17世紀と幅があります。他の北タイ諸窯に較べると青磁主体の焼成で、僅かの褐釉や灰釉陶磁が存在します、また鉄絵による装飾もなく誠に不思議な存在です。

操業した窯の数が少ないことから流通する焼物は少なく、北タイの限られた領域で流通し、残存する完品を目にするのは難しいのが現状です。

チェンマイ在住者の方は、チェンマイ国立博物館の展示品を御覧になるのがよいでしょう。しかし、先に記したように所蔵品は少なく、概要を掴むことには無理があります。以下、その少ない展示品を紹介しておきます。

(青磁刻花文鳥形水注 チェンマイ国立博物館蔵)

(青磁碗  チェンマイ国立博物館蔵)

ワンヌア焼の鳥形水注は非常に数が少ないのですが、写真のそれは大きな傷もなく貴重な一品です。そしてワンヌア焼青磁碗は、この手の碗が主流で比較的多く焼かれました。

残念乍らワンヌア焼が見られるのは、チェンマイ国立博物館以外では、北タイには存在しないと思われます(但しワンヌア郡内の寺院で蒐集している可能性はありますが詳細不明)。興味をお持ちの方は、バンコク郊外ランシットのバンコク大学付属東南アジア陶磁館を訪問してください。写真の名品を見ることができますが、ここでもワンヌア焼が見られるのは数点です。

 (青磁鎬文稜花縁盤 バンコク東南アジア陶磁館蔵)

(青磁蓋付壺 バンコク東南アジア陶磁館)

青磁鎬文稜花縁盤はワンヌア焼で最もポピュラーで、写真の盤の径は30cmを越える大きな盤です。青磁蓋付壺は合子と思われ、キャップションにはワンヌア窯と表示されていますが、これは後程紹介するワンヌア・ワンポン窯の名品で青磁蓋付壺です。蓋の造形はチェディーないしは須弥山を表しているものと思われます。

以上、タイ国内で見ることができるワンヌア焼を4点紹介しました。

 

ぱっと見ての第一印象は、器胎が白くて固く焼きしまっている感じです。その第一印象通り、陶土は灰色を帯びた白い半磁土に、白・黒粒と雲母の微細な粒が含まれ、緻密で夾雑物が少なく、小さな空洞が見られるのが特徴です。

青磁釉は透明で黄緑ないし緑色を呈しています。青磁釉以外は僅かながら褐釉と灰釉が存在します。

ワンヌア焼は盤の造形に特徴がありますので、それを紹介しておきます。高台は内向(約60度)し逆台形で、畳付きは丸みを帯びています。口縁は鍔縁でその端を丸く成形しています。それを玉縁(たまぶち)と呼んでいますが、そこを内側に折って装飾としています。連続的に折り曲げているものを輪花縁(りんかぶち)、一定の間隔で折り曲げているものを稜花縁(りょうかぶち)と云い、これもワンヌア焼の特徴です。さらにカベットに放射状の窪みをつけて装飾としていますが、これを鎬(しのぎ)と呼びワンヌア焼でよくみる装飾技法です。以下特徴というわけではありませんが、製作された器の種類と印花文様の種類を紹介し、この項を終了します。

●製作された焼物の形状

 大小の盤、皿、鉢、碗、水差し、鳥形水注、瓶、耳付広口壺、二重口縁壺、合子、蓋付壺、高坏           

●確認できている印花文様の種類

 太陽光芒文、四つ菱文、ピクン花卉文 

      

ワンヌア古窯については、勝手が良く分からないので、バンコクの知人である日本人K氏に同行願うことにしました。K氏と共にシーサッチャナーライからタイ人のCさんが同行し、ワンヌアのガソリンスタンドにて、我々と待ち合わせすることにしました。筆者は、旧知のオウさんと呼ぶドラーバーと一緒にチェンマイを出発し、このガソリンスタンドでおちあうことができました。

どうでも良いようですがタイ人の、その道のネットワークの凄さには舌を巻きました。Cさんがメーカチャンの発掘プロに連絡をとり、暫くすると発掘プロの2名が到着です。早速ワンヌアのメープリック窯址に向かうことにしました。       

先ずメープリック窯址への行程から紹介します。発掘のプロに従い郡庁からランパーンに向かって南下し、写真の国道(ワンヌアーランパーン国道)標識を右折します。

右折するとなだらかな山越えとなります。山越えして降りたところがT字路で、メープリック学校方面へ左折します。

発掘プロの約20年前の記憶をたよりに、窯址地主を探し当て訪れました。地主はタノンさんと呼び、そのタノンさんのバイクの先導で目的地につくことができました。

窯址へ行くには、谷筋の田圃を横断して丘に向かい、寺院の前を右手にみて道なりに約1km進むと到達しました。その窯址の手前は谷筋で小川がながれ、田圃となっていました。そこを越えると登り坂となり、その右手がバナナ畑で、其の中に窯址がありました。

 (窯址に立つ地主のタノンさん)

残念乍ら窯址は原形を留めず、バナナ畑として開墾されていましたが、窪地となっていたことから推測はできました。なかには窯床と思われる部分が黒みを帯びた釉薬のガラス質で覆われている処もあり、その範囲は約1平方メートル程度でした。それが下の写真です。

周囲には数基の窯が存在していたようで、その向きは一定ではなく、90°程度の向きの差で接するように配置されていたと(軸線が斜面に沿うものと、水平に近い軸線で窯壁が接していた)・・・タノンさんの説明でした。

写真は、軸線が斜面に沿っている事例で、写真上部が斜面上方にあたります。多くはありませんが周辺には煉瓦状の塊が確認されました。このワンヌア・メープリック窯のロケーションで陶磁原料の調達はどうであったのか、陶土について調査していませんが、水の確保は容易であったろうと思われます。窯址の下方30-40mに谷筋がありクリークが流れています。            

地主・タノンさんの了解を得て、写真の陶片3点を持ち帰りました。1点目は窯の崩落によると思われる、多くの降下物が見込みに見られる青磁印花日輪文高坏片です。2点目は青磁輪花縁盤片、3点目もその類であろうが、表面が炭化物で覆われています。胎土はいずれも微細で固く、磁器質に近いものがあり、胎土をどこから採取していたのか興味深い事柄です。    

次にワンヌア・ワンポン窯址の紹介です。ワンヌア郡庁、メープリック学校とワンポン学校の位置関係は、先にグーグルアース衛星写真に示した通りです。

ワンポン学校を左手に見て、ワンヌア郡庁に向かって北上約300m地点で左折すると、いきなりダートでした。そのでこぼこ道を暫く走ると三叉路に至り、そこを左折して100mほどでしょうか、下草が刈られた小高い山が見えます。そこら一帯に窯址が散在していたようですが、いずれも破壊され原形を留めていません。近くにはピー(精霊)を祀る祠がありました。それにしても水を得られそうにもないような地形に、なぜ窯が? ・・・との疑問が湧きます。

ここも素人では行きつくことは不可能です。件の発掘プロにワンポン学校の国道脇で待っているようにと指示され、待つこと20分で戻ってきました。地主に連絡に行ったのです。地主は既に現場に向かっていると云うことでした。上述のダートを進み、現場に到着すると、地主は既に待機中でした。

ピーの祠は写真手前右側で、下草が刈られた小高い山は写真右後方にあたります。そこら一面に陶片が散在していますが、その量はいたって少量でした。

何故かピーの祠前に下写真の窯道具かと思われるものを見かけました。

その道のプロなら使途は一発で理解できるでしょうが、皆目わかりません。何かの陶磁の底部か、それとも窯道具の匣(サヤ)でしょうか。

いよいよ窯址の探索ですが、指摘された窯址と思われる場所の所々に陶片が散在していましたが、その量は多くはなく、探すのにそれなりの時間が必要でした。

写真は採取した陶片を1箇所に置いて撮影したものですが、残念ながら窯址は破壊しつくされ、その痕跡は確認できませんでした。

J・C・Shaw氏の著作『Northern Thai Ceramics』によると、タイ芸術局によるワンヌア窯の調査で、窯はいずれも粘土スラブによる構築であったと記述されています。窯址で見た煉瓦のような固形物は、焼成の熱によりブロック化したものとも考えられます。

チェンマイ国立博物館前庭に移築の地下式のワンヌア窯をみれば、成程煉瓦は使われておらず、粘土スラブがブロック化した可能性が高いと考えられます。

現地の窯址は、その残滓は確認できたものの、窯形状の想定すらできにくいほど破壊されていました。そこでチェンマイ国立博物館前庭に移設されている、地下式の横焔式単室窯を紹介して終わりにします。

この窯は地上に移設されていますが、地下式の穴窯です。タイ芸術局によると、15~17世紀に築窯されたものとしており、縦長のスリムな形をしています。

次回は最終回として後日、インターキン窯址を紹介する予定です。

<了>

 

 


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