貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

見よ、自然の二極性!

2021-07-16 11:12:50 | 日記

見よ、自然の二極性!

令和3年7月16日(金)

 昨夕からの青空と風をみると、

明朝日射しをあれば、梅雨明けの

感じかな?

 梅雨明け間近!

作りなす 

   庭をいさむる 

      しぐれかな

    前書き「庭興即時」。

 趣深く作りなした庭に時雨が降り、

さらに生気を与えていることだ、

の意。

 元禄四年(1691)の作。

  「庭興即時」・・・眼前の庭の趣を

 そのまま詠んだことを示す前書き。

 「いさむ」・・・戒めるの意の

「諫める」から、励ます意の

「勇む」が派生した語。

 十月上旬、岐阜の規外を訪ねた折の吟。

『国の花』は、その際の両者の付合

(発句は期外)を収め、

「芭蕉翁行脚の時、草戸を扣きて、

作りなす庭に、時雨を吟じ・・・」

の前書きを付す。

 うたた寝を諫める親の代わりに、

時雨が人の眠りを覚ますという連歌

の発想を受けつつ、

これを庭に詠んだ点に独自性がある

ことも指摘されている。

 ◎ 庭造りをしていると、

不意に雨が降ってきた。

 初めは、いやな雨だ、庭造りの邪魔を

していると思ったが、よく見ると、

泥だらけの植木を洗ってくれるし、

その風物詩ともいえる冬葱を綺麗にして

くれる。

 ここに自然現象の矛盾が、

自然の二極性がある。

 人間は自然の変化に、人為への邪魔立て

だけを見て立腹するが、それは間違いだ、

と諭してくれる


自然美の迫力!

2021-07-15 15:56:28 | 日記

自然美の迫力!

令和3年7月15日(木)

一尾根は 

  しぐるゝ雲か 

     ふじのゆき 

   雲をまとった富士の尾根の一つを

包むのは、時雨を降らせる雲だろうか、

の意。

  前書きは「不二」。

  貞享四年(1687)の作か。

「一尾根」・・・富士山頂から麓に向かう

稜線の中の一つ。

 『三冊子』は、下五を、「雪の不二」とし、

「大国に入て句をいふ時は、その心得あり」

以下の芭蕉の言を記す。

 これを併せ読めば、駿河での披露を念頭に、

意識的に大観を詠んだものと見ることができ、

『笈の小文』の旅での吟とするのが妥当。

◎ 白銀の富士の高嶺は美しい。

何もかも真っ白だと見つめていると、

一群の雲がゆっくりと移動してくる。

  その雲の様は、どう見ても時雨雲だ。

雲の傍に人がいれば、好天気の壮大な眺め

を汚すとんでもない時雨雲が襲いかかる

というのも、また面白い取り合わせ。

 この矛盾した光景にこそ、

自然美の迫力と見られる。


困ったときの願い二つ!

2021-07-14 16:00:49 | 日記

困ったときの願い二つ!

令和3年7月14日(水)

 12日の午後6時過ぎ、二度目の

ワクチン接種終了。

 翌朝、体温は平熱。注射跡の左腕も

一回目より気にならない。

 よかった!

 午前中、買物や用足しをして帰宅。

 昼食後、かったるい感じ????

 熱は、37度。

 横になったら、うたたね。

 37.6度に上昇。

 食べ物を入れ、用意していた

ロキソプロフェンを飲む。

 夕食も済ませ、21時再度同じ薬を飲み、

床に伏す。

 途中、かったるさもぬけ、すっかり自分の

体に!たいおん36.6。ほぼ平熱。

 大いに安堵し、安眠の世界に!

 これがワクチン接種初体験!

さみだれの 

  空吹おとせ 

      大井川

   増水して川留めになった大井川よ。

風を呼んで、あの五月雨の空を吹き

落としてくれ、

の意。

 元禄七年(1694)の作。

 5月21日付曽良宛て書簡に、

5月15日から三日間もの雨で洪水

になり、如舟方に逗留し、精気を

養ったとある。

 ◎ 空には雨雲が黒く覆い被さり、

あまりの大雨に川が溢れんばかりで、

川留めになった。

 これが何日も続くと宿に籠もって

いるばかりで旅の計画がめちゃくちゃだ。

 お~い、大井川よ。

その急流のような力で、空を吹き

飛ばしてくれよと、叫びたくなる。

 といっても、空は応えず、水嵩に

変化はないので、ますます困った気が

強くなるばかり。

 困った雨に吹き落とせというのは、

芭蕉の心の願いだが、そんなことが

できるわけはないに決まっている。

 苦笑いしながら宿から大井川を

眺めている芭蕉の姿が目に浮かぶよう。


滝降うづむ・・芭蕉と曽良

2021-07-12 15:39:19 | 日記

滝降うづむ

令和3年7月12日(月)

 さあ、今日はワクチン接種二回目。

体調も万全に近い。

 何も起こらず、終わることを願うのみ。

五月雨は 

  滝降うづむ 

     みかさ哉

   五月雨は、滝を埋めるほどに降り、

大変な水量になっているだろうね、

の意。

 元禄二年(1689)の作。

 石河の滝・・・須賀川の南東にある滝。

        乙字の滝。

「みかさ」・・・水かさ

 見物を断念したことを擬人表現を

使って表現したもの。

 残念がりつつ興じる姿勢は、

紀行の笠島の条に結実。

◎ 阿武隈川の上流にある滝を観よう

としたが、五月雨による増水で

川止めに遭ったと、

前書きにある。

 この連日の大雨では、滝も観ずに

埋まってしまうんだろうか。

 「みかさ」は、「水嵩」という意味で、

大小の滝も大雨にはかなわずに

水に沈んでしまうという意。

 今年も連日、伊豆半島や中国地方等

水に悩まされ、水に沈んでしまっている

現象があちこちで報告されている。

 乙字ヶ滝の芭蕉と曽良像


人為の美とその儚さの両立

2021-07-11 10:25:39 | 日記

人為の美とその儚さの両立

令和3年7月11日(日)

 今日も日射しが折に触れある。

 梅雨明けの間近。

 江戸時代頃は、

五月雨も終わりに近づくという

のかな?

五月雨や 

 色帋(しきし)へぎたる 

      壁の跡

   五月雨が降り続く候。

家の中を見回せば、壁に色紙を

剥いだ跡が、残っている、

の意。

 元禄四年(1691)の作。

 ひぎたる・・・剥がした。

 底本の掉尾を飾る句で、

五月四日の条に、

「月日は落柿舎を出たと名残惜をしかり

ければ、奥口の一間を見廻て」

として掲載。

 梅雨時のけだるさに気分、

壁に残る色紙跡の非充足感、

落柿舎を出る名残惜しさなどが

絶妙に響き合う。

◎ 嵯峨の落柿舎を出る時に、

部屋の中を見回すと、昔は豪奢な

建材で飾り立ててあったのだろうが、

今はすっかり傷んでしまい、

壁には無造作に剥ぎ取った色紙の

跡が見える。

 そして、外では雨が絶え間なく降って、

ますます家の中の荒廃をひどくしている。

 金色堂とはあべこべで、

人間の弱さが強調されている。

 しかし、芭蕉は、荒廃もまた、人

間の作り出す美であるという見識がある。

 そこで、芭蕉においては、

矛盾が両立する。

 金色堂の人為の美を誉め、

落柿舎の人為の美の儚さを嘆く。

ともに、対極にしながら両立している。