毎日が夏休み

LEAVES THAT ARE GREEN TURN TO BROWN

シルバーシャンツェ 2014年秋

2015-01-06 23:57:57 | ジャンプ台放浪記関連

 

延び延びになってしまっていたシルバーシャンツェ遺構を見つけてきた話の続きです。

前回の、予告のような記事はこちら 

 

大正11年(1922)1月6日、ちょうど今日は2015年1月6日。

テレビ番組のように「今日は何の日だったでしょう」なんて問題があるとすれば、

答えは今から93年前の今日はシルバーシャンツェの杮落しの日、きっとだれも答えられないのでは。

そう、2026年冬季オリンピック招致に札幌が名乗り出ていますけど、

日本初の固定ジャンプ台が札幌の小さな三角山にあったことなんて、

きっと上田市長も市の関係者も北海道知事も知ってはいないと思います。

 

そのシルバーシャンツェはいったい三角山のどこにあったのか。

土と木造建築の櫓で造られたジャンプ台は90年以上たった今どこまで形跡が残っていて、

それを見つけだし、そこに実在した確証を得ることができるのか。

 

2014年秋、シルバーシャンツェになんだか惹かれる、縁のあるメンバーが集まり尾根を下りて行きました。

 

ジャンプ台といわれてもピンとこないかたがほとんどかと。

昔でいえば「日の丸飛行隊」、あるいはあの「船木~」、最近では「レジェンド葛西」に「沙羅ちゃん」が飛ぶ、

あの巨大な滑り台のような飛躍台。

 

 

 

 これがその三角山にあったシルバーシャンツェの櫓です。

木造建築物ですので、これがそのまま残っているとは思えない。

 実際取り壊したという話も残っています。

 

現地に立ってみると、私個人の感想ですが、浮かんだ言葉は「え?」でした。

他のメンバーはどう感じていたのかは知りません。

もっと遺構、あるいは廃墟的雰囲気が残っているかと想像してきたのですが、

目の前にあるその空間はほとんど「自然」な状態で、

そこだけ植物樹木の生え方が少し違う広場が残っているだけという印象でした。

期待度が高すぎて気持ちだけ先行してしまっていたのかもしれません。

あるいは、廃墟的形で残っていて欲しいという想いが強すぎたのか。

その場に立ったら泣いてしまうのではないかと心配していたのに、取り越し苦労のようでした。

でも、これがおかしなもので、後からじわじわと愛着というか親愛感というかやっぱり愛でしょか、

じゅわ~っとにじんでカラダ全体をしっぽり包み込むこの気持ちは何?

 

記録では、「踏切地点から10メートルほど下に岩盤が出ていて、

工事をするのが大変だった」という内容のことが書いてありますが、

 

 

 

ここのことかもしれません。

踏切地点よりちょうど10メートルほど下左側(高い地点から低い地点を見下ろして)に、

岩盤らしきものが現れていました。

 

 

 

 

踏切地点近く。

 

 

これだけでは「ここにシルバーシャンツェがあったんじゃないか?」と疑問が残る形にしかなりませんが、

この後決定打といえる遺構を見つけることができました。

遺構とは前にも書きましたが、失われた建造物の配置や構造を知る手がかりとなる残存物のことをいいますが、

この踏切地点手前に自然の物とは思われない、明らかに人の手が加えられた、

人工的に造成したしか考えられない、階段状になった斜面を見つけ出したんです。

あ、あまり期待を大きくもたずに見ていただきたいのですが、

 

 

 

わけのわからぬ写真なのがとっても悔しい。

 

 

石を積んで土を押さえているのがわかるでしょか。

階段、石と土の段、段々畑、どう表現したら通じるのか、

平らな面が2メートル弱(測ったのですが忘れてしまいました)、

石の土留め、その下にまた平らな面と、数え間違いがなければ6段、この斜面に造成されてありました。

 

 

 

笹に埋もれていますが、こんな山奥の斜面に6段にもなる階段があるわけない。

ということは、やはりここに93年前にシルバーシャンツェがあったということになるのでは。

斜めに線が走っていますが、これは持ち込み計測したスケールです。

 

 

 

 

これはシルバーシャンツェの設計図です。

人工的造成階段はC地点~B地点間のC地点寄り。

踏切地点近くの写真はほぼC地点。

一期工事では盛り土でアプローチ30メートル造成。

現地でも周りよりも高くなっている「小山」のような部分があり、その地点までスケールで測ってみると、

 

 

 

ほぼ等しい値が。

ちなみに先ほどの笹の写真に斜めに走るスケールが写っていましたが、これがそれで、

C地点より下踏切地点と思われる場所から盛り上がった地点Bまでの長さです。

 

二期工事ではB地点から上に櫓を組みアプローチを20メートル延長。

 

 

これまたA地点と思われる20メートル先にも盛り上がりができていて、

合わせて記録通りアプローチ50メートルとなりました。

 

 

盛り上がった部分の幅もほぼ5メートルで記録と合致する。

 

 

 

全景とまではいきませんが、ここがシルバーシャンツェの跡地に違いありません。

(看板と短冊のようになってしまいましたが、はっきり姿が写っているので…)

 

もう一度シルバーシャンツェの写真を。

 

 

重ねてみると、こんな感じであったのかもしれません。

 

この斜面の土の硬さも調べてみたのですが、まるで杵で突いたような硬さで、90年以上たった今でも、

枝の先で掘ってもびくともしない硬さだったのには驚きました。

全部人力での工事だったでしょうに。

 

その後、資料を調べてゆくにつれいろいろな疑問点が出てきましたが、

今となってはしっかりとした細かい信頼できる記録が出てこない限り、

シルバーシャンツェの最終的な形は調べようがないのではと。

たしかにここにあったんだということがわかっただけで私は満足しています。

それが大きな事実なのですから。

今回私たちが調べに下りていき遺構を見つけたことにより、

これで別の意味でシルバーシャンツェはこの三角山の尾根に固定されたことになり、

シルバーシャンツェとともに放浪してきた私(あるいは私たち?)も放浪者ではなくなるわけです。

楽しかったなぁ。

93年前の今日は杮落し。

目の前にある三角山の斜面を北大生たちが転げ落ちて、いや飛んでいたのかと思うと感慨もひとしおです。

転げ落ちと書きましたが、これはわざとふざけて書いたのではなく、

ランディングバーンの平均傾斜30度、

80メートルという大規模なシャンツェにこの日の杮落しはほとんどの人が転倒し、

転ばなかったのはたったの一人だったそうです。

記念に私たちも「千仞の谷底へ落ち込む感があり、腹の中が皆其の侭もって行かれるような気がした」

とのちに語られたランディングバーンを果敢にもアタック、

転げ落ちそうになりながらも無事下界?に戻ってきました。

 

いやぁ、しかしだね、誰も私のこと女性扱いしてくれてなかったな(笑)。

初め私がビビりまくっていた時は声をかけてくれたけど、

そのあと「あいつはいける」とハンコ押されたのか、藪だろうが転げ落ちそうな急斜面だろうが関係なし(笑)。

これって私としては嬉しく、誇ってもいいことなんだろうけれど、でもやっぱり可笑しくてちょっと哀愁か(笑)。

といいつつ、本当いいメンバーでした。

一人一人名前をあげて感謝の気持ちを伝えたいです。

今回かなり私は物忘れと頓珍な問答を繰り返していたように思えます。

4年間まるっきり離れていたし、専門的知識もなければ立体視もできない。

それでも今でも時々あの時の風景がよみがえり、胸のあたりがじゅわっとなります。

 

 

 

なんだか最後はナウシカっぽい(笑)。

シルバーシャンツェ跡地で見つけたラン科と思われる植物。サイハイランかな?

今年の春にはシャンツェの片隅で静かに咲いていることでしょう。

ノバラの細い木も、ナニワズも育っていた。

あの階段のような造成斜面、90年以上経っているのによく残っていたものだと思います。

あれが見つからなかったら、怪しい場所レベルで終わるしかなかったかも。

アプローチ部分の斜面の形状も確かに自然っぽくないようにも見えるけど、

切り盛りだけでは決定打には至らなかったかも。

この先シルバーシャンツェはどうなってゆくのでしょう。

日本最初の固定式ジャンプ台遺構が90年以上経った今でも残っているというのは凄いことだと思うのですが。

でもこのまま静かに静かに何十年もかけて周りに飲み込まれてゆくのかな。

まぁ私が生きているうちは、思いを馳せる人間がまだいるということだな。

そう、やっぱり私の窓はシルバーシャンツェの特等席でした(笑)。

シルバーシャンツェの踏切地点から我が家が見えたのには喜び笑いました。

私の窓からじゃなくても、シルバーシャンツェ跡地はしっかり姿を現し見えているんですよ。

どうぞ見上げてみてください。

以上、シルバーシャンツェ2014年秋の報告でした。