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歌う介護士

看取りをしたご入居者から「あなたの声は癒される」と。お一人一人を思い浮かべながら、ずっと歌い続けています。

幕が下りて、ふたたび・・

2010-02-28 21:32:44 | Weblog
本番前から鼻がむずむずしていたが、無事に終わって気が抜けたのか、すっかり風邪ひきさんになってしまった。
2日間、寝込みました。
この3年間、体調不良でのどたん場欠勤は一度もなしできたのが、
気が抜けたかやる気が失せたか(笑い)、出かけられませんでしたねえ。

で、ブログの更新もお休みのまま経過。


26日当日は雨になってしまい、お客様の出足を心配していました。
知人に案内はしていたものの、平日の夜でしたから。
幕が上がり、客席を見たら、6割以上の入場があり嬉しい限り。
主催者側も「100人くらい」かと読んでおられたらしいので、本当に嬉しい誤算。

声楽アンサンブルは集客力がある!

本番にアクシデントはつき物、
テノールのトリを歌う人がリハ中に体調が悪くなり歌いきれるか心配だった。
「人知れぬ涙」は最後のカデンツアまで保っていくのが難しい曲なんです。
いつもより声量はなかったけれど、
どの曲も歌い切れていて良かった!
さすが!本番を数こなしてる力が発揮されました。

さて、自分自身も、声の力配分がうまくいったのと、
別な交渉ごとでテンションが上がっていたのとで、
これまでになく声が保てて高音が無理なくでました。
本番、強いですねえ!(自画自賛)

演奏時間も全て計算どおり、休憩15分入れて2時間で終了。
こういう感覚は長年の舞台経験が活かされてます。
アンコールで歌うことにぎりぎりになって決めた、
「手紙~親愛なる子供たちへ~」の抜粋は、歌ってよかった。
会場の雰囲気がなんともいえないくらい伝わってきました。


終了後、全員がロビーへ出てご挨拶。
お客さまがたから、温かな言葉をたくさん頂きました。
仕事の傍ら、二期会の研修所へ勉強に行っているバリトン君に「がんばれよ!」と、声をかけてくれた方は、その響きから声楽家ではないか?と。

私たちのサークルは、本番を終えても打ち上げも何も出来ない、あっさりした付き合いですが、音楽を楽しむ、演奏を楽しむことだけに力を注いでいます。


プラス、コンサートを聴いてくださった方の中から問い合わせが2件。
見学に行きたい。
一緒に歌いたい。
メンバーが増えそうで嬉しい!


これからの開幕ベルは、
7月の地元での合唱祭、
8月は町田の「ルチア」(バリトン君)
9月、昭和音大ホール「ナブッコ」(私)
10月、府中ウイーンホール「フイガロ」(バリトン君・私)
サロンコンサートは企画案(参加申し込み予定)

と、けっこうな忙しさ。
エエ、本職が脇役になりそうです。

幕が下りて、ふたたび
「歌に生き、愛に生き」の幕があがる。
な~ンテ!(笑い)


応援してくださった皆様、ありがとうございました!

ケアマネージメント、私の場合

2010-02-22 19:53:01 | Weblog
一般的には「とりまとめ」をいうのかな?

施設のケアマネージャーをしているが、現場にいるほうが多いので、かなり忙しい。
施設は100人の入居者に1人いればよいという介護保険法を守って(?)わが社は担当入居者人数での割合で勤務を決めているらしい。

「その業務(ケアマネの)に支障がなければ、他の業務と兼任して勤務してもよい」

解釈の相違で、ある程度はドウにでもなりそうな・・・。

グチはさておき、
いろいろな場でマネージメントという言葉は使われるし、便利でもある。
私が行うのは、家族、ご本人、職種間の情報共有。
うちの会社では珍しいのかもしれないが、
在宅のケアマネに近いマネージメントをしている。

主治医に対しても往診の際、自分の体が空いていれば同席する。
また、それを望んでいる医師もある。

施設に入居すると、家族よりも施設スタッフの方がその人の日常を知っている。
それでも正しい情報は伝えにくいものなのだ。

スタッフが家族に「夜間の見回りのとき目を開いていた」と伝えたとする。
家族は毎晩のことかと思ってしまう。(だから自分が来ているとき目を閉じているんだ)
*良く寝られるようにお薬を・・・。
と、なる。
今度は、眠剤の作用が日中まで残って、ほんとに寝ている、なんてことが。

事細かに家族にスタッフが伝えるのはよいが、統計的な発想も必要。
もちろん、ある程度の認知症の症状の知識も。

ケアスタッフは、看護師にさえ(日常接している)なかなかスムースに話せないでいるので、まして薬剤師や医師には何を言ってよいか、ワカラナイそうである。
「往診に、同席できるなら同席したら」と、勧めたが、
その後も変わらなかった。
ここはスタッフのスキルアップのためと思って提案したので、本人たち次第であるので二度はいわない。

意欲、いや、欲がないんだなあ・・・。
もっと知識を得るのに貪欲になってほしい。


スタッフの全員が入居者の家族構成は知っているはずなのだが、
これも興味というか、その人を知ろうとする努力が足りない。
興味がないと、聞いた話も忘れてしまうのが人間の脳。
都合よくできているなあ。
マア、私もときどきは活用しているけど。(笑い)
聞き流し・・・ってね。

誰かに聞いて欲しい、答えが返って来なくてもよいから話したい。
自分で決めなくてはならない家族は、そう思っている。
聞くだけで救われることもあるのだ。
言葉にして話すときには、既に結論は決めていることが多い。


私のケアプランなどの面談は1時間をめどにしているが、
中には「時間を多くとって」と頼まれることもある。
そういう時は、人生相談が多い。
また、面談以外でも個人的は話しを良く聞くが、業務に関係しない内容は上司にも黙っていることにしている。
必要になれば、ご本人から伝えるだろう。
情報の共有を、といわれた時は「仕事内容に関係しないし、個人的な内容だから」と守秘義務をタテにとって(笑い)いる。

それこそ信頼関係が崩れますよ。


次の世代に移していきたいが、コミュニケーション力は個人差が大きいからなあ。


26日はコンサート。
集中力を高めて、体調を維持するのがまず第一となる。

ケアの本質

2010-02-19 00:41:15 | Weblog
今朝、ドアを開けると雪。
慌てて滑り止め付きの靴に履き替えて出かける。
積もらなくてよかった。

春の雪ですね。

三島由紀夫の作品だったかな?この題名は。

105円で見つけた「臨床看護の本質」「看護師長の会話術」
どちらも「看護」を「介護」に置き換えると、そのまま役立つ内容だ。
前者は1965年に初版、後者は2005年。

どちらも読み終えたら勤務先に寄贈するつもり。
若い世代が知っておくべきだと思うから。


堅苦しい言葉で言わなくても、ケアは思いやりに尽きると思う。
自立、要支援、要介護に関わらず、その人のために何をするべきかを考え、察することではないだろうか。
何らかのリスクが発生する一歩手前に「察する」ことが出来れば、なお良い。


こんなことがあった。
「Aさんが来てほしいと仰っています。」とスタッフ。
聞けば、入浴日だが出かけていて時間に遅れてしまい、自己都合なので入浴を休んでもらったらしい。

自分で判断できる入居者には、譲歩をしているとキリがなくなるためそのようにしている。

入浴は早番が行うので、早番の勤務時間の16時までに終えるようにしている。
Aさんが帰ったのは、16時少し過ぎていたらしい。

どうやらAさんは毎週その時間に出かけたいらしい。
「週に1回しかお風呂に入れないなんて可愛そうだと思わないの!」
もうチョットきつい言葉で詰め寄られたようだが。

すぐできる対応として、入浴日を変更してあった。
すばやく対応をしてくれたと思う。

スタッフ誰もが気づかなかったことがある。
外出がわかっていたのだから、出かける前か、そのときに「お風呂だから15時半までに帰ってきてくださいよ」という一声がほしかった。
Aさんの話を聞くと、16時に帰ってくれば大丈夫だと思っていたという。
「たった30分なのに・・・」とAさん。

介助入浴の体制については過去に説明してはあるが、どうしても自分の都合が優先順位が高くなり忘れてしまう。
全ての要求を聞き入れていたらスタッフが何人いても残業を何時間しても足りはしない。

しかし、自分がAさんだったら、どのようにされたいだろうか。
足った一言をかけるかかけないかで、Aさんの感情は天と地ほどに差が出るのではないだろうか。

「Aさん、お風呂だから3時半までに帰ってきてね」
そう言っておいたとしたら、
4時に帰ったAさんは「遅れちゃったから今日はいいわ」と快く言ってくれたかもしれない。
そういうところのある人なのだ。

Aさんいわく、「用がなくても来てほしい」
「ここは暇なんでしょう、いつもなんにもしてないじゃない」
「雑談してるのなら私たちと話してほしいのよ」

ご入居者から見ると、そのように見えているのだ。


Bさんの話。
「今日ね、とっても面白いことがあったの!思わず悪かったけど笑っちゃったわ」
なんだろうと良く聞いてみると、
新しく来たスタッフの言葉遣いが丁寧すぎておかしくなったという。
(そ~いえば、私も丸きリタメグチ聞いてるわよねエ。)

素晴らしく丁寧な敬語を使って、このようにいわれることもあるわけね。


認知症の人を受け入れるケアとは?

2010-02-16 23:37:49 | Weblog
「あなた何年生まれ?」
「昭和*年ですよ」
「エエッ、私は大正よ、若いわねえ。」
「あなた奥さんやご両親は?」
「どちらもいません、妻は病院なんです。」
「マア、可愛そうに。私は姉妹も両親も元気なのよ!」
「お子さんは?」
「子供はいないんです。」
「そう、それは寂しいわね。私も子供はいないけど。」

このように書くと、多少ヘンだが、ごく普通の会話。
昭和一桁の男性と大正一桁の女性。
昼食をいつもと違うところ、違う顔でとりながらの和やかな会話。
30分の間に10回は繰り返された。
スタッフが切り上げるまで、まだ続いたようだ。

認知症の人どうしの会話は、掲示したのはまだつじつまがあっているが、
こちらが聞いていると、全く意味が判らないのに和やかに笑いあっているという不思議なコミュニケーションも良くある。


穏やかで和やかなのは聞いているこちらも笑って聞き流せる。

症状によっては、
何がきっかけになるか判らないが、
いきなり怒鳴る、怒る、手を出す、という周辺症状の人もある。
いわゆる【BPSD】である。
アルツハイマー型というより、前頭葉型認知症のピック病に起きやすい。
自分を抑制できなくなる病変なのだ。

どんなに立派であった人でも、人格が変わってしまう。
行動が衝動的になり、同じ行動を繰り返す常同行動、つまり徘徊が起きる。
それは、私たちプロの介護職でも疲れてしまうほど頻繁な繰り返しである。
落ち着かないときは、10秒でというか、振り向いたら同じ行動、ということさえある。

自分をさえぎるものはすべて排除。
殴ろうとする、怒鳴るは日常茶飯事。
恐がる人も多くなる。

「認知症だから、拒否しないでそのまま受け入れてあげよう」

よくそう言われる。
しかし、いくら認知症という病気でも、悪いことが許されてよいはずがない。
その人がその年齢まで生きてきた社会生活では、善し悪しの判断が出来、教えられてきたはず。
幼いときから身についた記憶の全てが消え去るわけではないのを私たちは知っている。

「暴力や酷いことを言われた時、注意するのは間違っているでしょうか?」
私は、注意しない方が間違っていると思う、と答えている。
全てを受け入れるというのはそういうことではないと思う。
その人が判らなくなり出来なくなっていても、その人は同じその人として受け入れることだ。
しかし、人間として許されないことをしたときは「いけない、ダメです」「あやまってください」というのが当然のことだと思う。
往々にして「BPSD」が強くでる人は注意すると「悪かった」と反応できる人だ。
つまり、頭のどこかで理解できているということ。

自分を抑えられなくなったとき、誰かが傍でしてはいけないことを知らせてくれたとしたら、その積み重ねで信頼関係が築けるのではないかと私は思う。

なにをしても「ごもっとも」「はい」「そうですね」「申し訳ありません」と言うのは、言葉は綺麗だが、認知症の人を軽んじているのではないのか。
何も分からなくなっている人だから、いっても仕方がない。
もしそういうなら、その人を一つの人格として見ていないのではないだろうか?

その人を受け入れるには、その人も一人の人間、自分と同じだというところからはじまる。

その人にも受け入れられないと何もはじまらない。

音楽練習、本番まであと1回

2010-02-11 22:31:07 | Weblog
昨夜は「愛妙」のアンサンブル通し練習。
立ちも少し入れながらでしたが、まだ全員が暗譜できていず・・・
ワォ、残すところ24日の1回のみ。

何とかなるだろ、いや、何とかしなきゃア!


有休を2日とっているにもかかわらず、連休はゼロ。
ドーユーシフトの作りかたをしてるんだか!
文句は言わないけど、あんまりだよね。
おかげで、家でろくに歌う時間をとれない。
14日に講習を受けようと予約をしているが、諦めて歌の練習に切り替えるしかなさそう。

3月は有休の消化をするつもり。
これまでどこに勤めていても有休を全部使うことなんて一度もなしに来てしまった。
いまどき、こんな考えは通用しない。
評価もされないよね。

来年度は歌うことを楽しめるようにしたい。
1年かかって声を矯正できかかってきた。
本来の自分の声。
チョット嬉しい。


最近見つけた「手紙~親愛なる子供たちへ~」という曲。
原詩は英語で作詞者は不明。
「千の風になって」と同じように、訳詞・作曲されている。
どうしてもコンサートで聴いていただきたくなった。
主催者にお願いし、時間が余ったら、アンコール代わりに歌わせてもらえる事になる。

「歌う介護士さんだからね!」だって。
高齢者を抱える家族、これから介護をするだろう人たちの全てに聴いていただきたい。
そう思った。

メンバーに話し、歌ってみる。
なんと、私がステキに上手だとみんな言う。
「さすが、仕事をしてるだけあるね!」
そうでしょう(笑い)
殆どの人がその年が来るまで知らなくてもよい何十年か先を見てしまった。
20代や30代では感じないだろう。
年をとるということの哀しさ。
どうにもならない自然の、命の摂理、時の流れ。
そういう全てを歌にこめて歌えるのは、私ではないか。
これから、機会がある毎に歌いたい。


9月本番の「ナブッコ」、合唱を募集していたので応募。
演奏会形式だが、ソリストが期待できる。
タイトルロールのバックで歌えるのは嬉しい。
演奏会場も音大のホールなので音響は最高。
合唱らしい合唱に参加するのは道化師以来かな。

今年は「歌に生き」の年にしよう。


そうなんです、お年寄りの言いたいことを伝えることは誰よりできるでしょう。
毎日を本音の中でいるわけ。