今日も昔話をひとつ(^^)
男子中学生の頃のぼくらにとって、音楽の時間とは、
「いかに不真面目に過ごすか」、がテーマ
だったような気がします…(‐ω‐;)ゞ
真面目に音楽するのはカッコわるいことだと思ってたから、フザケるのも照れ隠しだったんでしょうね。
テストの時なんか実技と称してみんなの前で歌を歌わされましたが、これが充分騒ぎのタネになるのです。
上手に歌うか、みんなをノセられるかすれば良いんだけど、そうでなかった時に浴びるブーイングの嵐ときたら!
それに、音楽の授業って、わりに若い女の先生だったりしますしね。色気づき始めた男子中学生が、若くて(かわいい)女の先生の授業をおとなしく受けるワケがないのです。もう1分とは黙っていられない。
まるでバカ丸出しでした…
とにかくくだらん質問を浴びせる。やれ彼氏はいるかだの、どこまでいっただの、AだのBだのCだのZだの、うるさいったらありゃしない。
で、注意されれば、(ほんとは構って貰って嬉しいクセに)ふてくされてみたり、もう先生からしたら首のひとつでも締めてやろうか、と何度も思ったことでしょう…(-.-;)
その「おふざけツール」のひとつに、縦笛がありました。はい、だれしも義務教育時代にさんざん使いましたですね、きっと。
とにかく、本来の用途になんか使わない。チャンバラの刀がわり。野球のバットがわり。たまに音を出してるなと思うと、朝早く来て好きなコの笛をコッソリ吹いてる野郎がいたり。あとは、どれだけヘンテコなチャルメラが吹けるかというアホな競争で盛り上がったり。ほとんど野生の猿の群れでした。
しかし、ある日を境に、この馬鹿中学生ども、かなり本気で笛を吹くようになりました。
それは音楽の授業で「コンドルは飛んで行く」を聴かせてもらったからなのです。
「コンドル~」は、サイモン&ガーファンクルがヒットさせた曲として有名ですが、授業で聴いたのは「ロス・インカス」というペルーの民族音楽グループがケーナで演奏したものでした。
サイモン&ガーファンクル盤と違って、セカンド・テーマが付いています。セカンド・テーマではテンポが速くなり、打楽器も加わります。軽快ながら、憂いを秘めたメロディがきれいでした。
アンデスの上空をコンドルが舞っている情景が目に見えるようでした。
ケーナ
この曲は、ペルーのフォルクローレをもとに、民俗音楽家のダニエル・アロミア=ロブレスが1913年に発表したものです。50年以上のちに、ポール・サイモンが歌詞を付けたわけですね。サイモンは、パリで聴いたロス・インカスの演奏がたいへん気に入り、そのままバックに使ったそうです。
ケーナという民族楽器は、俳優の田中健さんが演奏するようになって以来、すっかりおなじみになりましたよね。
この曲を聴かせてくれたコウヅキ先生は、女優の山口智子さんに似た、ちょっと男勝りなところもある美人の先生でした。ぼくらにはさんざん手を焼いていたみたいですが、それまでとはうってかわって真面目に縦笛に取り組むぼくらを見て、すっかり見直してくれました。のちにはお宅に遊びにお邪魔するようになったほど、とても仲良くなりました。
でも「コンドル」が終わると、先生はぼくたちが並はずれたおバカだったということをイヤというほど思い出さざるを得なかったみたいです。
コウヅキ先生、ごめんなさい
せんせ、「コンドル」いいっすねいい子ね…
◆コンドルは飛んで行く/El Cóndor Pasa
■発表
1913年
■作曲
ダニエル・アロミア=ロブレス/Daniel Alomía Robles
■歌・演奏
ロス・インカス/Los Incas
サイモン&ガーファンクル/Simon & Garfunkel (1970年発表)
ほか多数
ロス・インカス『コンドルは飛んで行く』
毎年この時期になると思い出すことがあります。
それは高校2年の時に、当時大好きだった人と行った、チューリップのコンサートです。
LPレコードを買うための2500円を捻出するのに四苦八苦していたぼくは、当時はライブやコンサートにはあまり行っていませんでした。
チケット代は、ほぼレコード代と同じ金額だったので、「ライブはその日一回しか聴くことができないけれど、レコードなら何度も繰り返して聴ける」という、まったく貧乏性な理由があったからです。
でも当時大好きだった「まりさん」から、その年の冬に「MINAGI君、チューリップがこの街に来るんだけど、コンサート一緒に行かない?」と誘われると、一も二もなくOKの返事を出したもんです。
まりさんは、ぼくより2歳年上です。彼女は吹奏楽部でフルートを吹いていた先輩で、ぼくが1年の時に3年生だった人です。
3年生は1学期までしか部活に出てこないのですが、妙にぼくとまりさんとは顔を合わせる機会が多く、いろんな話をしているうちにぼくの方がどんどん懐いていった感じでした。
まりさんは地元の女子大に進みましたが、その頃からは毎晩のように電話で話したり、映画に行ったり、お茶を飲みに行ったり、としょっちゅう会ったり話したりしていて、まりさんなしの毎日は考えられない、マセたぼくでした(^^;)。
チューリップはたまたまクラスメイトのユカリちゃんが大ファンで、ロック、とくにビートルズ好きだったぼくに、「チューリップもいいよ~」と言って2枚組ベスト・アルバム「チューリップ・ガーデン」を貸してくれたことでよく聴くようになりました。たしかにビートルズの影響は大きいながらも、フォークやポップスなどのテイストを加味した、日本人ロック・グループらしいオリジナリティが感じられました。
高校2年の時の学園祭で、先輩に誘われてチューリップのコピーバンドでドラムを叩いてからは、いっそうチューリップが身近なグループになっていました。
そういうわけで充分チューリップとの接点があったぼくが、大好きなまりさんの誘いを断るわけがありませんね。
コンサートの内容はあきれるほど覚えていません。当時リリースしたばかりのニュー・アルバムからの選曲がほとんどだったので、知らない曲が多かったせいもあるかもしれません。それより、大好きなまりさんとふたりでコンサートへ行った、ということでポーッとなっていたのかな。
でも、アンコールで「心の旅」をはじめとするヒット・ナンバーの数々を繋げたメドレーを披露してくれたことは覚えていますね。また財津さんがピアノをギターに持ち替えたりしてマルチ・プレーヤーぶりを発揮するところなんか「カッコいいな~」なんて思ったものです。
さて、ぼくたちはコンサートが終わってどうしたでしょうか。
自転車置き場まで手を繋いで歩いたのは覚えています。
それからふたりは・・・、てなことはあるはずもなく、ぼくは自転車でまりさんを家まで送っていきました。
家につくとまりさんは、「お腹すいたんじゃないの? 何か食べて帰る?」と言って天丼を作ってくれました。おかあさんもおばあさんもいるのに(おとうさんは確か入院中だった)、こんな遅くに(10時くらいだったかなぁ)家にあがるのもどうかと一瞬思ったんですが、たしかにお腹がすいていたのと、もう少しまりさんの顔を見ていたかったので、図々しくもお邪魔することにしました。
居間で話し込んでいるうちに、気が付くと明け方の5時!
大慌てでまりさん宅をあとにして自転車で家まで帰ったんですが、不思議と両親に叱られた記憶がないのです。きっと、楽しかったことしか記憶に残ってないのでしょうね。
さて、そんなぼくとまりさんの関係ですが、付き合っていたのか、とよく聞かれましたが、実のところはどうだったのかなあ。ぼくは彼女に改まってお付き合いを申し込んだこともなかったし、実のところまりさんがぼくのことをどう思っているのかを知るのが何となくこわくもあったので、まりさんの気持ちは聞かずじまいだったんです。2~3年はこんな調子でしょっちゅう会ってたんですが、そのうちまりさんには彼ができ、いつの間にか会うことも電話することもなくなって…
でもよく夜にふたりきりで会ってくれたりとか、(コワゴワだったけど^^;)手を繋いだり肩を抱いたりしてもそれに応じてくれたこととか、そんなことを思うと、一時期ではあってもぼくに好意は寄せてくれていたのかなあ、なんて思ったり・・・。
今になって思い出してみると、ちょっと甘くてちょっとホロ苦いような、そんな高校時代の恋バナです(^^)
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自己主張の強さや、平和運動などとの関わりから、ジョン・レノンに対して「強硬派」とか「政治的」というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。実際、生前は公安当局にもマークされていたそうですね。あの「9・11」のあとには、政治的な理由から「イマジン」が米国の一部で放送禁止となりました。(なんてナンセンス!)
ビートルズ解散前後のジョンの言動は、確かに過激さを増し、表現も赤裸々なものになっていました。ビートルズとのきっぱりとした決別もその理由のひとつでしょう。しかし、1971年に発表した「イマジン」では、苦悩の果ての悟りのような、穏やかな境地が感じられます。
政治、宗教、主義信条と音楽とを、第三者が安易に解釈して結びつけることに、ぼくは一種の危惧を覚えているのですが、確固とした信念に基づいた音楽の持つ力は確かに底知れないものがある、とも思っています。
「イマジン」という曲、メロディーも歌詞も愛に満ちています。だからこそ、これだけ多くの人に愛され、歌い継がれているんでしょうね。
ややもすればひとりよがりで過激になりがちだったジョンの主張ですが、この曲では別の角度から平和を見つめ、優しく訴えかけようとしている気がします。
シンプルなメロディーも、非常に印象深いです。
ジョンの思想信条について(ぼくは『肯定派』ですね)は別の機会に書くとして、ぼくがジョンから学ぶところ、それはどんな誤解や偏見にもひるまなかったこと、自分を信じて理想とするところを追求し続けたところです。
ビートルズの中で最も「ロックンロール・スピリッツ」を持っているのがジョンだと思います。それが反骨精神に結びついているのかもしれません。
ぼくがビートルズの中で一番好きなのが、ジョンなんです。
今日12月8日はジョンが亡くなった日。
彼の代表作「イマジン」は、永遠に歌い継がれてゆく歌のひとつだと思います。
ジョン・レノンのアルバム『イマジン』(1971年)
[歌 詞]
[大 意]
想像してごらん、天国なんてないんだ、と
その気になれば簡単なことさ
ぼくらの足元に地獄はなく、頭上にはただ空があるだけ
想像してごらん 全ての人が今日のために生きている、と
想像してごらん、国境なんてないんだ、と
そんなに難しいことじゃない
殺したり死んだりする理由もなく 宗教さえもない
想像してごらん 全ての人が平和に暮らしている、と
想像してごらん 所有するものなんて何もない、と
果たして君にできるかな
欲をはることや飢える必要もなく 人はみな兄弟なのさ
想像してごらん 全ての人が世界を分かち合っている、と
ぼくを空想家だと思うかもしれない
だけど ぼくだけじゃないはずさ
いつの日か 君もぼくらに加われば
この世界はひとつに結ばれるんだ
◆イマジン (Imagine)
■歌と演奏
ジョン・レノン/John Lennon (vocal, piano)
■シングル・リリース
アメリカ1971年10月11日、イギリス1975年10月24日、日本1971年11月10日)
■収録アルバム
イマジン/Imagine (1971年)
■作詞・作曲
ジョン・レノン/John Lennon
■プロデュース
フィル・スペクター/Phil Spector、ジョン・レノン/John Lennon、オノ・ヨーコ/Yoko Ono
■録音メンバー
ジョン・レノン/John Lennon(vocal, piano)
クラウス・ヴーアマン/Klaus Voormann(bass)
アラン・ホワイト/Alan White(drums)
■チャート最高位
1971年週間チャート アメリカ(ビルボード)1位、日本(オリコン)14位
1975年週間チャート イギリス6位
1981年週間チャート イギリス1位
1972年年間チャート 日本98位
12月4日の朝、一通のメールが届きました。
『容態が急変し、今朝、夫が亡くなりました』
亡くなったのは、ぼくが敬愛してやまないポピュラー・ピアニスト、有末佳弘さん(写真)。まだ50歳の若さでした。
昨夜は兵庫県加古川市までお別れに行ってまいりました。
有末さんは腎不全のため週3度の人工透析を受ける一級身体障害者です。また心臓が悪かったほか、緑内障による強度の弱視のため、目の前のものもボンヤリとしか見えませんでした。
彼のすごいところは、そんな体でありながら「命を削るような」思いをして、聴く者の心に響き渡るピアノを弾き続けようとしたことです。
有末さんとぼくとの出会いは1999年の12月です。ぼくの心のボスだった故・津田清さんが、「MINAGI、お前加古川の有末のところへ行け」と言って下さったのがそのきっかけでした。当時、音楽的に煮詰まって落ち込んでいたぼくを、愛弟子の有末さんに紹介して下さったわけです。有末さんはひところは関西ジャズ界のホープとして活躍されていたピアニストです。
初めて彼のピアノの音を聴いた時、背筋に電気が走ったのを今でもありありと思い出します。上手いとか下手とかいう次元を通り越した、心に突き刺さってくるような、一風変わった、それでいて生々しい美しさに満ちた音でした。
有末さんから教わったことはたくさんあります。
「いつも『今夜が最後のステージだ』と思って演奏している」
「命がけで音を出さなあかん」
そしてこのブログの副題でもある「音楽はまさに人生そのものや」etc・・・
ぼくは有末さんに、
「有末さんの音は『鶴の恩返し』ですね」と言ったことがあります。つまり、鶴が自分の羽をむしって美しい織物を織り上げたように、有末さんも自分自身を切り刻み、削って音を出している、と思えたのです。すると有末さんは
「それが分かってくれる人と一緒に演りたいんや」と言ってくれました。
またその頃のぼくは、自分自身の音に自信が持てなくて、道が見えなくて、つまずいたり落ち込んだりしていたのですが、そんなぼくの音を聴いて、「完全に一段上の領域に行ってますよ」「今まで共演したベーシストの中で一番心地よい」「東京に行ってもMINAGI君なら食っていける」と励ましてくれたことも今となっては懐かしい思い出です。有末さんは、彼の生徒さん達にも「MINAGI君クラスのベーシストに伴奏してもらえるのを有難いことだと思え」と言ってくださっていたそうです。いや、ぼくのベースの技術の自慢をする気はないんです。まるで暗闇の中にひとり置いておかれていたような状態だったぼくの音をプロの耳で客観的に評価し、励まし、元気づけてくれた、ということを言いたいんです。
ぼくのベースというのは、一言で言って「変わっている」そうです。ベースというのはコード進行やグルーヴ感、リズムなどを提示し、バンドサウンドの基礎となってある意味自分を抑えて冷静に音を出さねばならないのですが、ぼくの場合、音楽の美しさやカッコよさにすぐ反応してしまい、「自分自身」をあからさまに出してしまうところがあります。それを「オリジナリティーの塊」だとか、「MINAGI君のベースは、時にはピアノに聴こえ、また時にはホーンや打楽器にも聴こえる。独特の音をしている」と評価してくれたのも有末さんです。
そんな有末さんのピアノの音こそ独特の音を奏でていました。だれの影響も受けていない、本当に独自に編み出した音楽、透明感のある美しい音色、激流のような躍動感に満ちたフレーズの数々・・・。ぼくは最初は有末さんの体のことを知らなかったのですが、目や心臓や腎臓などのハンディのほか、いろんなコンプレックスをピアノを武器に乗り越えてゆくさまは、ぼくを音楽的なだけでなく、人間的にも大きく魅了してゆきました。
有末さんにとって津田清さんが永遠のボスであったと同じく、ぼくにとって有末さんは永遠のボスであり、かけがえのないピアニストです。そして有末さんと共演できたことはぼくの誇りでもあります。
2000年から6年間ほどはほとんど「有末佳弘のベーシスト」として起用していただきました。ここ3年ほどはぼくも体調を崩してしまったことが原因で、少し遠ざかっていたことが今になって大きく悔やまれます。
有末さん夫妻にはとてもお世話になりました。ぼくがその恩を返すことのないまま有末さんは旅立ってしまわれました。素晴らしいミュージシャン有末佳弘を失った喪失感や哀しみはぼくの心を占めています。
有末さんの素晴らしさ、ぼくがどれだけ感謝しているか、などを書きたかったのですが、今日はうまく文章がまとまりません。なんだか散漫で冗長、そのくせ思っていることの百分の一も書けていないような気がします。でもぼくは、こんな駄ブログの片隅にでも有末佳弘という素晴らしいミュージシャンのことを書きとどめておきたいのです。
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