明治乳業争議団(blog)

働くルールの確立で人間性の回復を!

明治は労働組合活動家を生産疎外者と罵声を浴びせ人権蹂躙の限りを尽くした

2016年03月06日 13時48分38秒 | お知らせ
2・26明治HD社前「座り込み」行動 連帯挨拶

東京地評事務局次長 屋代さん


争議団・社員の声を受け止め 今こそ、全面解決の決断すべき時と呼びかける 


 明治HD前にお集まりの皆さん、30年争議に決着をということで、大勢の皆さんにお集まりいただきました。大変ご苦労さまです。
 先ずもって、明治乳業争議を30年余にわたって闘い抜いてこられた争議団員の皆さん、それを支えてきた家族・支援者・支援団体の皆さんに、敬意を表したいと思います。

 争議は30年ですが、この事件の発端はそれより前の1960年代からはじまります。日本人の食生活が洋風化にともない明治乳業をはじめとした乳業各社は、増産体制をしき、激しい企業間競争を繰り広げました。それはまさに7畳半の部屋に4人を詰め込み、タコ部屋状態での生活を強いる、早朝6時から深夜に及ぶ重労働をさせる等、まさにドレイ工場そのものでした。
 この様な労働実態にあるにもかかわらず、労使協調路線を走る労働組合本部は、人員整理か生産効率アップかの二者択一を組合員に迫り、会社の生産強化体制に全面協力をしてきました。こうした中で全国にある工場の労働組合では、働く者のくらし・権利を守ってこそ労働組合だと、全国で闘いに沸き起こりました。しかし、会社は次々と秘密労務組織といわれるインフォーマル組織を各工場につくり、全国にある工場の労働組合を変質させていき、労働組合活動家は、赤い水虫、生産阻害者などと、罵声を浴びせるという人権蹂躙の限りをつくしました。
 こうした中で、1985年市川工場で32名が、不当労働行為・賃金・昇格差別事件として、東京都労働委員会に申立てをおこないました。そして、それに続き9つの事業所でも同様の申立を行い、全国的な大型争議として闘いに立ち上がりました。

 ところが、1985年に申し立てた市川事件が、1996年、11年余にわたる審議の後、棄却・却下という信じがたい不当な命令が下されました。理由は①企業内苦情処理委員会を活用しなかった、②移行挌付試験を受験しなかったということだけで、却下されたのでした。
 中労委も都労委同様に棄却・却下となりました。そして東京地裁でも中労委判断を是認する不当な判決がだされました。
 東京高裁では、結論は控訴棄却となりましたが、事実認定で①明らかな格差があった、原告らの主張を妥当とする、見る余地があるとこの事件の判断を満たす内容を示したことは重要でした。
 そして、最高裁は1年8ヶ月の検討を経た後、不受理の決定を下しました。
しかし、重要なことは、東京高裁が差別賃金の存在を司法判断として認めたことです。

 争議になって30年。明治乳業争議団の団員のなかには、闘い途中で世を去った仲間が何人もいます。これ以上、闘いの犠牲者を出すわけにはいかないのです。残された争議団員も病気を抱え、まさに老骨にムチ打って、争議解決のために身体を張って頑張っています。明治乳業と明治HDに私は言いたい、争議団員・社員の声を受け止めない企業というのは、必ずや大きな問題を起こし、滅び去っていく、今こそ、全面解決の決断すべき時だと思います。そのことを最後に申し上げて東京地評を代表しての挨拶とします。
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