縄文人は足るを知る美と慈悲文明の社会であった
以下、安田教授の著述内容である。”稲作を生業の基盤にした都市型遺跡がすでに6300年前に、長江中下流域で出現していた。しかし、それらの都市型遺跡を発掘して、出てくるものは規格化された土器のかけらであった。財宝は一部の支配者に独占され、墓の中へともっていかれたであろう。稲作農耕社会の発展のなかでは、庶民は搾取され、しいたげられる立場にあまんじざるをえなかった。
これに対して、縄文時代の遺跡を発掘すると、庶民が使用したさまざまな日用品が大量に発見される。縄文時代は個々人が物質的に豊かさを享受でき、創造性を発揮できた時代なのである。
(岡本太郎氏は縄文・火焔型土器は優れた芸術作品であると称賛した。一つとして同じものはなく、規格も何もなかった。 兵庫県立考古博物館にて)
弥生時代の土器は規格化され、統一されている。それは支配者の意向のもとに、工人がベルトコンベア方式にのって、同じものを作り続けたからなのである。個人の創造性や自由という面からみれば、はるかに縄文時代の土器作りの方が、楽しく心豊かである。縄文時代は、現在の日本文明につながる「足るを知る美と慈悲文明」の根幹が形成された時代である。
しかし平和でやさしい社会は同時に停滞的・保守的でもある。そうした停滞性や保守性を打破する新たな刺激が、外部からもたらされた。それが弥生時代の到来である。
安田教授は「足るを知る美と慈悲文明」と記されている。この『足るを知る、いわゆる知足』については、それなりの感慨をもっている。1997年、当該ブロガーがタイ北部工業団地の某日系に出向していた時に、世界経済危機がタイを襲った、プミポン国王(ラーマ9世)は「足るを知る経済」を提唱した。これは、民の苦しみ、とくに精神的状況を和らげるための仏教的原則を基礎としたものであった。この理論は、民衆を支援して持続可能な開発モデルに適応させようとする40年以上に及ぶ国王自身の経験を基盤にしたものだったと云われている。足るを知るとは持続可能な社会を循環させることに繋がる。このような伝道者と呼ぶべき指導者は、日本には誕生しないのであろうか。持続可能な循環型社会の実現、多分掛け声だけで消滅するであろう。それを実現するには強力なリーダーシップを持った政治家の出現が必要だ。
<続く>
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