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歌う介護士

看取りをしたご入居者から「あなたの声は癒される」と。お一人一人を思い浮かべながら、ずっと歌い続けています。

本番は楽しむもの!

2008-01-31 22:55:59 | Weblog
お客様が楽しむには、まず演じている方が楽しまないと!
これが私のモットー。

年齢(また言ってしまったか)の割には身軽なので、
跳ねてみようかと思ってます。

ゲネプロに近い練習をして、
なかなか良い選曲をした!と感じました。
参加するメンバーに合わせて、聴いていただいて楽しめる曲にする。
これがけっこう難しいのです。

私も歌う曲数は少ないですが、メンバーの中で一番の難曲です。
技術と表現がアマチュアには難しい。
で、
アマチュアは、殆ど歌いません。
何とか歌いきれて拍手をいただけるよう声を整えておくのが今のお仕事。

この数年、本番の回数が少なくなりました。
企画・準備をするのが面倒になったのが原因ですけど、
まだ歌える今のうちに歌っておきたいと思うようになっています。

あせるなあ・・・。

あさっての衣装は、一部と二部で変えることにしました。
眼でも楽しんでいただけたらいいなあ、と。

私も「ハレの日」です。

出演者プロフイール紹介

2008-01-24 00:24:02 | Weblog
サテ、本番まで残すところ10日ばかりです。

今回のフアンタジックコンサートの出演者は8人。
テノール3人、ソプラノ3人、バリトン1人、そして伴奏者。
テノールが一人増えました。

私たちは指導者なしで活動しています。

プログラムの出演順に、ご紹介しましょう。(当日、プロフイールは出しません)

1、テノールHさん。
   最大手の損害保険会社勤務。色々な団体のオーデイションを受けています。
   3月には新宿で「メリーウイドウ」に出演します。
2、ソプラノTさん。
   10年前からのお付き合い。だんな様とオペラ団体を主宰し5年。
   現在休止中。私も合唱で駆りだされます。
3、テノールMさん。
   私とは最も長いお付き合いで、他の演奏会でもよく二重唱などをしていま    す。こちらもTさんの団体にも出演します。
   精密機械メーカー大手に勤務。
4、バリトンKさん。
   Tさんの団体に駆り出されていって仲良くなった人。都立高校の音楽教師で   す。作曲科出身ですので自作の曲を歌わせていただきました。
   メンバーの中で一番の若手です!
5、ソプラノmannmamia
   Hさんとグループ系列の有料老人ホームに勤務しています。
6、ソプラノKさん。
   この会の世話役さん。こちらは大手生命保険会社のベテラン営業職です。
   初対面の人にはしり込みする私には欠かせないキャラクターです。
7、テノールKさん。
   外資系の会社に勤務されていますが、Hさんや私と同じグループの金融機関   に長く勤務なさっていました。オペラのことなら何でもお聞きください!
8、ピアノ伴奏Iさん。
   一番若いのは彼女でした!(笑い)もちろんピアノ科出身。
   友達の紹介で、卒業した頃から私の伴奏を頼んでいます。
   他では出せないほどの安いギャラ(笑い)で伴奏をしてくれています。
   ずっと心の中では頭を下げているんです。ありがとう!


サテ、一番音楽を楽しんでいるのは誰でしょうか?


プログラム

2008-01-19 21:29:19 | Weblog
2月2日、F市サロンライトコンサート。14時開演です。入場無料。


プログラムを紹介します。

第1部
   オペラ「愛の妙薬」抜粋      ドニゼッテイ作曲
     1、なんと美しくなんと愛しい人!(テノール)
     2、気ままな風に聞いてごらん(二重唱)
     3、戦でも恋でも攻めるのは疲れる!(三重唱)
     4、軍曹さん!軍曹さん!(四重唱)
     5、さあ、お聞きください、みなの衆!(バリトン)
     6、人知れぬ涙(テノール)
     7、受け取って、あなたはもう自由の身(ソプラノ)

           私はこのうち、3と7を歌います。

第2部日本の歌、オペラアリアなど
     1、アヴェ・マリア(カッチーニ)      テノール
     2、恋とはどんなものかしら(モーツアルト) ソプラノ
     3、初恋(越谷達之助)           テノール
     4、さびしいカシの木(木下牧子)      バリトン
     5、よひょう、あんたはどうしたの(團伊久磨)ソプラノ
     6、セレナーデ(ビゼー)          テノール
     7、私の名はミミ(プッチーニ)       ソプラノ
     8、春風よ、なぜ私を目覚めさせるのか(マスネ)テノール

フイナーレ
     聖節の奉献歌「主よ憐れみたまえ」ニ短調(モーツアルト)  全員



私は、5曲目を歌います。オペラ「夕鶴」第一幕のつうのアリアです。
以前書いたように、全編を通して「カゴメ」がつうのテーマになって流れます。
このアリアも「後ろの正面だあれ!」のテーマに添って歌われます。

カゴメの「オニ」は、つう。
自らよひょうの元に来たつうですが、純心だったよひょうは「お金」に惑わされ、人間の男の醜さを見せてしまいます。

つうは、その昔の女たちの嘆きを表した化生のもの。
「カゴメ」の「オニ」のように閉じ込められた、閉ざされた女たち。
自由の天地にあこがれ、空高く春になると飛び去る鶴を見て、この昔話は伝えられたのかもしれません。


歌いきるのがとても困難な大曲ばかり選びました。
つうは飛び去ってしまいますが、私は逃げずに春を待ちます。

                                 

主宰する情熱と偏見

2008-01-16 12:02:49 | Weblog
会を主催するにも情熱は必要ですが、
自分の会として「主宰」するのは、かなりな気力と情熱が必要です。
その上、自分ひとりで大きな会を維持できませんので、助けてくれるブレーンがいないと維持できなくなります。

今も以前も、私は「主宰」する会は持っていません。
代表として名前は出していますが、実際は数人で助け合って運営します。
責任の分散が最も楽に運営がはこびます。
その代わり、会費も同額、コンサートの持ち時間も殆ど同じ。

もう20年も前になりました。
初めてオペラに首を突っ込んだ頃・・・。
いまでも「Y市民オペラ」という活動はしているかもしれません。
まだ「市民オペラ」の草分けの頃です。
主催者というOさんは、出身が群馬県。ある政治家の親戚になるということでした。
やや、いや、かなり、そう状態になる方で、「こうしたい!」となると、
金銭感覚がなくなるところもあり、黒字決算になることはなかったようです。
この方の情熱と情熱にほだされた周囲の力で「Y市民オペラ」は出来上がったのではないでしょうか。

私がその後、そこを離れてF市のメンバーに参加したのも、そこでの出会いが元ですから、いろいろあったもののありがたく思っています。

大きなイベント企画などを思いついて主宰者になろうとする人は、
男女を問わず、躁傾向にあるのかもしれません。
どちらの主宰者とも仲良くなり、親しく付き合い始めてからは一番悩ませられたのが、毎日の電話でした。
とても一生懸命で、自分ひとりで決めにくいことなどがあったり、
周囲の人間関係に自分が腹立たしくなると電話なのです。
私だけではなく、どうも回りに聞くと、自分の気持が治まるまで電話をかけていたらしい。

いくら暇でも・・・、毎日はうんざりします。
またかア・・・、まだ携帯電話などありませんでしたから、一日中電話に出ないわけにもいかず。

あるとき、参加していたメンバーで別なコンサートを企画したのですが、
はじめは応援してくれていたのが、
やがて、「自分のところからメンバーを盗っていった!」
このことがその人から離れる原因になりました。
その人も出演するはずだったので、自分から離れてしまう寂しさからだけとは思えず、今でもよく判りません。


F市で練習していた頃、まわりの悩みは良く聞きました。
今ではそういうことも無くなりましたが、10年経てば当たり前でしょうね。
いつまでも親離れできなくては困る!(笑い)



音楽に目覚めた頃

2008-01-09 01:18:15 | Weblog
幼い頃から声は良かったらしい。
小学校2年生の担任が受け持ちの子供の特性を伸ばそうとしていたようだ。
同級生で、作文・歌に分かれて個別指導を受けた記憶がある。
  (今だったら、えこひいき!といわれて保護者から非難されたろうな)
私は歌で、確か童謡コンクールに出してもらったようだ。
何しろ、親は無関心、担任のポケットマネーだったろうと思う。
自分もそれほど競争意識に欠けていたので、目の前の大きなマイク(当時は)しか覚えていないが、選曲だけは「これを歌う!」といって引き下がらなかった記憶がある。(担任は、さくらを勧めたが、歌ったのは、若草萌える丘の道)

恐らく子供の頃からもの悲しい声をしていたのかもしれない。

3年で転校したが、そこでも合唱コンクールなどに駆り出されていた。
とにかく本人は何の意欲も無く、「歌いなさい」といわれて参加していただけである。

中学に入ってクラブ活動は、書道部。
高校でも、自分で選んだのは、文芸部。詩や随筆を書いていた。
「曙光」という同人誌も発行していた。

同級生に引っ張り込まれたのが、合唱部。
何の抵抗も無く歌えてしまった?のかな。混声でした。
学園祭で、音大に進学するという生徒の歌を聞き、
「あれ?このくらいなら私でも歌える」
なら、音楽をやってみてもいいんじゃない!と安易に考えた。

我が家は貧しく、とうてい音大に行ける筈も無く、レッスンなど受けられるはずも無かった。
学校の音楽室には個人練習室があり、ピアノの教本を買ってきて、一人で細々と練習していたのである。
初めてオペラアリア集を買ったのもその頃です。

合唱部の部員で、「ボリス・ゴドノフ」を観にいこうということになったが、
当時でもチケットは学生にしては高かった。
同級生よりこずかいが少なかった私は、チケット代が欲しいと言えなくて、初めてのオペラは見にいけなかった。

レッスンを受けるようになったのは、自由になるお金を自分で働いて得られるようになってからのこと。
それ以後も、音楽、いや、歌を歌いたいという思いは胸に燻り続いていた。

思いが叶ったのは、ずっとずっと後のことである。