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新春特集『遥かなり騎馬民族』(15・最終回)

2022-02-08 08:01:07 | 日本文化の源流

<続き>

〇騎馬民族が跋扈した信州

5世紀の初め頃に信州は須坂市の鎧塚で積石塚が築かれ、7世紀まで次々と信濃・甲斐に築かれていく。高句麗で積石塚が盛んであることは『魏志・東夷伝・高句麗条』に記されている。それは古都・集安までのことと考えられていたが、森浩一氏が雲坪里を訪ねると、5世紀代にも積石塚が造営されていることが明らかになったと云う。つまり信州に積石塚が現れる頃、高句麗でも積石塚が営々と築かれていた。森浩一氏は信州の積石塚は、高句麗の影響を受けたものと語っておられる。

(鎧塚出土獅噛文様金銅製品 須坂市HPより)

(高句麗・安岳3号墳 獅噛文様装飾)

この5世紀初め頃とされる須坂市の鎧塚から獅子の顔を彫刻した金銅製品が出土している。これは高句麗安岳三号墳(4世紀中頃)の墓室内の石柱上部に描かれた獅子の顔に似ている。鎧塚は信州へ移住してきた高句麗の人々の有力者であったことを伺わせる馬具も出土している。

後世ではあるが『日本後記』の延暦十八年(799)に、甲斐と信濃の渡来系の人々の改姓記事が出てくる。自分たちの祖先は百済人だという甲斐の国の人たち190人が日本流に改姓することを願い出ている。その記事に続いて、信濃国人たちが、自分らの先祖は高麗人で推古・舒明の二朝に帰化したが、改姓したいと願い出て許可されたと記している。推古・舒明の時代は7世紀である。7世紀以前に多くの百済人・高麗人が来朝してきたことになる。

今回は 『騎馬民族遥かなり』としてシリーズ15回目となる。過去にも記したように、騎馬民族の渡来は数次に渡って各地に渡来して来た。5世紀ころに王朝の交代を促す、継体天皇氏族の渡来が考えられる。

当該シリーズは、江上波夫氏の『騎馬民族征服王朝説』に沿って論旨展開してきたが、江上説である崇神天皇ではなく継体天皇が新王朝を樹立した可能性が高い。しかし、それも縄文人をベースとして弥生人から連綿としてつながる古墳時代人社会に溶け込んだであろう。今回で当該シリーズを終了するが、騎馬民族は間違いなく遣って来た。

補足)

過去『朝鮮半島南部の前方後円墳と伽耶の謎』(ココ参照)なるタイトルで一文を掲載した。

朝鮮半島南部栄山江流域で5世紀末から6世紀初に比定される前方後円墳が発見された。それは当時、一衣帯水の関係にあった日本列島から持ち込まれたであろうと記している。その理由は、日本列島では3世紀終り頃から前方後円墳が出現するのに対し、朝鮮半島では北部・鴨緑江流域の雲坪里の前方後円墳らしき積石塚が、紀元前後に築墳されているが、その後栄山江流域で築墳される5世紀末から6世紀初まで、忽然として姿を消すのである。騎馬民族は朝鮮半島南部を経由して、当時の倭国に渡海してきたと考えられるので、経由地である朝鮮半島南部に、日本で築かれた時期、つまり3世紀後半以降の前方後円墳が存在しないのである。これは何を物語るか・・・日本列島から逆流したと考えざるを得ない。朝鮮半島南部の倭人と列島の倭人は一衣帯水の関係にあったのである。

<完>

 



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