以下に示す『鳥がのる家形埴輪』は、兵庫県加古川市山手の行者塚古墳出土の囲形埴輪と家形埴輪である。出土した行者塚古墳は古墳時代中期(5世紀初)の前方後円墳である。 これは加古川市文化財調査報告書15より模写したものであるが、屋根の棟の上に鳥がのっている。この鳥は何なのか・・・と云う課題である。これについて考えてみた。またまた、結論があるようで無いような噺ではあるが・・・。
鳥が載る家形埴輪から、いきなり唐突なことどもに噺を飛ばして恐縮である。
卑弥呼(日御子)は、日の御子で太陽を象徴している。その卑弥呼を天照大御神に比定する見解は、プロ・アマ問わず多くの人々が表明している。天照大御神もその漢字が示しているように、太陽神に他ならない。学習院大学名誉教授・諏訪春雄氏はその著作で、『日本の王権は中国の南に起源し、王権神話の骨格は南の稲作文化の一環として日本へ伝来した。日本の王権神話で、最も重要な位置を占める神は天照大御神である。この神は明らかに稲を司る神、稲魂、穀霊としての性格を持つと記しておられる。更に『古事記』によると、
〇アマテラスは水田をつくり新嘗を主宰している
〇アマテラスとタカミムスヒが最初に地上に降臨を命じたアマテラスの子アメノオシホミミは、威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味を持っている』・・・と、続けて記述されている。
『古来、稲作には水と太陽は不可欠であり、そこから太陽信仰が派生した。天照大御神はその字面もさることながら、以下の神話は広く知られている。天岩戸神話で、天照大御神は天岩戸に籠る。これを日食とも冬至とも、あるいは鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすることが、太陽神としての性格をあらわしている』・・・とも記されている。
この天岩戸神話に類似する神話(民話)がインドシナ半島に存在する、おまけに鶏が登場するモチーフも同じである。東南アジアには広く日食・月食の起源神話が伝えられている。もともと人間であった日と月の兄弟、それともう一人の弟のうち、日と月とは死後に太陽と月になるが、行いの悪かった末弟は怪物になってしまう。日食・月食はこの怪物となった弟が兄達を飲み込もうとして起こる現象であると説くものである。アマテラスにも弟に月の神もおり末弟のスサノオが、乱暴を働くことで太陽神が隠れてしまうという点で、この東南アジアの神話に類似していると言える。
古代インドのアスラ(阿修羅)であるラーフー説話が、東南アジアの日食・月食の起源神話の源流と考えているが、北タイでは以下の儀礼と伝承が伝わっている。
チェンマイではラーフー神を祀る儀礼が行われていると云う。それは天体の配置図の中で、月と太陽とラーフー星の位置が同じ宮に入る時(時には月食や日食が起きる)を選び、一年に一度行われる。
ラーフーは4本の腕と1本の尾をもつアスラ(阿修羅)。乳海撹拌のあと、神々とアスラは不死の霊薬アムリタをめぐって争い、アムリタは神々の手に渡った。神々は集まってアムリタを飲んだが、その中にラーフーが神に化けて、アムリタを口にした。それを太陽と月が見つけて、ビシュヌ神に知らせた。ビシュヌ神はチャクラを投げて、ラーフーの胴(首ともいう)を切断したが、すでにアムリタを口にしたラーフーは不死になってしまった。そして天に昇り、告げ口したことをうらんで太陽と月を飲み込んで日食や月食を起こすと云う伝承である。
中国、朝鮮に太陽神が存在せず、何故日本に存在するのか? 太陽神は単なる神の一神ではなく最高神でかつ女神である。その理由は先に記したが、オーストラリア・クイーンズ大学Doctor of Philosophy・角林文雄氏によると、古代日本の女神信仰の源流は、縄文時代に東南アジアから伝播したものとする。そう云えば、最近の金沢大学の研究では、縄文貝塚から出土した人骨のDNA解析では、約4000-8000年前の東南アジア・ホアビン文化をもつ人々と一致したという。https://blog.goo.ne.jp/mash1125/e/923cb65e2400127085df182d10018ca9
以上のように日食に関する説話や、女神と稲魂と太陽が一体となった、いわゆるアマテラス的信仰が、東南アジアの多くの少数民族にほぼ共通しているのは、いずれも農耕民族であることによると思われる。尚、その祖源は西方インドかと思えるが、これはド素人の判断で確たる論拠はない。
ここでもう一度、天照大御神と須佐之男命の天岩戸神話に戻る。須佐之男命の暴虐に対し、天照大御神は天岩戸に幽(こも)る。そこで八百万神は常世長鳴鳥を登場させる・・・この夜明け前に鳴く雄鶏の不思議な能力は、畏敬の念を抱かせる。鶏は太陽神(日神)信仰を支えた時告鳥(ときつげとり)として重要視された。つまり『時』の管理は、古今東西に於ける支配者の特権である。天照大御神は卑弥呼であろうと先に記したが、卑弥呼は鳥装のシャーマンであった。
『鳥がのる家形埴輪』は古墳時代中期の5世紀初めのものである。それを遡る弥生時代の鳥の噺である。
鳥の木製肖形は全国の弥生遺跡から出土する。この鳥肖形については諸説あるが、悪霊の侵入を見張る役目をするのであろう。つまりは”ウチ”と”ソト”との結界である。これを日本の神社の鳥居の原形であるとする説が存在する。あるいはそうであろう。この笠木の天辺に鳥がいる鳥居、そのルーツは朝鮮半島の鳥竿(ソッテ)である・・・と、荻原秀三郎氏は指摘する。その著作の中で、氏は以下のように綴る。
その鳥竿のルーツを更に追うと、中国に行きつき、それが最終的にミャオ(苗)族の習俗にもとづいていることを突き止めた。古代ミャオ族は、中国江南に居住する民族で三苗と呼ばれていた。そのミャオ族は、新年になると鳳凰に似た木彫の鳥を止まらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱という。この芦笙柱は村の広場の中央に立てられる。この神聖な場所は東西軸(太陽の運行軸)を重視する。つまりこの芦笙柱は、太陽が依り坐す柱である。太陽と鳥といえば3本足のカラスで、日本では八咫烏と呼ぶ・・・ここまでである。
優れた連想であるが、何故鳥居が鳥の肖形が載る一本の柱ないしは、竿に繋がるのか・・・やや理解しがたい想いが残る。神社の鳥居は鳥竿や芦笙柱と云うより、境内の”ウチ”と”ソト”を区分する結界に他ならず、古来そうであったと思われる。吉野ヶ里の内郭入口に建つ結界、更に次の写真は、チエンマイ近郊のバーン・トンルアンのアカ族の集落入口に立つ結界である。
双方共に内と外を隔てる結界以外の何物でもない。ここで笠木に載る鳥の役目は、エイリアン(村の外の不審者)や悪霊の侵入を監視することである。ここでは便宜上鳥居と呼ぶが、この結界としての鳥居が、何故鳥竿とか鳥柱に結び付けられるのか?・・・との単純な疑問である。
『鳥が載る家形埴輪で考えたこと』とのテーマで考えたことを綴っているが、埴輪に論が及ぶ前のイントロが冗長で恐縮である。今回はここまでとする。
<続く>
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