稲作が普及するには時間がかかった
安田教授は以下の如く記されている。”長江下流域と九州は直線距離にしてわずか800kmしか離れていない。
長江中・下流域では、すでに稲作は1万年以上前から始まり、5000年前には下流域で良渚文化、中流域で屈家嶺文化に代表されるように、都市文明さえ誕生していた。かつ漆、ヒョウタン、鹿角斧、玉器、玦状耳飾りなど中国大陸との交流を物語る縄文時代の遺物が日本の各地で出土している。にもかかわらず熱帯ジャポニカによる焼畑耕作は4000年前、温帯ジャポニカを栽培する本格的な水田稲作は3000年前にならないと日本列島には伝播しないのである。農耕を開始することに縄文人は抵抗を示していると云わざるを得ない。なぜ縄文人は農耕社会に突入しなかったのか。これも日本民族の歴史のなかの謎である。
すでに福井県鳥浜貝塚の発掘調査によってエゴマ、ゴボウ、ヒョウタン、アサ、マメ類などの栽培作物が縄文時代早期から発見されており、縄文人が原初的農耕を行っていたことは確実である。しかし、雑穀を含む大規模な穀物栽培の証拠は発見されていない。
水田稲作が行われていたことが確実なのは、縄文時代晩期である。縄文時代晩期は3500年前に始まる気候寒冷期に相当し、海面の低下によって水田稲作に適した低湿地が拡大した。そして、気候寒冷化の中、大陸での殷周革命や春秋戦国時代の動乱を逃れてやって来た気候難民やボート・ピープルが、日本に水田稲作をもたらした。
縄文時代晩期の青森県風張遺跡からは、七粒の稲籾は発見されたが、稲作を行っていた考古学的証拠は発見されなかった。縄文人たちは稲を知っていたが、それが主たる生業となるまでには長い時間が必要だった。縄文人たちはドングリやクリ、豊かな海の魚介類、それにイノシシやシカなどの獣類を背景とする豊かな食料に恵まれ、大量死をもたらすような飢餓に直面することがすくなかったのではないか。縄文人たちはコメを必要としなかったのである。縄文時代晩期の気候悪化期に、縄文人たちは、始めて大量死に直面した可能性がある。その時に縄文人は稲作を受け入れた。
もう一つ、稲作が普及拡大するための重要な条件は人口である。大規模に農耕を行うには高い人口圧が必要だが、縄文時代には穀物栽培の農耕に必要なだけの人口圧がなかったであろう。
コメの証拠は縄文時代中期から認められるのに、水田稲作の本格的な開始が、大陸からボート・ピープルがやって来る3000年前まで認められない背景は、こうした縄文時代の人口の問題が深くかかわっているであろう。
農耕は森と草原のはざまで誕生した。ところが日本列島は深い森に覆われ、稲作に適した湿地にとぼしかった。縄文海進期には内湾が内陸深くまで侵入し、稲作のための生業の場所を確保できなかった。このために稲は伝播していても稲作の水田確保がしにくかった。このことも水田稲作が普及しなかったもう一つの理由であろう。
縄文時代晩期の寒冷化の海退期に入って、内湾の堆積が進行し、湿地地帯が形成されると、日本が稲作社会へと大きく方向転換を始めるのは、水田稲作の技術をもった人々の渡来と共に、こうした生業の場所が確保できたことも、一つの要因として作用したであろう。”・・・以上である。
縄文時代は、稲作以外の穀物と自然からの恵みで生活し、まさに循環型社会であった。人口増加がもたらしたものは、既に歴史が証明している。この先どこへ行こうとするのか、SGDSと声高に叫ばれているが、目指す姿を明確にする必要があろう。
<続く>
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