<続き>
〇磐井の乱は騎馬民族利権保持の戦いだった
3世紀後半、纏向に誕生した倭王権。しかし、それに従わない北部九州の勢力が存在した。4世紀中頃の倭王権の外交は、前回記したように親百済・伽耶であり、新羅は敵国であった。一方、北部九州の勢力は、独自に新羅と外交関係を結んでいたようである。
6世紀に入ると、朝鮮半島は混迷の時代となる。百済は、伽耶諸国に進出した。そこには倭人の人々が暮らしていたが、倭国は百済の支配権を追認したようである。
(6世紀の朝鮮半島:歴史道Vol.12より)
他方、5世紀までは高句麗に従属していた新羅は、6世紀に入ると国家体制を固め、百済と抗争を始めた。そして伽耶諸国への侵攻を果たしたのである。
倭国は、百済への支援に注力したいが、新羅と親交を結ぶ北部九州勢力は受け入れざるもので、衝突は不可避であった。時の大王・継体は近江・越前を基盤に日本海ルートで半島諸国と繋がっていた。ついに継体21年(527年)6月、新羅の伽耶侵攻を抑えるため、継体天皇は近江毛野(おうみのけの)率いる軍勢6万を派遣しようとしたが、この前に塞がったのが筑紫磐井であった。
磐井の一族が北部九州を支配するようになったのは、5世紀初頭の扶余系騎馬民族の渡来からではなかろうか(根拠になる史書は存在しないが状況からみての推測)。背景として磐井は、倭王権が半島との交易を独占すれば、自分の権益ひいては存在の基盤を失うことになることを恐れ、妨害にでたものと思われる。
このように想定するのは、磐井の墳墓と云われる岩戸山古墳に並ぶ石人・石馬、これは例えば伽耶(現・金海市)の金首露王陵(築墳時期4世紀後半?)に並ぶ文武人物石像・石馬と同様な背景から出現したと考えて大きな齟齬はないものと思われる。このことは磐井の本貫は半島にあったであろう。
(金首露王陵の文武人石像と石馬)
磐井は近江毛野を切り倒した。これを放置できない継体天皇は、ついに物部麁鹿火を将軍に任じ、磐井の討伐に向かった。継体22年(528年)双方が衝突し、麁鹿火が磐井を切り倒して反乱を鎮めた。
継体天皇も騎馬民族の末裔と思われ、筑紫磐井も上述のように騎馬民族に繋がる人物であった。その双方が利権を確保するための戦いが磐井の乱の真相であったと推測している。
<続く>
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