ボクの卒業した湯川小学校校歌には次のようにある。
2.海べのかなた くっきりと
うかぶ臥牛は 僕たちの
いつも心に えがいてる
高い望の そのしるし
さらに、ボクの卒業した湯川中学校校歌にも次のようにある。
3.夕べ臥牛の 影うつす
港の栄えを ねがいつつ
道にいそしみ 睦みあう
我が学び舎に 栄あれ
そして、さらにさらにボクがしょうがなく通った函館中部高等学校の校歌にも次のようにある。
1.火柱のはためく峰も 年古りて緑の臥牛
宇賀の浦風の砂山 波よせてくずれ流るる
見よや物なべてうつろふ 窮みなし流転の相
臥牛とは、臥牛山、いうまでもなく函館山である。
市内の学校校歌の多くに臥牛は存在する。
好き嫌いにかかわらず、シンボルとしての存在は教え込まれているはずなのだが、
それに対して、大した感慨を抱かないというのは、単に詩的な感覚がないからだろうか。
観光客にとっての函館山は、夜景にすぎない。
しかし、ボクにとっての函館山をバックにする夕陽は、明日への希望だったような気がする。
でも、23年前から函館山の麓に住むようになってからは、景色は日常に同化しているものの、
やはり特別な存在だ。
湯川という低い位置から遠くに眺める函館山と
小高い丘から眺め下ろす函館山は
違う存在なのかな、とあるブログを見て感じた次第。
2.海べのかなた くっきりと
うかぶ臥牛は 僕たちの
いつも心に えがいてる
高い望の そのしるし
さらに、ボクの卒業した湯川中学校校歌にも次のようにある。
3.夕べ臥牛の 影うつす
港の栄えを ねがいつつ
道にいそしみ 睦みあう
我が学び舎に 栄あれ
そして、さらにさらにボクがしょうがなく通った函館中部高等学校の校歌にも次のようにある。
1.火柱のはためく峰も 年古りて緑の臥牛
宇賀の浦風の砂山 波よせてくずれ流るる
見よや物なべてうつろふ 窮みなし流転の相
臥牛とは、臥牛山、いうまでもなく函館山である。
市内の学校校歌の多くに臥牛は存在する。
好き嫌いにかかわらず、シンボルとしての存在は教え込まれているはずなのだが、
それに対して、大した感慨を抱かないというのは、単に詩的な感覚がないからだろうか。
観光客にとっての函館山は、夜景にすぎない。
しかし、ボクにとっての函館山をバックにする夕陽は、明日への希望だったような気がする。
でも、23年前から函館山の麓に住むようになってからは、景色は日常に同化しているものの、
やはり特別な存在だ。
湯川という低い位置から遠くに眺める函館山と
小高い丘から眺め下ろす函館山は
違う存在なのかな、とあるブログを見て感じた次第。