射日神話の中心は中国にあるものと考えられる。その神話の原形的な形と思われる二段構成の形式をとっているものは、ミャオ族、トン族、チワン族など江南の少数民族①の伝承を主とする。例えば貴州省黔東南(けんとうなん)に伝わるミャオ族の古歌にうたわれる射日神話は、前半が複数の太陽の出現とこれを射る話、つまり「射日神話」で、後半は残された日一つの太陽が恐怖のあまり岩穴に隠れたものの、ニワトリの美しい鳴き声で呼び戻される話、つまり「招日神話」である。こうした二段構成の太陽の説話は、必ず射日と招日がセットになっていて、まれに射日神話が単独にあっても、招日神話に前段としての射日神話を欠く例は一つもない。
洞窟に隠れた太陽を呼び出す「招日神話」の前には、決まって多数の太陽の話があり、太陽を射る射日神話があるが、記紀の天岩屋神話は前段の部分がない。しかし、日本をとりまく東アジアに射日神話が分布しており、我が国にも断片的にその伝承がある限り、天岩屋神話にも当然前半があったはずである。
中国の多数の太陽の話は、歴史的には殷の十日(じゅうじつ)神話にさかのぼることができる。中国の神話を含んだ地理書『山海経』によると、羲和(ぎか)という神が十の日を生み、日月を主管し、夜と昼をつくったとしている。殷人は、日々昇る太陽を同一の太陽とは思わず、それぞれ個性をもった十個の太陽と考え、それぞれ日甲、日乙、日丙、日丁、日戊、日己、日庚、日辛、日壬、日癸と名づけた。いわゆる十干である。日々の太陽は十日で一巡するとされ、それを一旬と云った。
『十日神話』の流れを汲み、十一あるいは十二の太陽と月を描き、樹下でこれを射落とす人物を配した神樹図が、湖北省随州市の曽侯乙墓出土の衣装箱に描かれていた。前5世紀の楚文化に属するものである。太陽中の陽鳥とされる鳥はまだカラスとしては描かれていない。その鳥はかなり特異な姿をしており、内棺の表面に描かれた棺内を守護する霊鳥とまったく同じ形式の描写がされている。
衣装箱には銘文があり、農業の吉祥を示す星を祀り、調和を得て豊作であらんことを祈願する意が示されている。神樹も、そうした祈りをこめた射日神話の神樹であり、日月星辰、つまり天体の順調な運行、秩序ある運行を祈願したものであろう。
以上、荻原秀三郎氏の著作『神樹』から引用した。当件についてはコメントする知識を持たない。しかし、天岩戸神話が前段の太陽を射る説話をのせないのは何故か。天照大御神は太陽を人格化したものであろう。何故かの理由は、そこらへんに存在するかと思われる。
注①:荻原秀三郎氏は、ミャオ族、トン族、チワン族などの本貫の地は呉越にあるとされている。
<了>
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