石平が2017年に書いた本です。
この手の本は、結構出ているし、ネットでも色々出ているので、内容のほとんどは知っていることでした。
知り合いに、韓国人が何人かいるので、今のコロナは大丈夫か気になります。
3.11の時の菅首相の対応を見ていても、今の文大統領と似たようなもので、現実主義者でないと政権運営は危なくて任せられないし、コロナ対策も現実無視で、マスク製造なんか業者は原価以下で納品しろと言われているようで、たまったもんじゃないですよね。
この本に書かれているように、報復合戦や相手のあら捜しばかりしているようでは、そのうち企業は韓国国内にいなくなってしまうでしょう(特にサムスンが)。
安倍政権が長期化して、歪がいろいろあるのはわかりますが、桜を見る会にしたって、別の見方をすれば地元のアイドルを見に行きたいファンの集い、みたいなもんでしょ。鳩山さんや菅さんの時は、そんなファンがいたんでしょうか。
「今後、こういうことは自覚をもって慎んでいただきたい」の一言で終わりそうな話だと思います。少子高齢化対策とか、教育の無償化に伴い高度化をどうするのか、とか、議題はいっぱいある気がするのだけど。
本当にウネちゃんは、大丈夫だろうか。ほかの二人も。
最後に石平が引用していた福沢諭吉の「脱亜論」の明治18年版(引用した形)と現代語訳をWikisouceから引用しておきます。
「我國は隣國の開明を待て共に亞細亞を興すの猶豫ある可らず寧ろ其伍を脫して西洋の文明國と進退を共にし其支那朝鮮に接するの法も隣國なるが故にとて特別の會釋に及ばず正に西洋人が之に接するの風に從て處分す可きのみ惡友を親しむ者は共に惡名を免かる可らず我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」
「そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。」
中学生や高校生の演劇部を指導していた時期に、一番難しかったのは、脚本の選定に関してでした。
子供の成長には、時期時期があって、読書に例えれば、絵本から始まって、子供向けの童話、子供向けの小説、大人が読んでも子供が読んでも面白い小説、純文学と呼ばれるような高尚な小説、とレベルが上がっていくはずです。
しかし、どこかでつっかえると、「本なんて年間に1冊も読みません。ましてや、純文学なんて教科書に載っていたのしか知りません」ということになります。
脚本選びも同じで、選んでくる脚本を見ると(なぜか顧問の意向なのか脚本が選ばれてから指導に行くことが多かった)内容のなさに、頭を抱えたり、小説ならいいかもしれないが、舞台にするのは力業が必要だと頭を抱えてしまうことがままありました。あまりにもどうしようもないときは、「脚本を替えよう」と提案したりしましたが、時間的に間に合わないことがほとんどでした。
だから、ライトノベルというのは、ある時期の人間にとって、大切な出会いとなることがある。物語の表面的な面白さだけでなく、いろいろな人がいて、いろいろな思いがあるんだということを、体験できる。
演劇だと脚本を読んだときには、それをどう表現したらいいのか、想像することもできるようになる。
三萩せんや著「図書館ホスピタル」は何の前知識もなく図書館で借りてきた本でしたが、ストーリーを楽しめて、主人公の個性がストーリーを引っ張っていくという意味で、面白かったです。ただ、主人公の年齢設定や思春期の生活が、読者層に微妙かなとは思いましたけど。
ストーリーの中に「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル)の話が出てきますが、私は理由があって読んだことがありません。高校生の時に、当時「狐狸庵シリーズ」で人気のあった遠藤周作が学校に講演に来て、我々としては「どんな面白い話をしてくれるのだろうか」と期待したのですが、彼が話したのは、この「夜と霧」についてで、内容を覚えていないほど、つまらない話でした。
3年間のうち、ほかの二人のお名前は忘れたのに、内容は意外と思い出せるのですが、遠藤周作については「夜と霧」について、それも、やたら短かったような記憶しかありません。はたして、この講演を聞いて「夜と霧」を読んでみようと思った同級生はいたのでしょうか。