世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

双魚文考#4

2018-03-22 07:34:49 | 北タイ陶磁

<続き>

そこで帰国後、資料を渉猟することになる。先ずは金首露王陵の解説版にあった古代インドの双魚文である。調べると古代インドの天文である黄道十二宮に双魚宮(Pisces:ピスケス)があり、占星術では魚座とある。その初出は古代インドではなく、古代バビロニア(前19世紀-前16世紀)で、西に伝わったものがギリシャ神話の体系に組込まれ、インドにはギリシャから紀元前後に伝播したようである。尚、古代バビロニアとは、メソポタミア(現:イラク)南部を占める地域である。

時代はくだるが、アケメネス朝ペルシャの創始者キュロス大王は、紀元前550年にペルシャを治めていたメディア王国を倒して独立し、その後新バビロニア王国を倒してオリエントを支配下に置いた。そのアケメネス朝ペルシャの都であるパサルガダエの宮殿址に、4枚の羽根を持ち、エジプト風の王冠を被った人物像が残っており、その王冠は三匹の魚が装飾されているとのことであった。

さらに古代四大文明からの出土品を掲載した美術全集をあたっていると、インダス文明前紀のメヘルガル(Mehrgarh)遺跡から、出土したという魚文を描いた陶器皿の写真が掲載されていた。

解説文によると、その皿は前2800年頃の金石併用時代の陶器で、径は23.2cmとある。そして出土地はパキスタン・バロチスタン(Balochistan)州で、現在のクエッタの南東、インダス川の西方山岳部に位置する。そこでは轆轤を使い、硬く焼かれた陶器は薄く、表面には幾何学文や動物文が描かれていたとのことである。その魚文皿の模様を調べると、見込み中央には3重の円圏が描かれ、その3番目の円圏の外側には、相対する2箇所に外側に向かって二葉の水藻が配置されている。3重円圏と見込みから器壁(カベット)にたちあがる部分に描かれた2重円圏の間に、陰陽に配置された双魚が描かれている。魚眼は顔にあたる部分の中央に大きく描かれ、顔は塗り潰されている。そして尾鰭は、サンカンペーン窯の魚文にも見ることができる、大きく二股に分かれたそれである。更に器壁には、左向きに回遊する三匹の魚文が、描かれている。

写真ではあるが、この前2800年頃の魚文皿を見ていると、“なぜ双魚文なのか”という命題の何がしかが、分かるような気もする。

さて古代インドの双魚宮であるが、種々調査すると不滅の生命力を持つとされ、ヒンズー教のビシュヌ神が魚(釈迦の前世も魚)に化身したとも云われていることが分かった。そのような過程を経て仏教にも取り込まれて、仏足石にも刻まれるようになったかと思われる。その仏足石、わけても南伝沿いの東南アジアのそれを概観する前に、中国の魚文について見ることにする。

中国の魚文については陶磁器文様に限らず、織物や金属器、漆器等々の器物にまで範囲を広げたが、さきの新石器時代に相当する前2800年頃のメヘルガル遺跡から出土した、魚文陶器皿の時代まで遡るような魚文を探しだすことはできなかった。

図は前3世紀(秦)の彩漆鳥魚文盂である。湖北省雲夢県睡虎地11号墓から出土したもので、魚と鳥は必ずしも写実的ではなく、図案化しているが、軽快な感じがする。水中の魚を鷺が追う情景は、収穫の豊饒を意味するという。このモチーフは中国でも、前3000-2000年頃からと云われているが、その現物はもとより写真でも見たことはない。尚、『盂』とは秦漢時代の用語で、木製の飲器や盤をそのように呼ぶとのことである。興味があるのは、その器形で、器壁が弧を描き大きく開く盤で、口径に対する高台径の比率が大きく、かつ高台が低いのは、後世のサンカンペーン陶磁盤の形と似ているが偶然の一致であろう。

次の写真は前漢初期(前2世紀)の彩漆三魚文耳杯である。これは湖北省荊州市江陵鳳凰山168号墓から出土したもので、見込み中央に四葉文を置き、それを巡って時計回りに3匹の魚が回遊している。魚文の頭部は紅漆で塗り潰されており、鱗は波状に表現されている。中国では魚文は双魚文として、陰陽に配置されて定着するが、前漢代ではまだ魚の数が固定していないようである。

釜山・梵魚寺と金海の金首露王陵で見たことに触発され、帰国後西方ペルシャと中国の魚文の初出を探ってきた。その目的を必ずしも達したとは思っていないが、双方共に2000年前程度の話ではなく、新石器時代や金石併用時代まで遡れそうである。

 

                          <続く>

 


双魚文考#3

2018-03-21 09:50:01 | 北タイ陶磁

<続き>

“なぜ双魚文なのか”という命題探求は頓挫するとともに、暫し頭からも離れ、忘れてしまうことになった。

2010年7月21日、韓国・釜山へ旅をした。その7月23日、釜山市街の北に位置する梵魚寺へ向かった。韓国禅宗の総本山とのことだが、それは金井山の麓で脇には渓流が流れる絶好の地である。その梵魚寺の鐘楼を見ていると上の梁から魚の形をした、多分木魚であろうものが吊り下がっている。それを叩く槌状のものがあったかどうか記憶にない。この木魚も他と同様極彩色に彩色されている。この木魚を当地ではどのように呼ぶのであろうか?

日本では何種類かの呼び名がある。京都の黄檗宗・万福寺では彩色はしてないものの、これを開梆(かいぱん)と呼び、山口の瑠璃光寺では梆(ほう)と呼んでいる。いずれも彩色はないが、瑠璃光寺の梆は梵魚寺の木魚と形が似ている。それぞれ上から万福寺の開梆(かいぱん)と瑠璃光寺の梆(ほう)の写真を掲げておく。

そしていずれも口内に玉をくわえているが、これは煩悩の象徴で、木魚の腹を棒(槌)で叩いて煩悩をはきださせるとか? 一般的には修行僧に時を告げるために用いられた。

ところで仏教では如来、菩薩や天部の仏像以外の造形物や図像は架空の霊獣文や仏杵文、法輪文や吉祥文などで、生物なかでも動物では象(特に白象)、猿など少数であるが、そこに何故魚がモチーフとなっているのであろうか? よく喧伝されるのは、魚の卵は多産で家門繁栄の証と云うが、これは中国古来からの風俗・風習、つまり道教的土俗であって、この見方は仏教にはあてはまらないと思っているが、何かがありそうだ。

その木魚について意識が新たな当日の午後、金海市の金首露王陵を観光すべく出掛けた。その金首露王である。西暦42年に亀旨峰に降誕したとの説話がのこり、しかも卵生説話で南の風俗を思わせる。その陵墓は別名納陵と呼ばれ、正門には婆娑石塔に似た白い石塔をはさんで、インド゙で一般的に見られる双魚の模様がある・・・と解説板に記述されている。

(金首露王陵正門)

首露王妃は三国遺事によると阿渝陀国(インド゙に比定)から来たと記録されている。その旦那である王陵の正門に、インド古代の文様・双魚文がある、との記述である。三国遺事は13世紀末の私撰本であり、納陵正門も李朝の時に建立されたものであり、これらの話の信憑性には多少疑問を感じないでもない。

しかし、さきの梵魚寺の木魚に続いての魚である。何かありそうだとの直感。思い出した。京都・智積院で見た仏足石に刻まれている魚文である。これは単魚のようにみえるが、どうもこれが双魚文のようだ。仏足石ではこれを双魚相と云い、それが刻まれている場合が多々あるようだ。

(智積院仏足石)

一説によると、この双魚相は不滅の生命力を表すという。釈迦の前世の最初が魚であるとの伝承や古代インド神話に、陸地の生物が地面の爆発で全滅した時、海の中の魚だけが生き残ったというところから、不滅の生命力・・・云々の伝承になったとのことである。

ここまでくると、ことの真偽はどうなっているかとも思うが、日本も韓国も古来似たような伝承が残っているとすれば、双魚文は古代からの中国の道教的土俗とばかり思っていたが、釈迦入滅前後の古代インドにも魚や双魚の形で、その生命力にあやかりたいとの願いがあり、仏教の南伝と東伝とともに各地に伝播していったのであろうと思われた。またまた、“井の中の蛙、大海を知らず”とばかりに、無知をさらけだすことになった。

 

                        <続く>

 


進歩しないチェンマイの公共交通機関

2018-03-20 08:00:29 | チェンマイ

昨日、駐チェンマイ日本総領事館に在留届提出に行くことにした。滞在先のカンタリーからシーロ(ソンテゥ)を探す。最初のシーロは2人で150Bと宣う。次々と尋ねるが100B、120B、80Bとの応え。5度目に50B(1人25B)でOKとのこと。そのシーロにて先ず空港へ行った。空港ではドンムアン(DMK)の往復チケットを入手した。

記憶がやや不鮮明だが、2-3年前であろうか赤色シーロを用いた定期バス路線が、確か4路線存在していた。20分毎の運行で、スマホ等で運行状況が表示される仕組みで、1乗車20Bでありそれなりに重宝した。どーも、この4路線は雲散霧消したようである。

写真はその4路線のうちのNo,4ルートのバスストップであるが、なにか物悲しい。

それに代わると云えるかどうか? チェンマイ・アーケードを起点にB1,B2,B3と3路線が、ミニバスで運行されているようだが、運行頻度は40分間隔のようで、しかも二マンへ―ミン通りはルートから外れており、とても使えた代物ではない。

空港から総領事館は500~600mであろうか、この間は徒歩にした。道々街路樹を見あげる。桜に似た淡いピンクの花木を見た。

真下に行って注視していないので、間違っていれば御免なさいだが、多分ドーク・シアイオであろう。その近くにはサルスベリの薄紫の花が満開である。

そのうちに総領事館に到着した。

(玄関を入り正面が総領事館である)

領事館からカンタリーへの戻りであるが、シーロを捕まえ聞くと150B。またか!。またまた値段交渉にウンザリである。向かいのセントラル・プラザから無料の買い物シャトルでセントラル・フェスティバルへ行き、買い物後やはり買い物シャトルでカンタリーに戻ることにした。幸いセントラル・プラザからは待ち時間なしで乗車でき、セントラル・フェスティバルへ行くことができた。その周辺は高層のマンション建設ラッシュである。

様変わりが始まりだした。今まではせいぜい14-15階どまりであったが、25階以上のマンションが建ち始めたのである。噺がズレたが、公共交通機関の噺に戻す。

来月(1日からか、ソンクラーン明けか不明だが・・・)から20分間隔で、MAYAを起点に左回り、右回りの定期バス(RTC Bus)が運行を開始するという。ニマンへミン通りを通過するので、便利至極である。

雲散霧消しないよう願いたい。いずれ利用したらレポ―トしてみたい。

 


双魚文考#2

2018-03-19 08:58:54 | 北タイ陶磁

<続き>

故・三上次男氏は平凡社刊陶磁大系四十八巻<ペルシャの陶器>で以下のように述べている。・・・ペルシャ陶器の東西交流について中国の影響を受けたことは記述してきたが、反対に影響を与えたことどもは、中期ペルシャ陶器の精巧な白釉藍彩陶器や中期ラスター彩陶器の技法は、元時代の白磁の装飾技法に刺激を与えて、元染付や釉裏紅を産みだしたと考えられ、また元時代にはじめて使われはじめたアルカリ系の孔雀釉(トルコ青釉)も、中期ペルシャ陶器が影響を与えたものである。

写真の白地藍彩双魚文鉢をみていただきたい、時期は13世紀前期から中期と考えられ、口径は15.5cmである。この藍彩の呈色剤はコバルトであり、いわゆる染付の色である。そしてその図柄は陰陽に配置された双魚で見込みから口縁にかけては放射状の文様となっている。その類似性は元染めのみならず、サンカンペーン窯の双魚文盤ともよく似ている。

それではペルシャで、魚文を陶磁の装飾に用いた初出はいつであるか、調べてみることにしたが、具体的な調査方法も思い浮かばず、陶磁器に限定した選定のまずさも手伝い、13世紀初期のイラン・カシャーンの白地黒彩色魚藻文鉢にしか、たどりつくことは出来なかった。一方の中国では、ディビット財団が所有する古越磁の双魚文洗が知られている。時代は三国時代に続く西晋の3世紀である。

(古越磁 双魚文洗)

これも陶磁器に限定した調査であり、織物文様等を含むその他の器物の文様を調査しておらず、一般論として漢代(前漢:前206-8)まで遡るとされる、双魚文の初出については、手に負えないとの思いもあり、調査していなかった。以上のように魚文について、調査上の欠陥があるものの、今までの調査結果をまとめたのが以下である。先ず次の双魚文の文様を見ていただきたい。

これは当該ブロガーが保有する青磁双魚文盤である。その魚の尾鰭は二股に分かれ、その先端はカールを描いている。この尾鰭はサンカンペーン窯の特徴をもった描き方で、シーサッチャナーライやスコータイ諸窯の魚文に例がない特徴である。この盤の焼成年代は14-15世紀と考えているが、この特徴はのちほど記述する変遷があって、一般化したものであろうと考えている。

その変遷を考察する前に、東西の魚文の描き方について触れてみたい。尾鰭が二股状に大きく分かれる魚文の初出は、狭い認識ながら12世紀の中国・南宋前期の龍泉窯青磁魚文鉢にみることができる。次の図は松岡美術館が所有する鉢の文様を写しとったものであり、見込み全面に九匹の魚文が劃花で表現されている。先の双魚文の尾鰭形状と似ていなくもない。しかし、どことなく異なっているようにも見える。

一方西のペルシャでは13世紀に入ると、先に紹介した白地藍彩双魚文鉢が出現する。これは見込みから口縁にかけて放射状の文様とともに表現されており、かつ双魚が陰陽配置になっていることから、ほぼ中国陶磁の影響を伺うことができる。この双魚の尾鰭は先の松岡美術館・龍泉窯青磁魚文鉢より、もっと大胆に二股になっている。中国でこのような尾鰭の文様が現れるのは、14世紀の元代になってからである。トルコ・トプカプ゚宮殿が所蔵する14世紀元代の龍泉窯青磁双魚文盤の文様を写しとったのが下の図である。この双魚は劃花で現わされているが、その尾鰭は南宋前期の劃花魚文に比較し、二股に分かれる度合いが顕著になっている。このことについて資料数が少なく、断定的な表現はできないが、時代の前後関係からトプカプ宮殿の龍泉・青磁双魚文盤の劃花文様は、ペルシャの影響を受けた可能性もあながち否定できないと思われる。

下の写真はバンコク・タマサート大学のPitiphat教授がその著作で紹介しておられるサンカンペーン窯青磁双魚文盤の見込み文様である。教授による時代認識は14-15世紀とのことである。この手の文様の数は多くはないが、これは比較的初期と思われ、龍泉窯青磁双魚文盤よりは、前出のペルシャ・白地藍彩双魚文鉢と似ているように見える。

次の緑釉魚文皿はペルシャ14世紀中期のイル汗朝期のものである。全体的な意匠は明らかに龍泉窯青磁魚文盤の影響を受けていると考えられるが、魚文は3匹に変化し回遊する形になっている。双魚というより、魚文そのものに価値を置く背景があるのであろうか。それはトリムルティーであろうか?

この3匹が回遊する形の魚文はサンカンペーン窯の盤にも存在している。次は前出同様、Pitiphat教授紹介の盤で時代は15世紀とされている。この魚文配置はサンカンペーン窯で独自に創出されたとの考え方もあり、これを否定するには材料が足りないが、同じような位置づけでペルシャとの関連も否定はできないとも思われる。

以上、サンカンペーン陶磁へ西側(ペルシャ)の影響を考えさせる何かがあると思うが、残念なことにターク周辺、オムコイ山中の発掘現場、さらにはサンカンペーン古窯址から、ペルシャの何がしかが出土したとの報に接しておらず、幻の空論か・・・と思っていた。

以上のようなことで、“なぜ双魚文なのか”という命題探求は頓挫するとともに、暫し頭からも離れ、忘れてしまうことになった。

 

                          <続く>


<ブログ掲載1000回記念・北タイ陶磁特集>双魚文考#1

2018-03-18 09:33:51 | 北タイ陶磁

中断していた<北タイ陶磁特集>を再開する。特集5回目は、双魚文考である。字面ばかりで恐縮である。

サンカンペーン陶磁に魅了され二十数年が経過した。以下は、北タイ陶磁の装飾文様として多用されている魚文について、2010年頃に考察した内容である。今日読み返すと訂正する箇所も多々目に付くが、2010年当時の原文のまま紹介してみたい。

サンカンペーン窯に限らず、スコータイやシーサッチャナーライ各窯の鉢や盤類の装飾文様として、魚文が施されている。特にサンカンペーン陶磁では、単魚文や複数魚文もあるものの、圧倒的に鉄絵や印花の双魚文が多い。なぜ双魚文なのか、という命題である。

この双魚は太極配置であり、中国では魚の産卵は、多産であることから豊穣を示すもの、転じて家門繁栄を表すものとして、道教的土俗信仰と結びついていた・・・と考えていた。

(写真は、バンコク大学付属東南アジア陶磁館の比較展示で、龍泉窯の青磁貼花双魚文盤とサンカンペーン褐釉印花双魚文盤を並べて展示している)

して、それを体現した龍泉窯青磁の貼花双魚文盤が、ターク近傍やオムコイ山中から、サンカンペーン陶磁と共に出土している。従ってサンカンペーン陶磁の双魚文は、中国の影響を受けた文様であろうと考えるのは、当然の帰結であったが、サンカンペーン陶磁には、西方のアラベスク文(幾何学文)に似た文様も多々あることから、魚文や双魚文にも西方の影響が少なからずあるのでは・・・との想いも抱いていた。

(写真は当該ブロガーのコレクションの一つであるが、明らかにアラベスクないしはパルメット文を表している)

そのアラベスク文に似た文様は、サンカンペーン窯のみならず、隣国・ミャンマーの錫鉛釉緑彩盤にも見られることから、アンダマン海に面したペグー朝治下のモッタマ(Mottama:Martabanともいう)からダウナタウンダン、タノントンチャイ両山脈を越えて、ランナー朝にもたらされたと思われる。しかし、その影響度合いについては、2010年9月現在の今に至っても、よく分からない。それは、ペルシャの何がしかがタイ北部から、サンカンペーン陶磁などと共に出土した、との報に接していないことによる。

以上のような状況で、サンカンペーン陶磁の文様として、なぜ双魚文なのかという命題について、中国の影響であろうが、これと云った結論を得ていなかった。しかし2010年の初めに故加藤卓男氏の著作『三彩の道』をたまたま手にした。それには“奈良三彩の源流を探る”との副題がついている。

この著作を読んでいると、まさに“井の中の蛙、大海を知らず”である。氏は漢の緑釉は漢代に、彼の地で創成されたものではなく、漢代以前に地中海沿岸、小アジアの西方パルティア朝時代に、シルクロードを経由して導入されたとある。窯業や陶磁技術は中国から伝播したとの記事が多い中、何か新鮮な響きを持っているように思えた。それは、古代ペルシャ緑釉→漢緑釉→唐三彩につながり、古代ペルシャ緑釉→ペルシャ三彩につながったが、ペルシャ三彩は唐三彩の影響も受けているとのことであった。

その後、時は経過し11世紀半ば中央アジアのセルジューク・トルコ族が南下し、アッバース朝にかわってペルシャの主導権を握り、西アジアを支配することになった。これがセルジューク朝(1038-1194)で、過去からのペルシャ陶器は大きな転機を迎え、黄金期と呼ばれるほど発展した・・・とある。

更には、東南アジアの緑彩陶磁についての記述もあった。氏の「三彩の道」P169に錫鉛釉緑彩盤が安南緑釉皿として紹介されているのは、ミャンマー錫鉛釉緑彩盤の誤りであるが、氏の説明によると・・・ペルシャ湾はもとよりアラビア海には、オスマンの商船が行きかい、故国の需要が強かったと思われる高火度の陶器をベトナム南部(これはミャンマーの誤りであるが)より運んだことであろう。16世紀の東南アジアは海上ルートによる東西交流が隆盛に向かった時期です。その頃のベトナム南部(ベトナムでないことは先述の通り)の陶器に西アジア特にペルシャの好みによる釉調や技法の影響がみられたことは興味深いものです。

最近、この付近の古窯址から、ペルシャ風の技法をつかった不思議な焼物が多量に発見されました。これは原料に酸化銅を使用した低火度鉛釉であり、この原形は12-13世紀、カスピ海南岸アモール、バボール、サリー等の古窯で生産された緑釉の技法です、重ねて考察すると、当時サラセン商人たちは商業貿易にきわめて熱心でした。彼らはペルシャ湾を経て、東南アジアに進出し、インド・マラバール海岸の胡椒を交易に使用し一攫千金を夢みつつ航行していました。

ペルシャ陶に似た作品が、東南アジアの各地で生まれたこと(各地とは何を指すのか不明)は、この技法が現地の陶工たちにとって大きな参考となった証しにほかなりません。したがってこれらの倣ペルシャの作品については、まさに「技術の伝播」の一端を示しているのであるといえましょう。・・・との記述であった。

文中『安南緑釉皿』は『ミャンマー錫鉛釉緑彩盤』の誤りであるが、かねてよりミャンマーの錫鉛釉緑彩盤の釉調やサンカンペーン窯の幾何学文も含めた、装飾文様に西方の影響を考えていたが、同様な見方であり、心強く感じた次第である。

そのペルシャ中期陶器の作りはじめられた、11世紀後期から12世紀前期は中国では北宋末・南宋初めの時代であるが、このころ中国陶磁の海外への輸出は増加をはじめ、北宋の越州窯青磁や景徳鎮白磁・青白磁は大量に海外へ運ばれた。それは西アジアやエジプトにまで及んでいる。これを輸入した土地ではコピーつくりがはじまった。事実、エジプトにおいては12-13世紀の中国青磁の酒会壷や鎬文のついた鉢をそのまま模した青釉陶器がつくられている。

一方、彼の地の白釉藍・黒彩陶器は、整えられた錫白釉の素地の上に淡い藍や緑黒で文様を描き、上を透明釉でおおったものである。鉢・皿・瓶・壷の類が多い。焼成火度が1200度前後にも及んでいるため半磁器(ストーンウェア)のようにみえるものもある。その文様には唐草文・パルメット文・花文・文字文・幾何学文などのほかに、魚藻文もあり、中国宋代陶磁の文様との類似を感じさせる。13世紀後半から14世紀のイル汗国時代には放線文や多弁蓮花文が現れ、これらは中国起源の文様である。

 

                         <続く>