世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

魏志倭人伝・食飲用籩豆手食(前編)

2019-11-08 07:10:44 | 古代と中世

 

 邪馬台国の時代、つまり弥生時代の食事風景はどうであったろうか。いわゆる魏志倭人伝には、「食飲用籩豆(へんとう)手食」と記載され、倭人は生菜を食し、高坏を用いて手食するとある。つまり、高坏に盛った蒸した米を手でつまんで食べたことになる。高坏に盛った蒸した米とは、”おこわ”で糯米(もちごめ)である。魏志倭人伝によると、邪馬台国では糯米が食されていたことになる、赤米であろうか。


現代では食べ物は、食卓(テーブル)に置くというのが、半ば常識であろう。中国の古代祭祀では、神に供える神饌とか生贄は、盤(日本で云う盆)の上や背の低い几(き)にのせた。几は後世に机(き・つくえ)となった。

古代中国では、人々の食べ物は地べたや床に直に置かれたであろう。しかし時間の経過と共に、神に供える神饌に倣ったであろう、盤の上に皿や杯をのせるようになった。古代祭祀に几が用いられたように、後漢代には案(あん)と呼ぶ脚付膳が、食事に用いられるようになった。

遼寧省遼陽の三道壕第四窰廠の後漢の壁画墓に描かれた宴飲図、夫婦が向かい合って食事している。向かって左の夫人の前には、盤にのせた小皿が五枚、右の夫の前には、明らかに脚がついた案(日本で云う卓袱台・ちゃぶだい)が置かれている。

ところで宴飲図に描かれた夫婦は、正座か跪座であろうか・・・であるとすれば、膝が胸下まできており違和感が残る。下に漢代を遡る秦の加彩男子象を掲げておく。

 

これは明らかに正座で膝の位置が、さきの宴飲図夫婦像の位置より低い。したがって夫婦は胡床(床几)に座していたものと思われる。

以上、古代中国と古代の朝鮮半島付け根(遼寧省)では、上層階級であろうとの前提であるが、食事の際に盆や案(几)が使われていたであろうことを観てきた。

魏志倭人伝には『食飲用籩豆(へんとう)、手食』とある。邪馬台国の前代である古代中国の食事風景を先述のようにみてきたが、手食であったのか匙や箸を用いていたのか、遼寧の宴飲図では不明である。

箸の起源は、紀元前15世紀の中国・殷の時代の青銅製で神饌を、供えるための儀礼用途であるという。その箸が日常の食事にみられるようになるのは、前漢(前2世紀)であると云われている。従って宴飲図の夫婦は箸ないしは匙を用いたであろう。尚、遼寧から朝鮮半島を下った楽浪郡の後漢代の遺跡から箸と匙が出土しているとのことである。

日本に箸が伝わったのは3世紀頃の弥生末期で、その頃の遺跡から竹を折り曲げたピンセット状の折箸が出土している・・・と記した多くのBlogやHPが存在するが、出土した遺跡名が記されておらず詳細がはっきりしない。

『古事記』の須佐之男命と八岐大蛇退治の条には、箸流れ伝承が存在する。『出雲國の肥の河上、名は鳥髪に降りたまひき、この時箸その河より流れ下りき、ここに須佐之男命、人その河上にあると以為ほして・・・』と記されている。伝承に史実性がどこまであるか・・・箸流れ伝承が史実であるとすれば、やはり弥生期であろう。箸が存在したとすれば、祭祀用途であったとするのが一般論のようである。

いや箸が用いられたのは縄文期からであるとする説が存在する。縄文遺跡から棒状の漆器が発見されており、これを日本最古の箸であると東京芸大の三田村有純教授は、その著作で主張している。縄文土器を使い始めた時期から、熱い碗から素手で食事を摂る訳にはいかず、箸は必要であったろうと推測している。

弥生期の食事における箸使用の可否については、上述のようにはっきりしない。

しかし、匙が用いられていたことは、弥生期の遺跡から大量に出土したことから明らかである。鳥取市青谷上寺地遺跡からは木製スプーンが出土し、同じ弥生時代に煮炊きに使われた甕型土器に残る炭化物から、穀物は水を加えて炊いていたであろう。木製スプーンが合わせて出土したとなると、米や雑穀を炊いて雑炊のようにして、スプーンで食べていたとも考えられる。

 

(写真は、弥生の館むきばんだ展示のジオラマで、煮炊き用の甕から匙で碗状高坏に取り分けている様子を想定復元している。各人これをススルのか、それとも小匙を使ったのか?・・・そこまでは表現されていないが、スプーンは存在したであろう。)

また日本各地の弥生時代の遺跡から甑が出土しており、魏志倭人伝記載の蒸す調理法が存在していたことを裏付けている。弥生時代の日本、糯米(もちごめ)が先か粳米(うるちまい)が先かの課題が残っているが、魏志倭人伝が記すように手食が中心であったと思われる。

(残念ながら弥生期の甑の写真が見当たらない。写真は米子・福市考古資料館展示の古墳時代の竈・甕・甑である。弥生期には未だ竈はなく、炉で甕と甑を用いて強飯を蒸してつくった。)

噺が支離滅裂のようで恐縮であるが、朝鮮半島や大陸は箸と匙(さじ)の文化圏である。手食は南方の文化圏であろう。タイ人はカオニャオ(おこわ・強飯)を手で丸めて口に運ぶ、手食の習慣が残っている。つまり弥生期の食事風景は北方系というか大陸系(箸・匙)と南方系(素手)の習俗が混じりあっているように思える。

さて、箸・匙論以外に食事に使う器具類は他にも存在する。先に記したように几・案の類もあれば、食器も存在する。先ず食器から考察することとする。多くの弥生遺跡や関連博物館・資料館に想定復元展示されている竪穴式実物大住居やジオラマ展示、そこには食事風景も展示されている。

写真は大阪府立弥生文化博物館の展示である。親子4人が炉を囲んで食事している。ここには箸や匙は見当たらないが、高坏をみることができる。その高坏には“おこわ”(強飯)がもってある。他に貝が高坏にのり、戸主の前には碗がある。汁か濁酒か?

大阪府立弥生文化博物館以外の展示でも高坏をみることができる。いわゆる皿や盆(極一部だが出土している・次回記述)は見かけない。してみるとそれなりの清潔感が伺われる。地べたより一段高い位置に食べ物が並んでいることになり、羹(あつもの)は匙で食したのであれば、現代の食事風景に近い姿が浮かび上がる。

ついでだが戸主は胡坐で夫人は正座のように伺える。これらは一般的な姿であろうか? 尚、いずれも獣の毛皮の上に坐している。筵(むしろ)状のものが多かったであろう。博物館・資料館によっては藁で編んだようなマットに座っていたが・・・。

(上の写真は北九州市立いのちのたび博物館展示のジオラマである。乾燥した葦であろうか、土間一面に敷き詰められている。これに炉の火が移れば危ないことこの上ない。これはないであろう。先に弥生の館むきばんだ・ジオラマ写真を掲載したが、そこには筵のような敷物が見られる。)

筵やマット、毛皮以外に椅子(腰掛)も存在していた形跡がある。これは庶民用途ではなく大人(首長)が用いたのであろうか? 食事の際に高坏と椅子の組合せは考えられないことではなさそうだが、やや無理であろう。

(写真は弥生時代末期の木製の椅子で、鳥取・青谷上寺地遺跡の出土である。静岡・登呂遺跡から多種多様で豊富な木製品が出土した。そこから腰掛も出土したが、他の多くの遺跡から出土する訳ではないので、庶民が用いたとするにはやや無理がありそうだ。)

噺があちこちに飛んで申し訳ないが、ジオラマ展示にもあるように食べ物の炊き方は炉であった。当時の中国や朝鮮半島にあるような竈(かまど)は、後の6世紀ごろの古墳時代からである。

(写真は吉野ヶ里遺跡の実物大展示である。炉の中の三脚のようなところに、煮炊き用の甕を掛けたのである。)

先にみたように、高坏には強飯が盛られていたが、毎食飯を食べるほど稲作の収量があり、それなりの水田面積を確保していたのか・・・との疑問もある。

 

(北九州市立いのちのたび博物館展示のドングリのアク抜き晒し場とドングリ貯蔵穴である。晒し場は竪穴住居の直近を流れる小川に設置されていたという。貯蔵穴に秋に収穫したドングリを貯蔵していたようだ。)

北九州市立いのちのたび博物館では、大量のドングリのアク抜きする晒し場が、竪穴式住居の直近に設けられた展示がある。つまり強飯や木の実・雑穀が主食であったと思われる。

以上、弥生期・庶民の食生活風景を考えてみた。見方によっては健康的な食生活であったとも思われる。

 

<続く>

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿