ある音楽人的日乗

「音楽はまさに人生そのもの」。ジャズ・バー店主、認定心理カウンセラー、ベーシスト皆木秀樹のあれこれ

古本屋にて

2019年04月27日 | 随想録

【Live Information】


 やっと行くことができた。
 雨の上がりきらない、薄暗い夕方の倉敷の町。
 美観地区と呼ばれる観光地のやや外れにある、白壁の町並みにひっそり溶け込んだ古本屋。


     
 

 一目で本好きなのが伝わってくる(少なくとも僕にはそう思えた)女店主が、物静かに、店を守っている。
 古本屋というと古書が乱雑に山積みされている印象があるけれど、さりげなく整頓された店内からは物静かな清潔感や微かな知性のようなものが 「あるのが当たり前」な感じで漂っているような気がした。
 そんな店内の空気が僕を控えめに歓迎してくれているような錯覚に陥りながら、本棚を見て回る。
 
 
 本棚のひとつに、CDが陳列されている。
 手に取ってみる。
 高柳昌行(guitar)、吉沢元治(bass)、豊住芳三郎(drums)という、日本のフリー・ジャズ草創期を担って奮闘したメンバーからなる、ユニークなトリオのライブ盤だ。


     


 これを買って今夜の演奏場所に戻ろうと店主に品物を差し出すと、小さいけれど涼しげなよく伝わる声で、
 「このCDは、制作の方が亡くなられたのでもう作られないのですよ。これが最後の一枚です」
 と教えてくれた。
 その言葉がイントロダクションとなって会話がはじまった。
 この店へ来たいとずっと思っていたこと。
 背表紙のタイトルを読むだけで楽しくて時間が経ってしまうこと。
 そのうちに、子供の頃の倉敷の様子をお互いに話しあって、「懐かしいですねえ」などと言い合ったり。
 
 
 店の外では、観光客だろうか、中年のちょっとお洒落な夫婦が中の様子を伺いながら、入ってみようかどうしようか迷っている。
 閉店時間も間際なので、店休日だけを聞き、また来てみたい気持ちを抱えながら店を出た。
 この古本屋は、ここに移転してくる前から通算すると開店25周年を迎えるそうだ。
 店主の田中美穂さんはエッセイストでもあり、苔や亀に詳しいことで知られているユニークな方だ。
 

 古本屋の名は、「蟲文庫」という。


      
 

 今夜の演奏場所に戻ると、さっきの中年のご夫婦が入ってきた。
 そして演奏後、ふたりはぼくたちに笑顔を向けながら、楽しそうに店を出て(たぶん宿へ)行った。


 

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ネクタイを締めながら

2019年01月15日 | 随想録

【Live Information】

 よく晴れて清々しい日曜の朝。
 ふだん休日はいつも遅くまでダラダラ寝ているムスコが珍しく早くから起きて、髪型をいじくって、そればかりかさらに珍しくワイシャツまで着て、部屋から部屋へウロウロしている。
 
 
 つい一昨日
 「気分悪いの〜なんじゃお前のその態度は
 「何がよ
というやり取りがあったばかりで、そこからケンアクな雰囲気が続いていたのに、今朝は
 「『すべらない話』でアインシュタイン稲田がメッチャ面白かったよ」
と話しかけてきたりしたので、「今日なんかあるんか?」と聞いてみたら、成人式だという。
 
 
 そうか、ついに成人式か。
 「そういえば成人の日は、いまは1月15日じゃないんだな」思うと同時に、「なんや、そんなのなんも聞いてないわ」と一瞬拗ねかけたら、ムスコが「ネクタイこれでいいかなあ」と聞いてきた。
 見てみると、ちょっと長くて不恰好。
 結ぶポイントが合ってなかったので、長さがちょうど良くなるよう結び直してやった。
 
 
 前からだと左右逆に見えるので訳がわからなくなるから、背中から抱きつくような感じでネクタイを締めてやったんだけれど、締めながらなんとなく「自分は誰にネクタイの締め方を教わったかなあ」と考えていた。
 ぼくは早くから家を飛び出してしまったので、父からネクタイの締め方を教わる機会なんてなかった。もしかすると親父もぼくにネクタイの締め方を教えたかったのかもしれないなあ。
 そう思ったらきちんとネクタイを結んでやりたくなった。
 ネクタイピンもひとつやり、タイピンの位置も教えてやったら、ムスコは少し照れたように小さく「ありがと」って言った。
 
 
 日ごろのぼくはやりたい放題だけれど、こういう時は自分も人の親だったということを思い出してしまうなあ。
 きっとムスコは今夜は遅くなるんだろう。
 あ、小遣いをやるのを忘れた、、、
 けど正月にやったばかりやから、まあいいかw





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第100回全国高校野球選手権記念大会

2018年09月09日 | 随想録

【Live Information】


自分が野球に興味を覚えたのは、幼稚園の頃だと思います。
小学校に上がった年から阪神タイガースのファンになり、それ以来タテジマ一筋です。
高校野球で、一番古い記憶は、昭和44年の、あの松山商高-三沢高戦です。夏の大会決勝戦で延長18回を戦い、0対0で引き分け、再試合は松山商が制した、球史に残る熱戦です。その再試合、1回表に松山商が2点を先取しましたが、テレビに映ったそのスコアボードを鮮明に覚えています。


夏の甲子園が第70回、第80回と回を重ねるごとに、「そうか、あと〇〇年後は記念の100回大会なのか。それをこの目で見られる可能性があるんだな~」と思っていたこともありました。「その頃の自分はどういうふうになっているんだろう」とも。
そして迎えた平成30年(2018年)、第100回全国高校野球選手権記念大会。
自分は人生の後半に差し掛かり、子どもも大きくなり、ずっと音楽を続け、いまでも野球が好きなままです。
「平成」という年号の最後の夏の甲子園、いろんなドラマが生まれました。
そのドラマの、自分なりの15撰を書き留めておこうと思います。


                                             


①大優勝旗新調

 100回大会を記念して深紅の大優勝旗が新調されました。新しい旗は三代目で、京都市の平岡旗製造が制作しました。制作費1200万円、制作に要した時間は1年2ヵ月。先代と同じく西陣織のつづれ織りで織られました。縦120cm、横150cm、重さ4.5kg(ポール部分を含めると約10kg)。ハトの絵柄、「優勝」「VICTORIBUS PALMAE(ラテン語で『勝者に栄光あれ』の意)」の文字が金色で織り込まれています。2018年6月27日、甲子園球場でお披露目されました。ちなみに二代目は1958年の第40回大会から60年にわたって使われました。



②甲子園レジェンド始球式
  写真左…松井秀喜 写真右…井上明、太田幸司(左端井上、右から2人目が太田)
 
 この大会では、開幕日から決勝戦まで、夏の甲子園を沸かせたかつての球児たちが日替わりで「甲子園レジェンド始球式」を務めました。
 開幕日の8月5日、第1試合の始球式には、日米通算2643安打・507本塁打を記録した球史に残るスラッガー松井秀喜が登場。高校時代から強打を恐れられていた松井は、第74回大会(1992年)2回戦の明徳義塾戦で5打席すべて敬遠され、世論を巻き込む大論争が起きたのはあまりにも有名です。
 その開幕試合には、松井の出身校星稜高が登場するという偶然のおまけ付きでした。(試合は星稜が9対4で藤蔭高を破る)
 8月21日の決勝戦では、1969年の第51回大会で歴史に残る延長18回引き分け再試合の死闘を繰り広げた三沢高(青森)の太田幸司氏と松山商高(愛媛)の井上明氏が始球式を行いました。
 大会各日の始球式に登場した元球児は以下のとおり。
 8/5 松井秀喜(星稜)、8/6 石井毅(現姓名・木村竹志、箕島)、8/7 定岡正二(鹿児島実)、8/8 牛島和彦(浪商)、8/9 平松政次(岡山東商)8/10 谷繁元信(江の川)、8/11 水野雄仁(池田)、8/12 本間篤史(駒大苫小牧)、8/13 坂本佳一(東邦)、8/14 中西清起(高知商)、8/15 安仁屋宗八(沖縄)、8/16 板東英二(徳島商)、8/17 金村義明(報徳学園)、8/18 中西太(高松一)、8/20 桑田真澄(第1試合 PL学園)、佐々木主浩(第2試合 東北)、8/21太田幸司(三沢)・井上明(松山商) (校名は甲子園出場時のもの)



③史上最多の56校出場

 100回大会を記念して、出場校は史上最多の56となりました。1県2代表だったのは、北海道、東京、千葉、神奈川、埼玉、愛知、大阪、兵庫、福岡の9都道府県。恒例の甲子園練習は日程の都合でとりやめとなり、各校15分ずつの甲子園見学が行われました。



④白山高校初出場

 記念すべき100回大会の三重県代表となったのは白山高校。夏の大会100回目にして春夏を通じて初めて甲子園切符を手にしました。
 白山は、夏の三重県大会で2007年から10年連続初戦敗退。川本牧子部長と東拓司監督が就任した2013年の部員はわずか4名で、東監督が就任後に「甲子園へ行くぞ」と話した時には部員から野次とブーイングが飛んだといいます。
 2017年夏、秋、2018年春の各県大会ははいずれも3回戦に進出しましたが、夏はノーシード。しかしそこから見事代表の座を掴みました。
 8月11日の1回戦第4試合で愛工大名電高と対戦、試合は0対10で完敗しましたが、「ヤンキー高校」とも言われる白山高の応援に人口1万1千の白山町から2千人が駆け付けました。白山高の活躍は「リアル・ルーキーズ」とも言われ、大きな話題となりました。



⑤大会2日目(8月6日) 1回戦 高知商(高知)14-12山梨学院(山梨) 
  形勢6転試合


  山 梨100 081 200|12
  高 知012 404 30X|14

 先取点を「1転」と数えると、6度形勢が逆転したスリリングな試合でした。両軍合計4本塁打、30安打が飛びかう乱打戦。山梨学院高の4番中尾が5回に放った満塁本塁打は大会通算1600号本塁打。高知商は創部100周年の今年、100回大会に出場し、12年ぶりに勝利するという、記念すべき年になりました。形勢6転試合は、夏の甲子園史上2度目でした。



⑥大会2日目(8月6日) 1回戦 佐久長聖(長野)5-4旭川大(北北海道) 
  史上初のタイブレーク適用


  佐 久200 000 020 000 01|5
  旭 川012 000 001 000 00|4

 試合は4-4で延長戦へもつれ込み、その後は12回終了まで両軍無得点。そのため13回から史上初のタイブレークが適用されました。
 タイブレークとは、延長12回までに決着がつかない場合、13回から無死一、二塁の状態で攻撃を始める制度です。
 14回表、佐久は無死満塁から二ゴロで1点を勝ち越し、そのまま逃げ切りました。



⑦大会5日目(8月9日 1回戦) 創志学園(岡山)7-0創成館(長崎) 
  西、毎回の16奪三振で完封


  創  志000 400 300|7
  創成館000 000 000|0

 創志学園の2年生エース西は、この試合最速149kmの速球とスライダーを武器に、選抜ベスト8の創成館を被安打4、無四球に抑え、三塁を踏ませない快投で完封しました。奪った三振は6連続を含む16個で、併せて大会91度目の毎回奪三振を達成しました。帽子を飛ばしながらの力投ぶり、闘志むき出しのガッツポーズは話題になりました。



⑧大会7日目(8月11日 1回戦) 龍谷大平安(京都)3-2鳥取城北(鳥取) 
  龍谷大平安、100回大会で春夏通算100勝を達成


  鳥 取000 000 020|2
  平 安100 100 001|3

 2-2で迎えた9回裏、2死から平安の1番水谷が四球で出塁し、立て続けに二盗・三盗を決めた後、次打者安井が左翼線にサヨナラ打を放ちました。試合後、感涙をぬぐう原田英彦監督の姿が印象的でした。春夏通算100勝は中京大中京に次いで史上2校目。平安は春40回夏34回の甲子園出場で100勝に到達しました。



⑨大会8日目(8月12日 2回戦) 済美(愛媛)13-11星稜(石川) 
  矢野が春夏を通じ史上初の逆転満塁サヨナラ本塁打


  星 稜501 010 002 000 2|11 
  済 美001 000 080 000 4|13

 済美は1-7の劣勢だった8回裏に一挙8点を挙げて試合をひっくり返しました。史上2度目のタイブレークにもつれ込んだ13回表、星稜は2点を入れて勝ち越しましたが、その裏済美は無死満塁から1番矢野が右翼ポールを直撃する劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打を放ちました。矢野の本塁打は高校通算2本目でした。サヨナラ満塁本塁打は夏の大会史上2本目。



⑩大会14日目(8月18日 準々決勝) 金足農(秋田)3-2近江(滋賀) 
  金足農高、9回裏に逆転サヨナラ2ランスクイズ


  近 江000 101 000|2
  金 足000 010 002|3

 金足農は、1点ビハインドの9回裏無死満塁から9番斎藤がスクイズを決めると、三塁走者高橋に続き一気に二塁走者菊地彪も生還。劇的なサヨナラ勝ちを収めました。金足農高のベスト4入りは初出場だった1984年の第66回大会以来、34年ぶり2度目。



⑪大会15日目(8月18日 準決勝) 金足農(秋田)2-1日大三(西東京) 
  金足農高旋風やまず。秋田県勢、103年ぶり2度目の決勝進出


  金足農高の快進撃を伝える地元紙。
 

  写真左…準々決勝の近江戦、秋田市中心部のショッピングモールでは230インチの大画面に600人以上が釘付け。初戦時は50人ほどだったという。 
  写真右…秋田駅に設置されたボード。金足農高へのメッセージでいっぱい。
 
 金  足100 010 000|2
 日大三000 000 010|1

 100回目の夏の大会で金足農高が決勝進出を決めましたが、秋田県勢が決勝へ進むのは、なんと1915年の第1回大会の秋田中学以来実に103年ぶり2度目のことです。これもまたひとつの奇跡ではないでしょうか。
 


⑫大阪桐蔭、歴代最多の夏通算48本塁打。決勝で2本追加、通算50本塁打とする。
  大阪桐蔭打線の中核、根尾(左)と藤原(右)

 大阪桐蔭高は、準々決勝で浦和学院高戦を11-2で破りましたが、この試合で4本塁打を記録して夏の大会通算本塁打を歴代最多の48としました。決勝でも2本塁打を放ち、記録を通算50本に伸ばしました。
 この大会、大阪桐蔭高は藤原と根尾のふたりの強打者を擁していましたが、ふたりとも3本塁打を放ったほか、石川と宮崎が1本塁打ずつ記録しています。
 ☆藤原 7試合 26打数 12安打 3本塁打 11打点 打率.462
 ☆根尾 7試合 21打数  9安打 3本塁打  5打点 打率.429
 なお、従来の記録はPL学園高の45本塁打でした。



⑬金足農吉田、6試合で62奪三振 侍ポーズも話題に

 金足農高のエース吉田は、最速150kmの速球とスライダーを武器に、秋田県予選から甲子園大会準決勝までの10試合すべてを完投しましたが、その疲労からか、決勝では5回を投げたあと降板しました。この夏の吉田は、予選636球、甲子園881球、計1517球を投げ抜き、高校野球ファンを虜にしました。
 中堅手大友との必勝ルーティンで、リラックスするために行っている「侍ポーズ」も話題になりました。
 ☆秋田県予選の記録 5登板 5完投 3完封 5勝 0敗 43回 26被安打 57奪三振 16与四死球 7失点 5自責点 防御率1.05
 ☆甲子園大会の記録 6登板 5完投 0完封 5勝 1敗 50回 55被安打 62奪三振 14与四死球 23失点 21自責点 防御率3.78(準決勝までの防御率2.00)



⑭大会16日目(8月21日 決勝) 
  大阪桐蔭、史上初の2度目の春夏連覇

 
  金 足001 000 100|2
  桐 蔭300 360 10X|13

 大阪桐蔭は好投手吉田を打ち崩して序盤で大差をつけました。予選からひとりで投げ抜いてきた金足農の吉田は5回を投げ終えてついに力尽き、マウンドを打川に譲りました。
 大阪桐蔭は、2012年に次いで史上初の2度目の春夏連覇を達成。今春には2017年に引き続いて2年連続で選抜に優勝しています。
 甲子園の春夏連覇は、作新学院(栃木, 1962)、中京商(愛知, 1966)、箕島(和歌山, 1979)、PL学園(大阪, 1987)、横浜(神奈川, 1998)、興南(沖縄, 2010)、大阪桐蔭(大阪, 2012)に次ぎ史上8度目。



⑮史上初の観客100万人突破

 大会16日間の総入場者数は史上初めて100万人を超え、101万5千人を記録しました。皇太子ご夫妻が出席し、松井秀喜氏が始球式を務めた開幕日に6万4千人が入場したほか、近畿勢が4試合中3試合に登場した第7日(8月11日)には8万人の入場を記録。
 これまでの記録は72回大会(1990)の92万9千人でした。



番外編 決勝戦後の甲子園の空に虹

 決勝戦終了後、甲子園球場の空に虹がかかりました。同じ頃、決勝で敗れた金足農高の地元・秋田市でも虹が見えました。
 この虹は、もしかすると次の100年への架け橋なのかもしれません。多くの名場面を生んだ今大会の終わりを告げているかのようなミラクルでした。
 


 100回目の夏の大会、「史上初」の出来事や名場面がいつにも増して多かったように思います。
 200回大会はこの目で見ることはできませんが、高校野球はこのまま健全に発展して欲しいと思います。
 球児の皆さんには感謝、感謝です!





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春の海を見たくて

2017年04月09日 | 随想録

【Live Information】


 曇りの海辺。
 玉野市の渋川海岸です。
 まずは渋川八幡宮にご挨拶に伺う。
 ちょうど猫会議がものものしく開かれていたので、諸氏にも挨拶をし、写真を撮りたい旨お願いしてみる。
 すると一番目つきのワルいのが「好きにしろ」とばかりに寝そべったのがおかしかった。(^^)


     


 海岸では結婚式直後のカップルの記念撮影と思いきや、ウェディング関係の宣材撮影でしが、
 一瞬なんだか楽しい気分にさせてもらいました。


     


 どんよりした瀬戸内海をあとにして、これから今夜のライブ会場(玉野Musik)へ向かいます。


     
 




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戻ってきた猫

2016年09月18日 | 随想録

【Live Information】


 いつ本降りになっても不思議のない曇り空と、濁って増水している旭川。
 ぼんやり眺めていると、景色が白黒写真に見えてくるのが不思議です。
 ライブ前のリハーサルが終わったので、時間まで河川敷で景色をながめていました。


 


 お店へ戻る途中でニャンコに遭遇しました。
 いいツラガマエしてるんです。
 これは写真に撮っておきたい。
 ヤツは即座に警戒モード。
 しかし最近のぼくは、見知らぬ動物といきなりコミュニケーションがとれるかどうか実験するのがマイブームなので、そそくさと逃げようとするヤツに、「おねがーい写真撮らして~」と声をかけてみたんです。


 すると、立ち止まったと思ったらすぐこちら向きになり、同じ位置に戻ってきてくれたうえに、なんとオスワリまでしてくれました。
 大急ぎで二、三度シャッターを押すと、それを見計らったかのように、「もうええやろ」的な感じでめんどくさそうにさっさと行ってしまいましたが(^^;)
 写真のニャンコを見ると、「しょーがねえな、早よ撮れや」的な不機嫌さ満載の顔。
 それでも撮影させてくれたのは、ヤツなりの譲歩というか、愛想だったのでしょうか(^^;)


 
 2016年9月18日(日)

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大阪城

2016年03月05日 | 随想録


 先月、演奏中にコントラバスにアクシデントがありました。
 すぐに大阪の「FUJIYA」さんへ修理に出したのですが、今日それを受け取りに行ってきました。
 少し早く着いたので、ブラブラと歩いて大阪城まで行ってみました。
 日陰はまだ肌寒いものの、ジャンパーを着ていたら日なたでは汗ばむほどの陽気でした。


     


 大阪城の石垣は、瀬戸内海に浮かぶ岡山県笠岡諸島の北木島で採れた良質の石材「北木石」が使われています。
 北木島といえば、漫才コンビ「千鳥」の大悟さんの出身地。
 あながち岡山と関係がないわけではありません。


     


 どちらかというと、ぼくは「兵(つわもの)どもが夢のあと」という風情の、さびれた城跡などが好きだったりするのですが、さすがに大阪城の堂々とした佇まいには目を見張らずにはいられません。
 高さを競うように、周辺に軒を連ねているモダンなビルが安っぽく見えるくらいです。


     


 きょうは財布も忘れずに持ってきたので、ちゃんと支払いもできました。 
 愛器を連れて帰ると、さっそく今夜は演奏です。
 微調整もしてくださっているので、早く音を出してみたいです。

     

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チューリップ・デート

2008年12月15日 | 随想録

 
 毎年この時期になると思い出すことがあります。
 それは高校2年の時に、当時大好きだった人と行った、チューリップのコンサートです。


 LPレコードを買うための2500円を捻出するのに四苦八苦していたぼくは、当時はライブやコンサートにはあまり行っていませんでした。
 チケット代は、ほぼレコード代と同じ金額だったので、「ライブはその日一回しか聴くことができないけれど、レコードなら何度も繰り返して聴ける」という、まったく貧乏性な理由があったからです。
 でも当時大好きだった「まりさん」から、その年の冬に「MINAGI君、チューリップがこの街に来るんだけど、コンサート一緒に行かない?」と誘われると、一も二もなくOKの返事を出したもんです。


 まりさんは、ぼくより2歳年上です。彼女は吹奏楽部でフルートを吹いていた先輩で、ぼくが1年の時に3年生だった人です。
 3年生は1学期までしか部活に出てこないのですが、妙にぼくとまりさんとは顔を合わせる機会が多く、いろんな話をしているうちにぼくの方がどんどん懐いていった感じでした。
 まりさんは地元の女子大に進みましたが、その頃からは毎晩のように電話で話したり、映画に行ったり、お茶を飲みに行ったり、としょっちゅう会ったり話したりしていて、まりさんなしの毎日は考えられない、マセたぼくでした(^^;)。


 チューリップはたまたまクラスメイトのユカリちゃんが大ファンで、ロック、とくにビートルズ好きだったぼくに、「チューリップもいいよ~」と言って2枚組ベスト・アルバム「チューリップ・ガーデン」を貸してくれたことでよく聴くようになりました。たしかにビートルズの影響は大きいながらも、フォークやポップスなどのテイストを加味した、日本人ロック・グループらしいオリジナリティが感じられました。
 高校2年の時の学園祭で、先輩に誘われてチューリップのコピーバンドでドラムを叩いてからは、いっそうチューリップが身近なグループになっていました。


 そういうわけで充分チューリップとの接点があったぼくが、大好きなまりさんの誘いを断るわけがありませんね。


 コンサートの内容はあきれるほど覚えていません。当時リリースしたばかりのニュー・アルバムからの選曲がほとんどだったので、知らない曲が多かったせいもあるかもしれません。それより、大好きなまりさんとふたりでコンサートへ行った、ということでポーッとなっていたのかな。
 でも、アンコールで「心の旅」をはじめとするヒット・ナンバーの数々を繋げたメドレーを披露してくれたことは覚えていますね。また財津さんがピアノをギターに持ち替えたりしてマルチ・プレーヤーぶりを発揮するところなんか「カッコいいな~」なんて思ったものです。


 さて、ぼくたちはコンサートが終わってどうしたでしょうか。
 自転車置き場まで手を繋いで歩いたのは覚えています。
 それからふたりは・・・、てなことはあるはずもなく、ぼくは自転車でまりさんを家まで送っていきました。
 家につくとまりさんは、「お腹すいたんじゃないの? 何か食べて帰る?」と言って天丼を作ってくれました。おかあさんもおばあさんもいるのに(おとうさんは確か入院中だった)、こんな遅くに(10時くらいだったかなぁ)家にあがるのもどうかと一瞬思ったんですが、たしかにお腹がすいていたのと、もう少しまりさんの顔を見ていたかったので、図々しくもお邪魔することにしました。


 居間で話し込んでいるうちに、気が付くと明け方の5時!
 大慌てでまりさん宅をあとにして自転車で家まで帰ったんですが、不思議と両親に叱られた記憶がないのです。きっと、楽しかったことしか記憶に残ってないのでしょうね。


 さて、そんなぼくとまりさんの関係ですが、付き合っていたのか、とよく聞かれましたが、実のところはどうだったのかなあ。ぼくは彼女に改まってお付き合いを申し込んだこともなかったし、実のところまりさんがぼくのことをどう思っているのかを知るのが何となくこわくもあったので、まりさんの気持ちは聞かずじまいだったんです。2~3年はこんな調子でしょっちゅう会ってたんですが、そのうちまりさんには彼ができ、いつの間にか会うことも電話することもなくなって…
 でもよく夜にふたりきりで会ってくれたりとか、(コワゴワだったけど^^;)手を繋いだり肩を抱いたりしてもそれに応じてくれたこととか、そんなことを思うと、一時期ではあってもぼくに好意は寄せてくれていたのかなあ、なんて思ったり・・・。


 今になって思い出してみると、ちょっと甘くてちょっとホロ苦いような、そんな高校時代の恋バナです(^^)



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ぼくがベースをはじめたわけ

2008年10月19日 | 随想録

♪演奏中に脳内がこんなになったことも、かつてはしばしばありました…


 今、ぼくの周りを見回しても、音楽と関わっている身内は誰もいません。ただのひとりも、です。
 その代わり、と言ってはなんですが、絵に関わっている者はかなりおります。父方の祖母は日本画を近所の人に教えていたし、母は趣味の油絵をもう数十年も描き続けています。そのほかには、昔、少女漫画誌に投稿しては、よく賞を貰ってきてた人、美大を出てグラフィック・デザイナーになっている人などなど。
 しかし、音楽に関わっている者は、なぜかぼくだけなんです。不思議だ…


 幼稚園の時、オルガン教室をたったの一日で挫折したのちは、テレビの歌番組を見るくらいで、ほとんど音楽とは無縁の少年時代を送っておりました。ところが小学校で耳馴染みの良いクラシックと接して音楽に対する垣根が下がり、小4の時には初めてビートルズを聴いていずれは「Let It Be」をピアノで弾いてみたい、という野望が芽生えました。しかし、家では姉がエレクトーンを習っていた程度で、自分と音楽との距離はまだまだ遠かった。中学に入ってからは野球少年だったし。


 中3の3学期、「最後の音楽のテストのテーマは、好きな曲を好きなメンバーで演奏すること」というお達しが出ました。友人Kとふたりで組むことになり、そこでひらめいたのが「Let It Be」
 放課後、ひそかに音楽室へ行き、先生に平蜘蛛のようになって頼みましたよ。「先生、レット・イット・ビー弾けるように教えてくださーい
 だいたい、若い女の音楽の先生が受け持つ授業に、ナマイキ盛りの中学生がおとなしく授業を受けていたことなどそれまで全くなく、この時も先生は一瞬「何をたくらんでいるのか…」と疑惑を抱いたようでしたが、ぼくが真剣だと見てとるや、快く承知してくれました。


 なにぶん地方都市のことですからピアノが弾ける男の子がすでに珍しい存在なんです。そこでぼくがピアノを弾くとどうなるか。
これはウケる!
と計算するのは雑念まみれの中学生としては当然のことでありましょう。


 基礎が全くない状態なので、曲そのままのコピーなどとてもできない。そこで先生はイントロを簡単にアレンジ、あとは右手でメロディ、左手でブロック・コードという手抜きワザを伝授して貰いました。
 それからはもう、練習に励みましたよ。でもね、
 「きっとレット・イット・ビーを弾けるようになってやるんだ
と決意したわけじゃなくて、女子連中に
 「MINAGIくんがピアノ弾くのぉぉ~ええぇぇぇ~」と言わせてモテてやろうという欲望だけでした。いやもう、今思うと、ええ、
バカ丸出しですね。


 しかし、この頑張りが、コードの構成音が瞬時にわかる、という思わぬ成果に結びつきました。今でもこの成果はたいへん役に立っています。
 そしてこの時に、楽器を演奏することに対しての抵抗も無くなっていったのでした。


 さて、話は高校時代に進みます。入学間もない頃、クラブのオリエンテーションがありました。そこで吹奏楽部が演奏したのですが、部紹介の場ですから、難しい曲なんかじゃなくて、ディスコ・ソングの「ハッスル」(ヴァン・マッコイ)なんかを披露しています。
 この時のドラマーがとても上手く、カッコ良かった。もう考えることはただひとつ、ですね。
 「これはオンナのコにモテるはず!(こればっかし…)
そしてそのまま吹奏楽部のドアを叩いたのでした。


 しかし世の中甘くない。ふだん演奏するのはほとんど吹奏楽用の曲で、その時担当させられるのはシンバルだの大太鼓だのばっかり。あぁ、こんなハズじゃなかった… しかも放課後は、練習台とメトロノーム相手にひたすら基礎練習の繰り返し。先輩をさしおいて、初心者がすぐにドラムセットに座ることができるわけがない。


 人間万事塞翁が馬、などと言いますが、この時の基礎練習が知らない間にリズム感を養ってくれてたんですね。これにものちにたいへん助けられました。
 ただ、この世には「グルーヴ感」というものがあり、それが無いといくら正確に演奏してもダメなのである、ということが解ったのものちのことで、それはそれでたいへん悩まされました…


 そうこうしているうちに毎年恒例の定期演奏会の日が近づいてきます。1500人クラスの大ホールがほぼ埋まる一大イベントです。この時にはポップスもたくさん演奏するのですが、当然先輩ドラマーが脚光を浴びることになります。
 半分クサっていたぼくに部長が言いました。「ポップスの時、エレキベース弾けよ」。
 

 こうしてついにベースと出会ったのです。ちなみに、その時の曲の中に、スティーヴィー・ワンダーの「サー・デューク(愛するデューク)」がありました。もちろんあの複雑なキメのユニゾンはベースも参加。うぅぅ~、初心者にはあんまりな仕打ちではないか~


 定演の練習には、OBで国立音大卒の方がコーチに来ていました。地元でビッグ・バンドを運営している方ですが、ある時いきなり「お前、うちのバンドに来い」
 練習場所に行ってみると、「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト ビッグバンド部門準優勝」などの華々しい賞状の数々が……


 そしていきなり100曲以上の譜面をドサッとばかりに渡され、こう申し渡されます。「弾けるようにしときなさい」。ロック、フュージョンの譜面もありましたが、オーソドックスな4ビートものもタップリ!その頃は秋から冬にかけてダンスパーティーが盛んに催されていましたから、当然「それに間に合わせろ」ってことです。
 こうしてワケの解らぬうちにジャズとの出会いも果たしてしまったのです。


 その後、不思議とベースとは縁が切れることがなく、今に至っているというわけです。



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軽くショック!

2008年03月12日 | 随想録

          △山根麻衣「Will」

 
 どうしても手に入れたいけれど、廃盤になっていたりして入手困難なCDが何枚かあります。
 でも今ではネットという便利なツールがあるので、それを活用すればそれらのCDと出会うことも不可能ではなくなりましたよね。


 二日ほど前にいつものようにAmazonを覗いてたんですけど、急に思い立って、オークションというものは一体どんなものだろうと思い(今頃・・・)、Yahoo!を開いてみたと思って下さい。
 どんどんページを開けてみると、どうしてもどうしても欲しかった山根麻衣さんの「Will」というCDが出品されているじゃないですか!ぼくは、山根さんこそ「日本のジャニス・ジョプリン」を体現しているシンガーだと思っているのです。
 中でも、この中に入っている「ベイビー・イッツ・ユー」という曲がもうムチャクチャ好きなんです。その他にも資生堂のCFにタイアップされてスマッシュ・ヒットした「気分はフェアネス」が収録されていたりして。
 アルバムそのものもとても満足のいく出来栄えだし、ジャニスを彷彿とさせるハスキーなシャウトがこれまたカッコいいのです。
 金額を見ると6000円。よし、このくらいなら出しても惜しくはない。なにせLPを買ったのがたしか1982年。そのLPも行く方知れず。せっかくCDになってもすぐに廃盤になってしまい、手に入らなかったので、かれこれ20年以上このアルバムを探していたんです。


 さっそくIDを取得するところから手続きを始めました。無事登録も済ませ、さあ、いよいよ入札です。
 金額欄に「6000」と打ち込み、入札完了。すぐに入札を受け付けた旨のメールがやってまいりました。あとは二日後の期限を待つだけです。仮に他にも入札者が現れても、1万5千円くらいまでなら譲るつもりはなかったので、期限を迎えるのをそれはそれは楽しみに待っていたのです。いや、それも杞憂で、他の入札者が現れる様子もありませんでした。


     


 ところが今朝起きてみると一通のメールが。
 「商品『山根麻衣 CDウィル』への入札が取り消されました。入札の取り消しは出品者による操作、またはYahoo! JAPANが不適切な入札と判断した場合に実施されます」・・・。
 これはいったいどういう意味だろう。。。Yahoo!のしわざだとすると他の入札にも参加できないかも、と思って、試しに欲しかったDVDに入札してみました。するとあっけなく落札完了。
 ふ~む、すると出品者から入札を取り消されたのかも。
 そうこうしているうちに、夕方になって、買い手がつかなかった「WILL」が再出品されているではありませんか。


 支払いもちゃんとカード決済になっていることを再確認したうえで、思い切って再入札しようとしました。すると「あなたはこの出品者の商品に入札できません」との表示が!
 え!
 なにゆえに!
 すぐにヘルプを参照してみると、どうもぼくはその出品者のブラックリストに入れられているようなのです。
 なんでや~
 オラがいったい何の悪いことをしたっちゅうだか~
 ちょっと軽くショックです。
 そもそもどこか手続きが間違っていたとしら、最初から入札自体に参加できなかっただろうになぁ。
 もういったい???状態です。


 20何年ぶりかにようやく出会えた山根麻衣さんの「Will」、別の出品者が現れるのを待とうか、Amazonに出るのをこのまましぶとく待ってみようか、それともLPを落札しようか(LPなら3件ほど出品されているのです)、未だ思案中です。
 どこかにCDを売って下さる方、いないでしょうか~



資生堂CF「気分はフェアネス」
 

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凹む~

2008年02月25日 | 随想録

 
 最近、体調もままならないのですが、それに輪かけて困らされているのがPC君のご機嫌の悪さです。
 とにかくインターネットに繋がらないのですよ。
 あちこち開けてみているんですが、何をどうやっても繋がらない。
 強制終了させてみると思い出したように繋がる、といった具合で、具体的にどのようにしたら良いのかがさっぱり分かりません~
 不具合が「678」という表示で出るのですが、それがどういう意味を持つのかチンプンカンプンで・・・(汗)。
 とにかくアイコンの「マイ・コンピューター」のところを開けてあれこれしてみるんですけれど、やはり知らない単語が多くてつまずいたり。。。指示通り進めてみると「エラー678」の表示が出て作業が行き詰まったり。
 今はいったん強制終了させてみたらなんとか繋がったので、こうして書き込んだりしてる訳ですが、このまま電源を切るとまた繋がらなくなりそうで、恐怖です。


 音楽は相変わらず聴いておりますよ。
 最近はCDをいっぺんに10枚買ったりとかで、2月になってから20枚近く買っております。主なところは、ジェームス・テイラー、グランド・ファンク・レイルロード、バングルス、10CC、スタイル・カウンシル、アヴリル・ラヴィーン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ピンク・フロイド、ティアーズ・フォー・フィアーズ、ナイアシン、フレディ・ハバード、ミシェル・ペトルチアーニ、レッド・ガーランド、チック・コリア、スーパー・ジャズ・トリオ(トミー・フラナガンの方です)、本田竹曠、ボブ・マーリー、ドン・プーレンなどなどです。


 とにかくPCの方はもう少しあがいてみて、それでもダメなら業者に再接続を頼もうか、と考えています。
 とりあえず電源を切らずにスタンバイの状態にしておこうとも思うんですが、それでも安心できません。
 まあ、これもスキル・アップに繋がるための勉強だと思っていろいろやってみることにします。ただ、知らない単語ばかり出てくるのにはホントに閉口です~


 そういうような訳で永らく更新が滞ってしまいました。PCの不調にはもう脱力です。この先どうなるか、皆様、生温かく見守ってやってくださいまし。


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ハム君についてのあれこれと近況

2007年12月16日 | 随想録

 
 我が家にハムスターがやってきて半年近くになります。
 生まれて2~3週間ほどの子を貰ってきたんですが、生後2ヶ月くらいともなると、人間で言うと立派な成人なんだそうです。
 ハムスターの寿命って3~4年くらいだそうですから、うちの子は人間でいうと20歳前後~30歳前後の青年、といったところでしょうか。


 ハムハム君は寒さに弱いです。気温が10度以下になると動きが鈍ってきます。5度を切ると、丸く冷たく固まって動かなくなるらしい。死ぬこともあるみたい。
 ヤツの棲家(ケージ)はリビングに置いているのですが、さすがに近頃では夜中~明け方の室温も下がっているので、ハム君もあまり夜中の運動をしなくなっているようです。だからハムスターのケージ用ヒーターを入れてやりました。
 もちろんケージの中にも木製の巣箱は必要。巣材もたっぷり入れて越冬対策を整えます。


     
     写真はクリックで拡大します


 1930年、シリアでハムスターの母親とその子供12匹が発見されました。今、世界中で飼われているハムスターは、すべてその母子の子孫なんだそうです。つまり、わずか数十年でハムスターは爆発的に繁殖したのです。
 その繁殖力はものすごく、例えばつがいのハスムターを飼い始めると、2ヶ月ほどで約10匹の子供を産みます。この調子で繁殖させ続けると、2匹のハムスターは約半年で数百匹に増えることになります~


 ハムスターは生後2ヶ月にもなると完全に成熟するので、同性でも別々に飼わなくてはなりません。ひとりぼっちで寂しそう、とも思ったのですが、調べてみるとハムスターは社会を持たない生き物なんだそうです。成熟すれば、独立してたった1匹で生きていくわけですね。
 社会を持たないハム君にとって、自分以外のハムスターは敵でしかないのです。だから複数のハムスターを飼う時は、別々のケージで飼わねばならないそうです。


 ハム君は手(前足)をとても器用に使います。エサも手で持って食べるのですが、こういう動物は案外少ないんだそうです。
 エサはヒマワリの種とか、穀類の混合飼料をやっています。でもチーズとか煮干し、鶏肉なんかも食べるみたい。野生のハムスターなら、バッタやクモ、ミミズ、トカゲ、鳥のヒナまで食べてしまうそうですよ。
 反対にやってはいけないもの。チョコレートや香辛料などの刺激物なんかはマズイみたいですね。ほかには豆類や、ネギ、タマネギ、ニラ、レンコン、ゴボウなどの類いの野菜です。内臓が痛んでしまうらしいです。


     


 水は一日にほんの少ししか飲まないみたいです。
 本来、ハムスターは乾燥した土地に住む動物なので、普通の食べ物を与えていれば水を飲むなんてことはしないらしい。でもいわゆるハムスター・フードをやる場合には気をつけねばなりません。これはとても乾燥した食べ物なので、体内の水分まで奪われてしまうんだそうです。だから新鮮で水分の豊富な野菜(白菜やキャベツ、ニンジンなど)をあげたりしています。


 さて、ハム君は芸を覚えるでしょうか。今のところ、うちの子は無芸大食です。
 そもそも人には慣れても、懐いたりはしないみたい。でも手の上にのせてなでてやると目を薄く閉じてじっと気持ちよさそうにしていますし、ぼくの手から直接エサも食べるようになりました。


 ヤツが我が家の住人になってからぼくもいろいろと調べてみたので、今では少しはハムスターのことが分かるようになりました。
 なんとか元気に過ごしてもらっていますが、取りあえずは、この冬を快適に過ごしてもらうことを心がけねばなりませんね。
 そういえば来年はネズミ年なんですね~ うちのハム君、福を招いてくれないでしょうか。


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ベスト・アルバム

2007年12月02日 | 随想録

 
おいこらベスト・アルバム!
いーや、「アルバム」なんて呼んでやらん。
「盤」で充分じゃ、盤!


ベスト盤なのに選曲がベストでないのはどういうことなのよぅ~(T-T)
しかもベスト盤が何種類もあるのはなぜなのよぅ~(T-T)
好きな曲を揃えようと思ったら、
ベスト盤を何枚も買わないといけないじゃないのよぅ~(T-T)
それやったら最初からオリジナル・アルバムを
チマチマ揃えていった方が効率的やないか~いコラ~!ヽ(`Д´)ノ


くっそお、盤に八つ当たりしてもしょーがないわ。
すべてはレコード会社の陰謀じゃ!ヾ(*`Д´*)ノ"彡
                       (暴言失礼~)
 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

ぼくはわりとベスト・アルバムが好きなんです。
オリジナル・アルバムを揃えようと思うほどでもないアーティストの場合、
ベスト・アルバムでポイントを押さえておこう、と思うのですが、
複数のベスト・アルバムがある場合、ビミョーに選曲が異なっていたり、
「これぞ」という1曲が抜けていたり、
選曲自体が???なものだったりする場合が結構あるのです~。
で、その1曲のためにもう1枚アルバムを買うのもなんだかな~、
と思ったりするワケです。
まあ、ヒット曲をすべて網羅してあるベスト・アルバムなんてものは、
レコード会社からすると商売になりにくいのかもしれませんけどね。。。
それでも、「これはアンマリや~」と思ってしまう選曲のベスト盤にも、
ときどき遭遇するのです。
ンモ~、この商売上手! 



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パソコンがああぁぁぁ・・・

2007年11月20日 | 随想録

 
 一昨夜のこと。
 そろそろ寝ようと思ってウィンドウズを閉じようと思ったら、どうしても閉じられなかったのです。
 それで「え~い面倒じゃ~」とばかりに強制終了させたのですが・・・。
 昨日、パソコンの電源を入れたら思ったらこんな表示が。。。


 「ローカルに格納されているプロファイルを読み込めません。セキュリティの権限が不足しているか、ローカル プロファイルが壊れている可能性があります。問題が解決しない場合は、ネットワーク管理者に問い合わせてください。」


 そしてその次に、
 「ローカルのプロファイルが見つかりません。一時的なプロファイルでログインしています。ログオフ時にこのプロファイルへの変更は失われます。」


 チンプンカンプン・・・(汗)
 

 「ローカル」の「プロファイル」って?
 「セキュリティの権限」って?
 「一時的なプロファイル」って?
 ・・・う~む、いったいなんだろう(無知)。
 そしてそのままウィンドウズを開いてクリビツテンギョウ!、いや、ビックリギョウテン!取り込んであった画像、メール、音楽、お気に入りの欄などなど、データがキレイに無くなっているではないですか!つまりパソコンの状態が、最初に接続した時のように戻っているのです。


 あわててお気に入りの欄に入れていたサイトなどをもう一度検索したり、また画像を取り込んだりしてみたんです。ところがログオフするたんびにそれらがまたキレイサッパリ無くなってしまうのです。


 さっそくあちこちを開けてみたけれど、まだまだPC初心者のぼくに分かるはずもありません。例えるなら火事にコップの水をかけるくらいの効果もなく。。。
 やむなく、フレッツ光に変えた時にパソコンをセットアップしてくれた業者のところに電話してみました。
 「これこれこんな表示が出たんですが・・・」と恐る恐る尋ねてみたところ「内部の※△?●♯(←知らない単語)が壊れている可能性があるので、伺ってもお力になれないかもしれません」とのお答え。


 このパソコン、買ってまだ2年4ヶ月なのに。。。
 一応「ローカル・プロファイル」で検索してはみたんですが、さらに???状態です。修理ができなかった場合、また買わなくてはいけない、ということも考慮に入れておかねばならないですね。
 あ~マイったマイった~(困)。


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ハムスターその後

2007年11月11日 | 随想録

 
ハムスター、元気に生きてます。
体長は現在約10センチです。
我が家にきてから4ヶ月半で2倍くらいの大きさになりました。
順調に育っていますが、どこまで大きくなるのでしょうか。
このまま育つと1年で約5~6倍になる計算です(汗)。


奴の日常です。
まず昼間。どうもずーーーっと眠っているようです。
ゲージの中にハム用の小さな小屋を入れてるんですが、その中にこもってます。
寝ている時に触ったりすると、ハム君は驚きます。
あんまり驚かせ続けると、ストレスで健康を害するんですって。


布切れやティッシュ・ペーパーを小さく裂いて置いておくと、
うまいこと引っ張り込んで小屋の入り口に上手にフタをしてます。
ハムスターは、狭くて暗いところを好むらしいんです。
エサは、エサ箱から頬ぶくろに入れて小屋の中で食べてるみたい。
頬ぶくろに入れることで自分の唾液がつき、
そのニオイがあると自分のモノだという安心感があるそうです。
やっぱりヒマワリの種は好物みたいです。


     


夕方薄暗くなってから目覚めるようです。
ぼくも夕食を食べてからすこしハム君と遊びます。
遊ぶといってもゲージから出して「お解き放ち」にするだけなんですが。
それでも時には手に持って背中をなでてやると、気持ちよさそうにしています。
こうやって遊ぶことで人にも慣れるんだそうですよ。


そして夜中。
一晩じゅうガラガラという音が聞こえます。
そうです、奴は夜中じゅう回し車に乗って走っているのです。
その振動でゲージが次第に動き、
置いてある三段ボックスの上から落ちたこともありました。
最初の頃は音が気になって寝付かれませんでしたが、今はその音にも慣れました。


もともと動物を飼うことを躊躇していたぼくですが、
これからもなんとか奴と共存していけそうです。
やっぱり飼っているうちに情のようなものが湧いてくるものなんですね~


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When I Was Fifteen

2007年10月24日 | 随想録

          △今日久しぶりに見た卒業アルバム

 
 ぼくが現在の住まいに引っ越してもう10年が経ちます。その前の5年間で2度引っ越しを経験しました。都合3度の引っ越しで、本やレコードをだいぶ処分してしまいました。また、引っ越しのドサクサでどこかに紛れたりしたのも結構あります。モッタイナイことをしたな~、と今にして思うんですが、処分したり失くしたりしたものは仕方がない、そうあきらめています。


 たまに納戸の奥深くに片付けてあるダンボール箱を開けてみるんですが、思わぬものが出てくることがあります。今日は中学の頃に買ったロック雑誌が一冊だけ残っているのを発見しました。そして中学の卒業アルバムが箱の下に埋もれているのを見つけ、しばし懐かしい写真に見入っていました。


 自分が中学3年生、15歳の頃は、たしか1ヶ月にお小遣いを2~3000円貰ってたんじゃなかったかな。その当時はすでにロックにどっぷり浸っていたので、小遣いの使い道は、レコード、カセット・テープ、ロック雑誌などでした。
 ロック雑誌といえば、「ミュージック・ライフ」誌ですね。それと時々たしか小学館から出ていた「ザ・ミュージック」も買っていました。


     
     『ミュージック・ライフ』誌


 「ミュージック・ライフ」は、古本屋さんでバックナンバーをだいぶ買った記憶があります。本を読むのも好きだったので、ついでに文庫本を漁ったり。「ミュージック・ライフ」は一番古いものは1968年頃のから手に入れてたんです。新刊の「ミュージック・ライフ」がたしかその頃4~500円くらいしたのかな、その新刊の方もお小遣いが許す限りよく買っていたものです。


 レコードはラジオで聴いて、どうしても欲しいものだけ買ってました。シングル1枚が600円、LP1枚が2500円だったので、新品のLPレコードなどはなかなか買えなかったですね。これも中古ショップによくお世話になりました。なにしろLPが1枚1200円とか1500円で買えるんですから。2カ月に1枚くらいのペースで買ってたような気がします。しかも、「ハズレ」を貴重な小遣いを割いて買うわけにはいきませんから、前もって聴いたことがあり、なおかつ欲しいものを慎重に買っていたんです。


 その代わりに活用した手が、「FM放送のエア・チェック」と「友達と貸し借りをする」ことです。
 FMではアルバムを丸ごと放送してくれることがあったり、ヒット・チャート以外の曲がかかったりしていたので、とても重宝してました。当時はNHK-FMとFM大阪の2局しかなかったのですが、FM大阪は受信状態が悪く、雑音まじりだったので、もっぱらNHKを聴いてましたね。ハード・ロック・ライヴ特集とか、60年代特集、その年のヒット曲特集など、時々いろんな特集を一週間にわたって放送してくれていて、未だにその時録音したテープが残っています。


     
     今日見つけた雑誌『guts』     


 友人との貸し借りも有効な手段でした。サイトウ君からはビートルズ関連のアルバムを全部録音させてもらいましたし、ヨシダ君からはサンタナ、フー、エマーソン、レイク&パーマー、ピンク・フロイド、エルトン・ジョンなどを始め、さまざまなバンドのレコードを聴かせて貰いました。
 10歳ほど年上の従兄もロック通で、その時にはすでに数百枚のレコードを持っていました。従兄からはドゥービーズやオーリアンズ、リトル・フィートなどのアメリカン・ロックを教えて貰いました。


 エア・チェックと借りたレコードの録音のために、カセット・テープは必需品でした。高いテープはなかなか買えなかったですね。安いTDKやマクセルは良い方で、聞いたことのないメーカーのテープをスーパーでさらに安く買ったりしたものです。
 そんなこんなで、お小遣いのほとんどは音楽関連の買い物に消えてしまっていました。今では自由になるお金がその頃より格段に増えていますから、「オトナ買い」で一度にCDを何枚も買ったり、欲しいと思った本は後先を考えずに買ったりできますが、ありがたみという気持ちはやっぱり15歳の時の方が大きかったですね。やっと手に入れたレコード、何度聴いても飽きる、ということはなかったような気がします。


 中学の卒業アルバムを見ながら、15歳の頃のことを思い返していた今日の夕方でした。


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