<続き>
先に、『習近平の謀略』なる記事をUp Dateした。同じような見方をする人は他にもいるようだ。ココを参照願いたい。
須佐之男命は韓鍛冶(からかぬち)集団のボスであったとの見解を先に記した。新羅族か扶余族か別にして朝鮮半島渡来の人であったと云うことになるが、果たしてそうなのか。
須佐之男命が御子神・五十猛命とともに、新羅の蘇尸茂利(そしもり)から倭国の五十猛浜にもどられた地、そこは旧・出雲国と旧・石見国の国境であるが、そこに、その名もズバリ『韓神新羅神社』なる社が鎮座している。祭神は武速雄尊(たけすさのおのみこと)で須佐之男命のことである。創祀は延長三年(925年)のことで平安時代に相当する。須佐之男命が我が国に、新羅の蘇尸茂利から戻られた伝承を2-3世紀頃と仮定すれば、700年の後の創祀であり、何やら後世の付会かとも思われる。尚、近くには五十猛命を祀る五十猛神社も鎮座している。
(韓神新羅神社)
須佐之男命・五十猛命と朝鮮半島との繫がりを示す事例として、式内社としての韓国伊太氐(からくにいたて)神社が鎮座する。列記すると・・・
意宇郡 玉作湯神社坐韓国伊太氐神社
揖屋神社坐韓国伊太氐神社
佐久多神社坐韓国伊太氐神社
出雲郡 阿須伎神社同社神韓国伊太氐神社
出雲神社同社韓国伊太氐神社
曽枳能夜神社同社韓国伊太氐神社
ここで、同社坐と同社神、同社とでてくるが、ここではこの違いには触れないでおく。この韓国伊太氐神社は、式内社ではあるものの、その創祀の年代、由緒、祭神など分からない点が多いが、祭神は概ね五十猛命とするものが多い。
前回と今回、須佐之男命と五十猛命を祀る、仁多郡・伊賀多気神社、神門郡須佐神社や韓国新羅神社、韓国伊太氐神社をみてきた。両二柱の神の伝承と祀られる神社には関係がありそうだが、神社は後世に創祀されたものが多そうで、なにやら付会されている印象を持つ。
記紀によれば、須佐之男命は八岐大蛇を退治する英雄として語られているが、出雲国風土記には多くは登場しない。多くの神々が登場するが、大穴持命(大国主命)の登場比率が36.3%に対し須佐之男命は三分の一の13.6%である。冷淡と云えば冷淡であろう。何故か?
御存知のように『出雲国風土記』は神宅臣全太理(みやけのおみまたたり)・出雲臣廣嶋の勘造になるものである。出雲国風土記には須佐之男命の八俣大蛇退治は消されしまっている事実と上掲の登場回数。出雲臣廣嶋は国造家の嫡系に連なる人物である。ここから出雲国造家は須佐之男命の痕跡を消し去ろうとしたとの推論が浮かんでくる。
果たして、その推論は成立するのか? 出雲大社本殿の真後ろに素鵞社なる、素戔嗚尊を祀る社が存在する。素鵞社の確かな創建年代は不明であるが、1667年頃(寛文年間)に現在の殿舎が造営され、本殿から素戔嗚尊の御神体が遷されてきたと考えられている。これは何だ、須佐之男命の存在を消そうとする出雲国造家、出雲国造家が祀る大国主命の真後ろに須佐之男命が鎮座する。出雲国造家が古代において須佐之男命を抹消しようとした行為の怨念封じに、後世において素鵞社を造営したのであろうか。
二礼四拍手一拝は出雲大社の参拝作法であるが、これと同じ作法をとるのが宇佐神宮である。宇佐神宮の二の御殿の祭神は比賣大神、つまり宗像三女神である。宗像三女神は天照大御神と素戔嗚尊の誓約により誕生した。出雲大社と宇佐神宮の参拝方法が何故同じなのか?
双方の社に共通するのは、八幡神でも大国主命でもなく、須佐之男命であった。つまり両社建立目的のひとつが須佐之男命の怨霊封じであったと思われる。
これらのことどもから想定されるのは、須佐之男命は朝鮮半島から渡来した製鐵集団のボスであったが、在来の弥生人集団に飲み込まれてしまったであろう、その過程で怨念につなが抗争があったのか。在来の弥生人集団のボスが大国主の命であり、それはまた天孫族に滅ぼされる集団であった・・・との空想が過ぎる。
<続く>
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