近江商人
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「三方よし」という言葉があります。
三方とは「買い手」、「売り手」、「世間」(世の中)です。
近江商人が大切にしていた考え方です。
「自分だけでなく、社会全体をより良くしていこうという考え方」が重要だと思うのです。
ぼくはこの年になってようやく京セラの創業者稲盛和夫さん、パナソニックの創業者松下幸之助さんの著作に出会い、大感激大感動しましたが、そのおふたりもこの精神を大事にしておられました。
ところで、地方を拠点に演奏を続けているミュージシャンは、日本各地にたくさんいると思います。
ぼくも、そのひとりです。
ぼくは長年、演奏する立場、ライブの運営にかかわる立場、お客としての立場をたくさん経験してきました。
そのうえで、ずっと昔から感じていたことを、最近改めて咀嚼しなおしている考え方があります。
ミュージシャンは客席に向けてベストを尽くす。
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お客が喜ぶ。
⇩
お客がリピートしてくれる。
⇩
お店が喜ぶ。
⇩
お店がミュージシャンに再び出演依頼する。
⇩
ミュージシャンが喜ぶ。
⇩
ミュージシャンは客席に向けてベストを尽くす。
⇩
以下エンドレスのリピート
やっぱり、自分としてはこの精神を大事にしていきたい、と改めてはっきり思いました。
そして、このサイクルの出発点はミュージシャンにあることも再認識しました。
これがぼくの「三方よし」なのです。
先日、何人かの音楽好きな方々と話している時に、話題がしぜんと「ライブ時の写真撮影」になりました。
ぼくは、肖像権はいわゆる有名人にあるもの、と思っていたんですが、これは不完全な知識です。
簡単に言えば誰にでも「肖像権」はあるんですね。
そのうえで有名人の肖像権には「商品を売る時にお客を引き付ける力」、つまり商業的価値があるため、また別に保護されなければならないもの、ということだと言っていいと思います。
一般的にいう肖像権とは、「人はみな私生活での容姿を無断で撮影されたり、撮影された写真を勝手に公表された場合、不快感や嫌悪感、さらには恐怖を感じる場合があるため、こういった精神的苦痛を受けないよう保護を受ける権利」です。
本当に嫌な思いをしました。
そして、ライブのステージを撮影した時に他のお客さんなどが写り込んでしまう場合ですが、これは社会的な常識の範囲内であれば問題ない、ということだそうです。
(ほかのお客さんがあまり大きく写るようならボカシやマスキングを入れるとか、トリミングでよけいな部分を切り取ってupするとか)
ただしこういう「法律」があるわけではなく、マナーとか気遣いの部分だと思いますので、「客席を写真に入れるのはよくない」などと他人に押し付けるのはおかしいと思います。
客席側も、ミュージシャンの方々からの写真撮影に対する考え方も知っておく必要があるのではないかと思います。
よけいなことを付け加えさせてくだされば、写真OKの時でも「バラードの時は撮らない」「フラッシュは炊かない」「アップテンポの盛り上がる曲、あるいは音量が上がる曲や場面で撮影する」ことを頭に入れておけば大丈夫だと思います。
「こういう話題で盛り上がるのはアカデミックな感じがしてイイですよね~」とか言って笑い合ったいい時間ではありました。
【Live Information】
あいさつ。
「あいさつをしましょう」
自分が子どものころ、小学校でまず教わったことです。
中学・高校の部活でも、先輩に対するあいさつは絶対でした。
社会人になると、先輩・同僚以外にお客さまもいらっしゃるわけですし。
音楽と関わるようになると、あいさつをすることについてなおさら厳しく言われました。
あちこちに顔を出すと、さまざまな価値観の人に出会います。
自然に声をかけてくれる人、視野に入っていても気がつかないふりをする人、そもそもあいさつする気がない人、あいさつする人を選んでいる人(つまり相手によって態度を変える人)、声をかけられたらあいさつする人(自分からはあいさつしない)など。
「先にあいさつしたら負け」と思っているんだろうか、と感じることもあります。
個人的には、首尾一貫した考え方には納得できます。
あいさつしないなら全員にしない、とかね
エチケットとして「あいさつ」はとても大切だと思います。
もちろん強制することではありません。
ぼくだって強制されることは大嫌いなのです
でも、あいさつがないと、なぜこんなに気分が曇るのでしょうか。
自分がいちばんいやなのは、あいさつする人としない人を分けている人ですね。
あいさつは絶対しないのに、それ以外は普通に話しかけてくる人にも違和感を覚えます。
「あいさつ」の意味とはなんでしょうか。
もちろん礼儀です。
コミュニケーションの出発点とも言えると思います。
「お互いにあいさつしたら気持ち良い」と言う人もいます。
しかし音楽に関わることで言えば、プロアマ問わず音楽とは楽器でのコミュニケーションなのに、言葉でのあいさつはしないという矛盾。
お互いにあいさつしても、不機嫌そうにされたり目も合わせてもらえなかったりすると、気持ちが良くはなりません。
あいさつとは、相手の存在を認めることです。
つまり、お互いに敬意を払うこと、とも言えるのではないでしょうか。
ぼくはこの考え方を大事にしていこうと思います。
しかし「あいさつをしない人」を正そうとは思いません。
その人は「そういうタイプの人」だし、人は変えられませんからね。
ただ、えてしてぼくのこういう考え方を「器が小さい」というニュアンスで受け取り、「自分は、そういう人には、相手があいさつするまであいさつする」という人がいますが、ぼくはそれについては、端的に言うと「正義の押しつけ」「相手を思い通りにしたいだけ」としか思えないのです。
そういう考え方の人はそうすればいいと思いますが、いまの自分は「あいさつしない人」には適切な距離(仲良くしない、ということではない)を取ることしかできないですね。
あいさつを自然にすること、されることで、お互いにその時が気持ち良く過ごすことができます。
ぼくはそれを大切にしていきたいですし、それは相手を大切にすることにも繋がると思うのです。
【Live Information】
音楽に限らず、演劇、絵、美術、書道、写真などなど自己表現活動をされている方々は、ライブやイベントの集客は避けて通れないところです。
友人知人に声をかけるとき、よく聞くのが「行けたら行くね」という言葉。
これが、「行きません」と同じ意味であることをはっきり知ったのは、ついここ数年のことです。
まったくいいトシをしてわれながらアホだな~と思いますね
(ただし関東では行く前提でこの言葉を使うそうです)
長いこと「おかしいな~」とは思ってたんです。
「行けたら行くよ」と言った人が来たためしがないのを。
20代のころ、デートに誘った相手に「その日はちょっと、、、また行きましょう」とか「いま忙しいの」などと言われたので、ずっと「また」や「忙しくない日」を待っていたのと同じ空気を感じます
その「また」や「忙しくない日」が来ることは絶対ないのに・・・
それを当時の自分は、「行く気がないなら『また行こう』なんて言わなければいいのに~」とイキドオッていたものです
ぼくも、「断りづらい」「断ると相手が気分を害するのが心配」「財布の中がピンチ」「本当にまだ予定がはっきりしない」とかで言いづらいこともいろいろあるんだろうな、という考え方ができる年頃になりました。
だからこそぼくは「先約があるんです、ごめんね」と言うようにしています。
そして本当に予定がまだはっきりしなくて「行けたら行くよ」と答えたときは、行ける状況になったら必ず顔を出すことにしています。
ぼくは、「行けたら行く」という言葉は、「行かない前提」では使わず、「行く前提」で使うことにしています
【Live Information】
ぼくは、実は野球Loveの人間です。
阪神タイガースを愛するようになって※十年。
今年は開幕9連敗、最大16の負け越しという絶望的なスタートを切ったにも関わらず、7月には一時2位まで盛り返し、最終的に3位となり、クライマックス・シリーズ(CS)への出場権を得ました。
CSファースト・ステージでは横浜DeNAを破り、日本シリーズへの出場も夢ではなかったのですが、ファイナル・ステージでは東京ヤクルトに3連敗を喫して、今シーズンの戦いを終えました。あと一息だったのに、残念!!
・・・とはちっとも思ってなどおりません。
ぼくがいくら熱烈な阪神ファンであっても、シーズンの戦績が負け越ししているチームがリーグを代表して日本シリーズに出るべきではないと思いますし、相手チームにアドバンテージがあるとはいえ、もし勝率5割にも達していないチームが日本シリーズに出るとなると、長いシーズンの意味はいったいなんだったのか、と思ってしまいます。今年の阪神は68勝71敗で、優勝した東京ヤクルト(80勝59敗)とは実に20ゲームも離されているのです。
そもそもCSは、「1位と2位に大差がつくと実質的には早々にペナント・レースが終わってしまい、消化試合が増えてしまう」ということから、「山場を作ってエキサイティングなペナント・レースにしよう」という意味で始まったものだと記憶しています。
しかし、このような人工的な山場って必要あるでしょうか。
1973年の巨人と阪神、1988年の西武と近鉄、1994年の巨人と中日、今年のオリックスとソフトバンクなどのようなエキサイティングなシーズンには、いつもいつも都合よくなるはずがないのです。
1位と2位の間に大差がつくシーズンもあれば、僅差のデッド・ヒートにもつれこむシーズンもあります。それが自然で当たり前なことですし、だからこそ僅差のシーズンがファンの記憶に残るのではないでしょうか。
テレビ番組が、結末を人為的に予定されたものに導くために仕込みをしていた場合は「ヤラセ」として散々叩くのに、人工的に仕組んだ山場で盛り上がることについてはメディアは何も言及しません。これは「ヤラセ」とは少し違いますが、「人為的に盛り上がる結末を導くため山場を仕込んだ」という意味では同じことです。
そんな仕込みや演出なんて必要ありません。
日本シリーズの価値も下がります。
セ・リーグとパ・リーグの2大リーグの優勝チームが相まみえて、その年の日本一を決めるのが日本シリーズだったはずです。
消化試合うんぬんを心配するのなら、優勝争いはもつれこんでいても、2位と3位の間に、例えば10ゲーム以上の差がついている場合はどうなのでしょうか。
3位以下なら消化試合でも構わない?
「クライマックス・シリーズ」は問題点だらけであり、続ける必要のない制度だと思うのです。
【Live Information】
自分の行いすべては、「自分の作品」であるとも言えると思うんです。
ここに気ままに書いている文章はもちろん、仕事用に作る資料、自分で書く譜面、料理、そして部屋の掃除や洗濯、皿洗いまでも。
自分の作品だからこそ、自らの意思で、自分が満足するようにやってみる。
いわば、余計なことを考えず、楽しく遊ぶんです。
誰かに言われてやったり、仕事だからやらないといけない、というのは自分の心の声じゃないし、そこには「楽しさ」はない。
できあがったら、「いや~われながらなかなかいいのができたんじゃない?」と、ただ自分のなかだけで喜んでいればいい。
だれかに「いいのができたね~」と言われたい欲があるときは、「評価される」ことが目的になっているときだと思うんです。
でも、自分が演奏するときは、結局だれかからの「評価」が気になってることが多いんですよね。
「人と自分を比べない」「人の目を気にしない」ことって、難しい。
まだまだ課題はたくさんです。
自分の体は自分の食べたものでできている、と言います。
今は亡き佐山雅弘さんは、最後に「僕という者は僕が出会った人々で出来ている」との言葉を遺されました。
それにしても、ぼくのベンチャーズへの見方はガラリと変わりました。
客席の平均年齢は軽く70を超えているのではなかろうか、とちょっとビックリしたんだけど、その客席のじいちゃんばあちゃんたちが心から楽しんでるんです。気持ちは数十年前に戻ってるんでしょうね。客席にそんなマジックをかけられるなんてすごいことだと思うのですよ。
古びたロートルバンド、と思ってましたが、そんなのは全部撤回して捨て去ります。
敬意を払うべきバンドだと思いました
【Live Information】
音楽好きのマスターが営む喫茶店があります。
たいてい毎週、土曜か日曜のどちらかに、そこでコーヒーを飲みます。
きょうは、珍しくアナログのLPレコードがかかっていました。
ちなみに、いまは「LPレコード」という言葉を知らない人が珍しくない時代なんですね。
レコードは、阿川泰子さんのライブ・アルバムでした。
1980年代に大人気だったジャズ・ボーカリストです。
演奏は「東京ユニオン」に「プレイヤーズ」(鈴木宏昌、松木恒秀、岡沢章、渡嘉敷祐一、斎藤正樹)という、豪華な面々
すごっ
阿川さんの歌を聴くのは、本っ当にひさしぶりです。
改めて(しかも何年?何十年?ぶりに)聴いても、やっぱり素敵なんです
「時間」という厳しい波に洗われ続けてもなお輝きを失っていないということは、やはり良いものなんですね。
しかし当時(40年ほど前)は、やれ「あんなのはジャズじゃない」だの、やれ「ルックスで売れただけ」だの、やれ「たいして上手くない」だの、いわゆる音楽通な方々からいろんなことを言われていました。
阿川さんって、音楽そのものとは関係なく「ネクタイ族のアイドル」として取り上げられることが多かったですから。
まあ、こんなことをおっしゃる方々(演奏する機会のある地方のアマチュア or セミプロミュージシャンの中にもこういう発言をする人はいました)は、考え方が幼かったのでしょう。
いま思うと、「ジャズ通として敬われたい人」「ジャズを手段として他人を支配したい人」たちの発するジェラシーだったのだと思います。
いまだにこういう類いの人は一定数いるような気がします。
だから「成功した人を、隙があったら引きずりおろしたい」空気が、今も昔も変わりなく存在しているのかもしれないですね。
このお店の「きょうのおすすめ」は、「キリマンジャロアデラ」でした。
【Live Information】
ベースの役割は、「基礎」でもあると思っています。
"Bass" であり、"Base" 。
つねにグルーブし、テンポキープし、コード進行を指し示し、全体のサウンドを把握する。
野球でいうと、キャッチャーみたいなポジションかもしれません。
だからこそ、共演者が誰であろうと、何があろうと、いつも揺るがない存在でいたい。
でも、ほんの一瞬気が緩んでしまったためにつまづいてしまうこと、未だにあるんです。
なんとも言えず、クヤシイ気持ちになりますね。(;´Д`A
Night & Day Bass Solo コントラバス=皆木秀樹(2021.12.22)
【Live Information】
この地球上で、われわれ人間は、自分たちにとって暮らしにくい状況を改善あるいは克服してきました。
そのために、地球の状況を、人間が暮らしやすいように変えてきました。
住宅地が足りなければ山を切り拓き、やむなく有害なものを排出しながら人間にとって必要なものを生産し、病気が発生すれば病原菌を死滅させてきました。
われわれ人間が暮らしやすいように、です。
「災害級」という形容詞がそこかしこで見られる今日この頃。
われわれは、病原菌やウイルスによって危機にさらされると、薬を作ってその病原菌やウイルスを死滅させようとします。
では、人間の存在が地球にとって「有害な病原菌やウイルス」に類するものだとしたら。。。
地球が人間を「有害な存在」と認識して、人間がするように「有害な存在を駆逐」しようとしたら。。。
子供のころと比べて明らかに変わってきている天候。
酷暑、異常な豪雨。
水害が起こると、「ずさんな工事による人災」とか「教訓が生かされていない」とかメディアはにぎやかですが、結局人間のしたことが気象の変化をもたらして人間に返ってきているだけなのでは。。。
つまり、生態系や環境を破壊されている今の地球にとって、それが当たり前の活動なのかもしれません。
人間が大騒ぎしているいろんなウイルスは、地球が、人間がやっているように「自身にとっての有害なウイルスである人間」を駆除してわが身を守ろうとしているだけなのかもしれない、と思ったりします。
少しは環境問題を意識しよう、と思って、洗い物をする時はなんでもかんでもシンクに流さず、水道の蛇口をひねるのも最少限にしたり、と小さなことですが気をつけるようにしています。
真夏にクーラーは必要ですが、室温を下げるために室外機からは温風が出つづけるのも環境にやさしくない、と思って試しにクーラーを止めてみましたが、あまりの暑さに5分ももたない。
もうエコどころじゃなくて、クーラーの節約すらできない状況に来ているんですね。
地球の気温が上昇してきており、極の氷もたいへんな量が溶け出しているといいます。
もしかして取り返しのつかない状況がやって来つつあるのでは、とちょっと心配です。
少しでいいから、自分のできる範囲で「エコ」を意識していこうと思います。
【Live Information】
その昔、高校生だったぼくが抱いていた「夢」に、頭っから
「どうせ(その夢では)食べて行かれん」
「やめとけ」
と、話すらろくに聞いてくれなかった先生たち。
「成功する」どころか「食べて行く」ことさえ厳しい世界なのは子供なりに知ってはいたし、担任として心配してくださっているのは分かっていたけれど、なぜか釈然としなかった・・・。
たぶんそれは、
「ぼくの人生なのに、ぼくが決めることなのに、卒業後はぼくと関わることもないのに、その世界のことをあまり知りもしないのに、否定され、考え方を押し付けられようとした」ことに対する反発だったんですね。
自分の人生です。全部自分で決めていいんです。
失敗してもいいんです。やり直せるんです。
いや、そもそも失敗するって、悪いことなんでしょうか。
すべては自分の経験です。
すべては自分次第です。
それに気づいてからは、誰かの夢を決して否定しないことに決めております。
否定しないというのは、無責任に焚きつけるということなのではなくて、
「君が決めたことなら俺は応援するぜ!」
という気持ちで黙って見守ることなんです。
自分の夢を実現させるべく、奮闘しているナイスガイがおります。
必要な勉強をし、必要な準備をし、、、
そんなヤツがいたら、自然に応援したくなりますよね。
無責任に導いてやろうとしたり後ろから押したりするんじゃなくて、
「君が決めたことなら俺は応援するぜ!」
という気持ちで黙って見守ることなんですよ。
そんなわけで、心の中で彼に声援を送りつつ、彼が津山市で企画して仕切っているライブ&セッションにコッソリお邪魔してみました。
お客として聴くだけで満足だったのですが、彼の好意で1曲だけ参加させていただきました。
プレーヤーも熱心な人ばかりで、場はとってもいい雰囲気でした。
彼は、縁あって住んでいるこの町でジャズ・バーを開きたい、という夢を叶えるべく日々頑張っています。
ぼくはきみを応援しているぞ!
【Live Information】
ジャム・セッションのとき、不本意な演奏した若い人たちが「すみません」と言うのに違和感がある、ということを以前書きましたが、
「すみません」を「ありがとう」と言い換えるだけで、なんだか罪悪感のような得体のしれない重い空気が、スッと軽く、前向きなものになることが多い気がします。
「すみません」を「ありがとう」の代わりに使うと一瞬謙虚な感じがしますが、謝らなくてもよい時にそれを何度も言われると、卑屈に聞こえてきたり心なしか雰囲気がどんより感じたりするんです。
「すみません」は謝罪だし、「ありがとう」は感謝の時に使う言葉。
このふたつの言葉の向いている方向は違うと思うのです。
「ありがとう」の方がお互いに明るくなれるのは、当然なのでしょうね。
【Live Information】
こういう現状であってもライブその他表現活動を続けている方々には、敬意を抱いています。
現状、「万全のコ■ナ対策をしております」という一文を入れた告知をひんぱんに見かけるようになりました。
残念ながら、入れざるを得ない状況なのでしょう。
個人的にはとても寂しい、いや、寂しいというより一種の違和感を感じます。
こんな文言がなくても、早く普通に営業できる雰囲気になればいいなあ、と思います。(コ■ナの終息、という意味ではなくてね)
この文言を入れるというのは、裏返せば「常にあたりを見張っていて、おかしいと感じると注意という名で吊し上げようとする人々の存在」があり、それに対する「事前の対抗策」という意味もあるのでしょう。(そう断言するお店の経営者も、知る限りでは何人かおられます)
今やどこでも当たり前のように消毒液を置き、仕切りを備えて、とくに飲食店は必死で営業しているのですが。
ウイルスに対する恐怖感を抱くのももっともですし、恐怖感があるからこそ何かを攻撃してしまう心理もよく分かります。
でも個人的にはコ■ナよりも、そのせいで威圧的攻撃的な言動になったり他人を責めたりといった、ギスギスした空気の方がよっぽどイヤだしコワいな・・・。
「お大事に」という空気が希薄になっているような気がして。
あくまでぼくの受け取り方なんですけれど。
とまあこういう意見を述べれば、今までの経験上、ご自分のSNSやブログに書けばいいものを、わざわざ寄ってきて感情的コメントを残す人、あるいはその感情的コメントに賛同する足跡を残す人などが出てきます。
そういう方々は、他人の意見にはえらい勢いで否定的に反論するけれども、それについて反論されるのは容認できないんですね。そして拒絶反応を示し、さらに感情的になります。そして主旨をよく読まず、トンチンカンに噛みついてくる。
これもまたなんと言ったらいいのか。。。(^^;)
『オレはお前に文句を言うが、お前がオレに文句を言うのは許さん。お前の言うことなんぞ聞かん』ってことなんでしょうが、そんなムシのいい話はありません。つまりそういう方々は、結局「人を思い通りにしたいだけの人」だと思うんです。
ただ、そういう今後関わらないほうがいいかもしれない人があぶり出されて便利ではありますがw
【Live Information】
深々頭を下げながら「よろしくお願いします」。
どれだけ深くお辞儀ができるかどうかよりも、
ぼくにとっては、小さな約束を守れるかどうかの方がよっぽど大切です。
相手を大事にするって、そういうことだと思う。
残念なことだけど、口だけならはとても立派なことを言う人、お辞儀だけならどんな深いお辞儀でも平然とできる人はいる。
小さいな約束をおろそかにしないこと、ぼくもあらためて心がけます。
【Live Information】
ぼくのメガネは近眼用です。
といっても、まだ老眼になっていないというわけではありません。
でもメガネを外せば、ですが、目を細めることなく普通に新聞も文庫本も読めるので、そんなに不便を感じずに済んでいます。(今のところ、ですが)
自分の譜面帳は、市販のB5の五線紙を使っています。
バインダーに綴じることのできる五線紙がB5しかなかった、というだけの理由なんですが、ある先輩ピアニストとのライブで「見えんのじゃ、、、老眼でのぅ。。。」(← 例えば90歳とか、そういう年齢だからの言葉遣いではありません。単なる岡山弁です)と言われたことがきっかけで、かれこれ450曲以上は書きためた自分の譜面帳をA4に書き直し始めてからもう数か月。
エクセルで五線紙を作ります。
コードネーム(「C」とか「Am」とか書かれているあれです)が小さくて見えづらい、との声を聞いたので、市販の五線紙は12段あるところ、9段にします。すると段と段の間が広くなるので、文字が大きく書けるのです!(*´▽`*)
ついでにコード進行もチェックしておきます。わりといい加減なコード進行が書かれているものもあるので、この際です。
複数のコード進行が考えられる場合、自分の勉強のためそれも併記しておきます。
誰かに渡すため手持ちの譜面をコピーする時は、コピー機の濃度の設定を「+1」にします。薄いと見えづらいからです。
そして共演者に渡す譜面は、見やすくてきれいなものに限ります。(その場で大慌てで走り書きするとかは別として)
コピーのコピーのコピーとかを平気で渡す人がいますが、あれ、見えないんです
というか、五線すら薄れて何の音なのか読めません。推理すらできません。
亡きボスは自分の生徒さんに「共演者には、弾いていただくんだから読みやすい(字の上手下手ではない)譜面を渡しなさい!」とよく言っていました。
♯か♭かわからん、CかGかわからん、A♭の9thかAの♭9thかわからん、などなどまごついたことのある方も多いでしょう。
だから、場合によりますが、譜面も持ってこず、ステージに上がってから、それが当然であるようにあれやこれや指図する人に対しては、「この人とは二度とゴメン」だと思ってしまうこともあるのです。(場合によりけり、あるいは人によりけりですけどね)
われわれ老化が進みつつあるミュージシャンと共演して譜面を事前に用意する必要がある場合は、これらのことを参考にしてくださると非常に助かります。
そんな譜面をいただくと嬉さのあまり思わずアナタのシアワセを祈ってしまいます
ひとつお年玉でもやろうじゃないか手を出しなさい、となります
ついでですが、亡きボスは極度の近眼、と言うよりも弱視でして、
「譜面はA3に拡大してコピーしといてください」と生徒さんに頼んでました。
そういう時、A3の譜面をピアノ(とくにアップライト)の譜面台に置くと、「ヘニャ~」と力なくお辞儀してしまいます。
そんな時は、片端だけでいいので縦に折れば、アラ不思議、ヘニャ~となることはありませんので、どうぞご安心ください
時々「大きめに拡大コピーしてください」、と言われる方もいらっしゃいますので、参考までに。
先輩とか大先輩と共演されることのある方で、「老化」についてあまりピンとこない方は、以上のことを心に留めてくださると非常に助かります。
ただし、、理想はメモリー(暗譜)ですけども(自戒をこめて)