真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

2011年5月25日 水曜日

2011年05月25日 23時59分52秒 | Weblog
6,331位 / 1,586,343
昨日 :6897歩 起床時間 :6時33分
血圧 :109  60 脈拍 :67 体温 :35.5℃  体重 :69.0㎏ 晴
今日のことを考えると、早く寝なくてはと思っていたが、ブログに手間取り、1時を過ぎてしまった。
起きられるか心配なのでテレビのタイマーを、ひさしぶりに入れて寝る。

 7時に入れておいた、タイマーは必要なく、6時半には目が咲寝た。
体温と血圧を計り、下に行き歯磨きと洗顔、体重を計り、新聞を取り込み、昨日長男に買ってもらったチーズバーガーを電子レンジで温め、ホッと牛乳での朝食とする。
 7時半部屋に戻り、出かける支度をする。ルックの中に3脚も入れておく。
7時55分家の鍵を閉め、外に出ると、ツガイのカモが道路に居た。逃げようともしない。昨日、プチフールの奥さんがパンを上げたものだから、またもらおうと、待っている体であった。六仙公園を抜け8時9分、こぶし橋に出る。運が悪いと言うか、良いと言っていいのか、カワセミがとまっていた。道草になるが、そして写りもしないが、携帯を取り出し、写真を撮る。
8時25分東久留米駅改札に着く。まだ、誰も来ていないようだ。写真など撮っておく。富士山が見えないか、テラスに行く。
 はっきりとは見えないが、かすかに、富士山の姿が見える。集合場所の改札口に戻ろうとすると、リックを背負った、ご夫婦にであう。参加者かなと思い、声をかける。飯能のほうへ、ウォーキングに行くのだと言うが、富士山の話などお話をする。気が付け、集合時間の8時45分を過ぎてしまっていた。急いで改札口に行くとすでに荒明さんのところに4名ほどの参加者が集まっていた。テラスのほうに集まってもらうことにして、荒明さんを残して、良く。9時1名を残して予定の人たちが集まる。
 挨拶と、地図をお渡しして、
富士見テラスを紹介。
(東久留米駅西口2F) 駅改札口(2階)を出て右(西口)側に進み、自動ドアを通って通路を進んだところにある屋外のテラスです。名称のとおり、このテラスからは、西に向かって真っすぐ伸びる「まろにえ富士見通り」の先に富士山が眺望できます。特に冬の季節は美しい姿が眺められます。ちなみに、同テラスは平成17年10月に国土交通省関東地方整備局主催の「関東の富士見百景」に見事選定されました。また、東久留米駅舎は「関東の駅百選」に選定されています。 

東口に降りて、交番先の弁天広場に行き、ジェイコムから水のペットボトルを支給。準備体操をして、出発する。
浄牧院、
浄牧院の歴史
曹洞宗神護山・浄牧院は1444年(文安元年)3月3日に滝山城主大石駿河守安祝によって創建された。
 開祖は、崇芝性岱禅師です。この両者の関係は、大石氏が今でいうスポンサーとして資金を出し、
高僧として名高い崇芝性岱が実際にお寺を開いた、という形になります。
 そうした経緯によって開かれた浄牧院は、寛政元年(1460)に大空玄虎(1428~1505)を2代目の住職に迎えます。後に多摩の名僧とも言われる、大空玄虎の出身は武蔵国(一説に伊勢生まれ)。
幼くして寺に入り、のちに当時、遠江(静岡県)の石雲院にいた崇芝性岱に参学。そこで見込まれて浄牧院の住職となったのです。 彼は境内の土窟に3年間もこもり、禅宗の基本的な問答のテキストといわれる『碧巌録』の注釈・解釈書「碧巌大空抄」を書きあげます。これは当時としては画期的で、禅の修行をする人は、みなこれを読んだと言われるほどの有名な典籍となります。ちなみに大空がこもったと言われる土窟は今も境内に存在します。 こうした高僧の存在もあり、この地域の有力なお寺となった浄牧院ですが、天正18年(1590)に徳川氏が江戸へ入城する際に、当時の八代目の住職が後北条家の一族であったことから、約2万5、000坪もあった広大な寺領が没収されてしまいました。しかし、9代目の玉室応珍が住職になると徳川幕府は、所領安堵の朱印状を出し、30石という以前の約5分の1の寺領を与え、復活させました。その後、正保(1645)、正徳(1712)と二度の大火にあい、それを修復するも大正の関東大震災により再び荒廃。
昭和になって大改修を行い、ようやく復興を果たしました。
 1645年と1712年に二度火災に遭い、修復した後、再び関東大震災により荒廃し、
昭和になって大改修を行い復興しました。 開創560年にあたり、2001年からすすめられてきた本堂・位牌堂・書院などが完成し、落慶法要が営まれた。本堂は延べ約600平方メートル。バリアフリー
東久留米七福神霊場のひとつ大黒天。 山門には、仁王様、風神、雷神が祀られております。十二支のお地蔵さん
浄牧院のカヤ。市の天然記念物であるカヤの木で、樹齢約400年で幹周り3,5メートル、樹高18メートル。
市の史跡に指定されている江戸時代の旗本、 神谷家と鈴木家の墓所  江戸時代の旗本の墓所が浄牧院のなかにあります。 神谷家は南沢の領主で、九代にわたる当主や親族の墓碑があります。鈴木家二代の大きな宝篋印塔の墓碑も現存しています。 裏の竹林には五百羅漢尊者の石像群
など説明する。
エピソードで、
米津寺の事も。
米津(よねきつ)家墓所
米津家は、一万石以上の大名で、初代の田政は江戸町奉行として知られています。
もともと米津家の墓地は浄牧院に建てられていました。
ある時、墓参りに来た米津家の殿様が無精をして、カゴに乗ったまま山門に入ってきました。
それを見た当時の浄牧院の住職が、烈火のごとく怒り、門外へ追い返したそうです。
浄牧院は家康から直々の御朱印寺として格式もあり、また当時の住職がなかなかの傑僧だったのです。
追い返された殿様は逆に激怒し、「それなら墓は他に移す」と自らの知行地である前沢宿に一族の菩提寺を作ったのが、米津寺だと言われています
と。
 浄牧院通りを東に、丁度小学生たち大勢の社会科見学学習の生徒たちの列と一緒になる。東部地域センター手前で先に行かせてもらう。東部地域センター、図書館など説明、黒目川、向山大橋、信号を渡り、黒目川の説明。

神山氷川神社に着く。個々にも幼稚園児たち大勢が写生中、社殿前に行かせてもらい、案舞を。
東久留米市神宝町の神社、神山村鎮守
神山氷川神社の創建年代は不詳ですが、当社の鎮座する神宝町はもと神山村と呼ばれ、神山村の鎮守として創建したと推定されます。現在は南沢氷川神社の兼務社です。
神山氷川神社の概要 社号 神山氷川神社   祭神 須佐之男命
相殿 - 境内社 御嶽神社、戸隠神社、稲荷神社、榛名神社、古峰神社
住所 東久留米市神宝町1-17-7
神山氷川神社の由緒  神山氷川神社の創建年代は不詳ですが、当社の鎮座する神宝町はもと神山村と呼ばれ、神山村の鎮守として創建したと推定されます。新編武蔵風土記稿による神山氷川神社の由緒   氷川社
社地2段、無年貢。村の南にあり。小社にして上屋あり。2間に2間半西向。小山村大円寺の持。村内の鎮守。(新編武蔵風土記稿より)神山氷川神社所蔵の文化財  神山囃子(東久留米市無形民俗文化財)
など説明する。
 西口から出て、目具と川に出る。ジェイコムでの放送、ナンジェシカで「落合川上流を探す」での最初のシーン、雨の中の看板前で説明。 ジェシカさんたち、3月13日に解散してしまったなんて、コーナーが、無くなってしまったからなんであろうか。
解散のことは話さなかった。神宝大橋へ行く。
東久留米市スポーツセンターを解説。
「東久留米スポーツセンター」のフィットネスルームやスイミングスクールでは、豊富な知識と経験を持ったトレーナーやインストラクターが、万全のサポート体制のもと、楽しく安全に皆さまの健康づくりのお手伝いをいたします。
東久留米市民以外の方のご利用も、もちろんOK!多くの方々の入会をお待ちしております。お手軽にお問い合わせください。
住所 〒203-0011 東京都東久留米市大門町2-14-37(西武池袋線 東久留米駅下車 送迎バスあり)
    TEL:042-470-7900
施設概要
第1体育室<バスケットコート2面・クライミングウォール>
第2・第3体育室<体操・卓球>
第1・第2武道室<剣道・柔道・空手>
プール<25m×6コース>
トレーニングルーム、弓道場

地下には 目黒川調整池があり、その上に立っております。敷地面積 14400㎡ 貯留量 221,000㎥ なお、壁の厚さは1,000m 深さ36.5mから38m 延長6,932m
平成1年4月 下谷ポンプ場供用開始
平成2男10月下谷汚水処理場解体  清瀬の荒川右岸東京流域下水道にポンプで送っている。
昭和43年6月滝山団地が出来その汚水を処理するため下谷汚水処理場が出来た。
など下谷汚水処理場や、ポンプなどの、話をする。

野草園に行き、門を開け中に入る。
(浅間町二丁目6番) 教育委員会では、身近なところで自然と接し、自然愛護の心を持っていただくために、落合川と黒目川の合流点の旧河川敷を利用し、「野草園づくり」を行っています。現在、野草園には市内各所から採集した約200種類の野草が植えられています。野草園づくりの作業は、ボランティアの皆さんによって、4月~11月の第1・第3日曜日の午前9時~11時に定期的に行われています。参加を希望する方は、作業日に直接野草園へおいでください。
 
小野殿淵 
小野殿の屋敷跡、鷹匠であった事など説明、弁天さんなど。
新落合橋   立野川野合流地点、立野川沿いから

浅間神社へ行く。

東久留米市浅間町の神社、落合村鎮守浅間神社の創建年代は不詳ですが、当社の鎮座する浅間町はもと落合村と呼ばれ、
前沢村からの分村と伝えられていることから、開村時に落合村の鎮守として創建したと推定されます。
現在は南沢氷川神社の兼務社です浅間神社 祭神 木花咲耶姫命 境内社 小御嶽神社、稲荷社
住所 東久留米市浅間町3-7-1
新編武蔵風土記稿による浅間神社の由緒
浅間社
社地1段5畝、年貢地。村の東にあり。上屋2間に3間にて中に小祠を置。西向。村の鎮守。例祭3月15日、村民持。
稲荷祠、天王祠。右何れも小祠。本社の左右にあり。

廻国供養塔を見て (有形民俗文化財 )落合橋に戻り、印刷しておいた古い写真と現状を見比べてもらう。
不動橋近くの不動明王をお参り。 新川町1-18 
  市内で唯一の不動明王で、文政9年(1826年)に造立されました。上部に不動明王座像が刻まれ、側面には「落合邑」という当時の村名もみられます。
落合川に戻る。この先暗い中歩くと、売り炉から誰かが追いかけてくる足音が聞こえると言う、自分の経験、怖い話をする。ネタをばらす。
共立橋空プリントした写真を使い西武線ガード野昔をお見せする。送電鉄塔、武蔵野変電所、西武久留米変電所、ひばりが丘変電所など解説する。
立野緑道、戦時中の中島飛行向上への引き込み線の解説。

 健脚向けのウォーキングのつもりが、募集では断っていなかったことが判明する。急きょ竹林公園に寄ることを中止する。
10時37分荒井さんに電話をして、予定を変更したので、これからいく事を伝える。川に入って、水辺の魚などをとらえていた所であったとの事。老松橋を右折して、庚申塔と常夜塔  (南沢1-3 )に寄る。   
宝暦7年(1757年)に造立された庚申塔で、側面には「南保谷村 田無村道 西前沢道 東清戸道」と刻まれ、
市内で最も古い道標(道しるべ)ともなっています。横には文化元年(1804年)の常夜塔があります。
など説明をする。向こうに多門寺の黒松があるが、そこは帰りに寄りますとも伝える。
落合川に戻り、荒井さんについて、写真を交えて説明をする。
10時45分
落合川・いこいの水辺(南沢一丁目15番)五十里さん合流。
 多聞寺付近の落合川の水辺。ここは遊歩道から直接水辺に降りられ、広い芝生の上で、シートを広げて、お弁当を食べたり、日向ぼっこをしたりと、ちょっとしたピクニック気分で一休みできます。川の水も浅く、緩やかな流れで、川遊びも楽しめます。週末になると、家族連れが多く、子供たちの元気な声が聞こえてきます。
荒井さんを皆さんに紹介して、荒井さんから、川についてのお話を、お伺いいたした。
57分水がわき出る場所に移動、水草などの解説もしていただく。11時パンフレットなど頂き希望者に渡す。東京都のガイドブックは4冊だったので解散時希望者にじゃんけんで渡すことにする。
11時20分あとにして、毘沙門橋歩行者用信号を渡り水辺公園、トイレ休憩、ジェイコムで用意したお菓子で11時30分まで休憩とする。
こぶし橋ではカワセミの餌場であることを説明、あいにくと姿を見ることはできなかった。
旧河川へ行き、神明神社へお参りする。
神明橋 へ戻り、有形民俗文化財の石橋廻国供養塔 と庚申塚を( 中央町3-10 )
地蔵橋手前旧河川跡から、地蔵橋広場に出る。カワセミブロックについて説明、アオサギが居た。

工事痛の御成橋へ、東久留米駅からのマロニエ通り延長で小金井街道へ抜けることなど説明。
弁天フィッシング 内にある弁財天碑 有形民俗文化財 (中央町5-9-6 )いまは、弁天フィッシング 内にある貯め入れない事や。嘉永2年(1849)に造立された弁財天碑。湧水や川のそばにあり、水の神として親しまれている。笠の部分に宝船などの彫刻がされています。と説明をする。
小金井街道 弁天橋 信号がないので荒明さんと、両脇を守って車の流れが停まったところで横断する。
12時20分落合川 源流へ到着、草が生え放題、弁天橋からは水も枯れてしまっていた。「がっかりコースです」と前もって言ってはいたがそれでも、みなさん想像以上に、あまりにもひどいので、落胆した事でしょう。
 八幡神社へ行く。そこで八幡神社の昔のイメージを説明、広い境内に池がありそこからあふれ出る湧水が落合川の源流であったと、前沢御殿跡のことなど昔東久留米市は、鷹狩の狩場であり、落合川は狩場にのなかにすべて入ってしまうことなどを説明する。
12時25八幡神社の前で記念写真を撮ることになる。毎回カメラマンが犠牲となるのであるが、今回は重い三脚をリックに入れてある。記念写真を撮る。
12時30分八幡神社を後にする。
 小金井街道で帰られた方が3名出る。お地蔵さん(地蔵菩薩 有形民俗文化財 中央町5-10 路傍 )から道導で、江戸方面の道を行く。
六仙通り、三叉のお地蔵さん(地蔵菩薩 有形民俗文化財 中央町5-3 三叉路 )から江戸方面左折して、12時40分六仙公園に出る。
手前プチフールさんのパンは無添加で、柳窪小麦を使用したパンもあることなど説明。おなかの空いた人はどうぞ、と六仙公園でトイレ休憩にする。13時六仙遺跡に移動、説明をして、南沢給水所前、

南沢緑地保全地域
<平成の名水百選・東京の名湧水57選>(南沢三丁目9番・案内図)
 昔ながらの武蔵野の雑木林につつまれ、清冽(せいれつ)な湧き水が一年中枯れることなく、こんこんと地表に溢れ出ている場所です。  真夏でも、この周辺は涼しく感じられ、湧水(ゆうすい)からなる小川で遊ぶ、元気な子供たちの声が聞こえてきます。  また、ホタルを呼び戻す活動も行われています。
 「東京における自然の保護と回復に関する条例」に基づいて、昭和60年5月に約25,000㎡の緑地が南沢緑地保全地域として指定されました。地域内に水源地を持つ小川(落合川の支流)が横断しており、川の両側は果樹園、畑、雑木林、竹林等と変化に富んでいます。豊かな水量の湧き水が4か所あり、東久留米市の水道水源地の一つにもなっています。
など説明をする。湧水を見せ、秋篠宮殿下がお立ちになった場所を説明し、13時20分 氷川神社でお参りする。
氷川神社
承応三年棟札南沢3-5-8 南沢氷川神社
  南沢氷川神社再建の際の棟札で、承応3年(1654年)のものです。
寄進者として久世大和守や南沢村領主の神谷与七郎の名前などや村名が刻まれています。
久世大和守広之は南沢で生まれ、後に徳川幕府の将軍側近や老中を務めた実力者で、山本周五郎の歴史小説「樅の木は残った」にも登場します。
保存の関係で普段は公開されていません。
東久留米市内には当社神職が兼任して務める十社の氏神様がございます。   「  」は現在の町名
   八幡神社      旧前沢地区の鎮守   「八幡町、前沢、滝山」   八幡町2-8-17
   子ノ神社      旧小山地区の鎮守   「小山、幸町の一部」    小山1-14-25
   氷川神社(下里)  旧下里地区の鎮守   「下里、野火止」      下里2-9-32
   浅間神社(浅間町) 旧落合地区の鎮守   「浅間町」         浅間町3-7-1
   天神社       旧柳窪地区の鎮守   「柳窪」          柳窪4-15-16
   神明社(中央町)  旧神明山地区の鎮守  「中央町、幸町の一部」   中央町2-4-26
   氷川神社(氷川台) 旧門前地区の鎮守   「氷川台、東本町の一部」  氷川台1-12-2
   神明社(南町)   旧柳窪新田地区の鎮守 「南町」          南町2-3-17
   氷川神社(神宝町) 旧神山地区の鎮守   「神宝町、金山町」     神宝町1-17-7
   厳島神社      旧神山地区                    金山町1-6-2
   浅間神社(竹丘)) 旧下里地区                    清瀬市竹丘2-28-8

水辺公園から、毘沙門橋横断歩道の信号を渡り
多門寺の西、共立学校跡 (本町4-13-16 多聞寺前)へ行き説明
  共立学校は明治10年に南沢村・小山村・落合村・門前村・神山村などの村々が共同で設立した公立学校で、
明治17年にこの地に校舎を新築しました。今でも、校舎前にあったヒバの木が1本残っています。
多聞寺へは多聞寺山門 (本町4-13-16 多聞寺内 )
嘉永5年(1852)頃に造営された四脚門。総欅の切妻造りで、控え柱などの彫刻に江戸時代末期のこの地方の建築様式の特徴がよくあらわれています。村の欅をお寺の前の落合川に流して江戸まではこび、彫刻師に彫らせたという伝承が残されています。
など説明、毘沙門橋にあった毘沙門天の歩kらを見せて、後にして、本日2つ目のがっかりコースと、多聞寺黒松へ行き、ほとんど、朽ちてきた、根だけが残残っている昔の黒松跡と2代目の黒松を、昔の写真で解説しながら、説明をする。
久留米変電所前では、 武蔵野変電所から来ている。 西武久留米変電所から田無変電所になど説明、えび屋さんで東久留米の物産を帰ることなども説明して東久留米駅に行く。ジェイコムから、完歩賞をお渡しして、13時45分解散となった。
 体調が悪くて疲れた、家まで帰るのがつらいと感じたのは初めて。14時30分家に戻る。
次男が、食べないでいたチーズバーガーをくれると言う。手や顔を洗い着替えて、水を飲んでバーガーを持って部屋に戻る。
 本当に疲れていてすぐに居眠り、時間がわからないが、覚めたところでチーズバーガーを食べる。喜一の中が乾いていたので何とか起き、下に行って水を飲み再び部屋に行き布団に入る。
 18時30分目を覚ます。テレビを点け19時になり夕食が心配で下に行く。次男にどうするか、尋ねると、牛丼にすると昨日決めていたらしいが、そんな事すらすっかり覚えていない。その上「さっき行ったら、お父さん寝ていたから」と次男が上がってきたのすら判らなかったのだ。「お父さん疲れているから僕が買ってくるよ」と言ってくれたので1,000円を私頼む。部屋に戻り寝ていると19時30分ぐらいには戻ってきて声をかけてくれたようだ、テレビの音で良く聞こえなかった。45分下に行き。コーヒーを入れて次男と一緒にテレビを見ながら夕食とする。
20時10分部屋に戻る20時18分風呂が沸いたよ、と、次男が言い、風呂に入りに下に行く。着替えとタオルを見つけ、風呂に入る。
20時55分風呂から出て部屋に戻り、パソコンの電源を入れる。メールなどチェック。歩行計からデーターを取る。
21時50分ブログを書き始める。
0時を過ぎている、まだ長男は帰宅しない、下に行ってみる、疲れているのか次男は電気を消して寝ているようである。0時7分部屋に戻る
8分バイクの音が聞こえ、長男が帰ってくる。下に行くと次男も起きてきた。食事をしたのか尋ねるとまだだと言う。何か買ってこようかと言うと買ってきたとの事的は任せ12分部屋に戻り、ブログを書き上げ、投稿する。
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