貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

人間の苦しみと巨大な美しい天河を!

2021-09-05 11:28:26 | 日記
令和3年9月5日(日)
荒海や 
   佐渡によこたふ 
        天河
 『おくのほそ道』所収のこの作品は素晴らしい。
 その迫力に圧倒される。
 荒海とは、八月半ばから冬にかけて、強い北風が起こす力いっぱいの波。
 北から押し寄せつくる波また波に洗われている佐渡島が、流されてきた流人たちの苦痛を示すように浮いている。
 この上に、何と天河が流れているではないか。
 人間の苦しみなど知らぬげに巨大に美しい星の河だ。
 この一句、視線が足元から水平線、島、天と上に昇るにつれて、美しく平和になっていく。
 なんと不思議だろう。
 師匠は、若かりし時、毎夏、友人と出雲崎のすぐ傍の石地海水浴場に泳ぎに行っていたそうだ。
 私は若い時、良寛の書に惹かれ、良寛記念館等出雲崎を訪れていた。
 芭蕉に惹かれてから数度訪れたが、丁度芭蕉が出雲崎に行った八月十八日(新暦)の頃に行ったこともあった。
 この頃になると、海は荒くなり、海月がたくさん出て、海水浴には不向きだろうが、佐渡はよく見える。
 宿泊の地ではなかったが、さぞかし 天の川も、はっきりと見え見事だろうなと想像。
 師匠は、カシオペア座のWもペルセウス座流星群もしっかりと天の川の一番明るいところにあって、佐渡の上に横たわっていたのを眺めたそうだ。
 師匠にとって、この俳句は、永遠の星空を、古池よりも永遠の時間を持って感慨深げに見渡されていたことになるだろう。
 荒海という目の前の事前現象をまず力強く詠んだ上で、佐渡の金山と遠流の歴史をも詠んでいるような気がする。
 つづく。


やんわりと「古池や」

2021-09-04 14:33:40 | 日記
令和3年9月4日(土)
今日から名句をもう一度かみしめることに。
古池や 
   蛙飛こむ 
      水のおと
 静かに水をたたえた古池に、蛙が飛び込む水音がする、の意。
 貞享三年(1686)の作。
「古池」・・・芭蕉庵の傍らに池があったという。(葛の松原)
「蛙飛こむ」・・・和歌の「鳴く蛙」に対する「跳ぶ蛙」の発想は
         新鮮ながら初期俳諧にも散見される。
・最も人口に膾炙した句で、真蹟類も多く残存。
 解釈・鑑賞も多彩で、種々の見方を許すだけでなく、
 芭蕉自身の理解が変化したことも指摘される。
 すなわち、貞享二年に成った上五「山吹や」の発案形は、
帯刀(たてわき)節(とき)信(のぶ) の故事『袋草紙』に依拠した
滑稽味の濃い作で、翌年に上五を改めた後、
啓蟄の喜びという新たな解釈を付与するようになったという。
 勿論、幽玄・閑寂の趣を看守する説も古くからあり、
一句受容の研究も進んでいる。
◎この句は、「蛙合」の句会を、深川の芭蕉庵で巻いた時の発句で、貞享三年(1686)の作である。
 「蛙飛こむ水のおと」」と芭蕉が言ったのに対し、門人の其角が春の季語なる「山吹や」とつけるのがいいと言い、芭蕉は「古池やがよい」と言ったと伝えられた。
 従来蛙の声を聞く作品が一般に知られていたのに、蛙が水に落ちる音を詠んだのが斬新と認められて発句が定り、古池の発想には、古い歴史も示されているとされ、「蛙合」の連句が巻かれたとも伝えられている。
 古池の示す質素で、実を取る表現による新しい蕉風の俳句が始まったとも認められたらしい。
「古池や」の和やかな切れ字「や」がその池の歴史をやんわりと表現し、「飛びこむ水のおと」が誰でも想像できるという事実も素晴らしい。
 芭蕉の句作の妙を味わおうとすると、結構大事になる。


死の予感に満ちた春雨の句

2021-09-03 14:08:56 | 日記
令和3年9月3日(金)
春雨や 
  蜂の巣つたふ 
     屋ねの漏(もり)
 降り続く春雨に、屋根から漏れた雫が
蜂の巣を伝って落ちてくる、
の意。
 元禄七年以前(1694)の作。
 春雨の小止みなく降り続く伝統的なイメージを、
卑近な景の中に捉え、しかも、詩情を盛ることに
成功した佳吟。
◎ こちらの春雨は静かに降っている。
元禄七年の作。
 この年の十月十二日に、芭蕉は死去するから、
この句は、故郷の伊賀上野に旅立つ前、深川で、
春を迎えて時の句であろう。
 春雨に降り込められて所在なく外を眺めていると、
藁屋根の端に濡れてしょぼくれた蜂の巣があり、
屋根から雨雫が滴り落ちてくる。
 この音なしの春雨は、どこか寂しい。
 雨音も、川の波音も単調な繰り返しで、
薄ら寒い、死の予感に満ちた句である。
 これで、春の句はおしまいに!


荒れ模様の春雨の句

2021-09-02 11:01:08 | 日記
令和3年9月2日(木)
春雨や 
    蓑吹かえす 
             川柳
   雨が降り続く中、風に揺れる川辺の柳が
人の蓑にあたり、柳に吹き替えされて
いるようだ、
の意。
 年次不明、元禄年間の作。
 実際は、人も柳も風に吹かれているのを、
柳が人を吹き返すと言った点が趣向で、
荒れ模様の春雨を読んだのはかなり大胆。
 柳の揺れる様を、人に見立てたとする解
もある。
 ◎ しとしとと静かに降る春雨であるが、
 今日は風も強く、細く軽く下がっている春
の川柳が吹き煽られたかと見えて、
せわしない。
 川端の道を行く人も蓑を翻されて
舟を進めるのに苦労している。
 こんな強風はめったにないことだから、
むしろ珍しげに芭蕉は川柳や通行人や船頭を
眺めている。
 他人と話す余裕もなく、従って、人の声がなく、
風音だけが雨音に混じっている景色が珍しい。


春雨と二葉のなすび種 二首

2021-09-01 10:25:10 | 日記

春雨と二葉のなすび種 二首

令和3年9月1日(水)

 できた句は、

こまか成 

  雨や二葉の 

    なすびだね

 「こまか成」という表現が、

春雨や 

  ふた葉にもゆる 

   茄子(なすび)種(だね)

    これら二句、どちらがいいか。

 後者は漢字を用いて、

春雨とふた葉の茄子種とを、

かっきり書き分け、

写生に徹していて、感情をはっきり

言わずにいる。

 前者は「こまか成雨」と言って、

春を抜いて穏やかな、母の手のような雨

を描き、

二葉にもゆる力を持つ茄子ではなく、

赤ん坊のように「なすびだね」と

呼びかけている。

 どちらの句も素晴らしいと思えるが、

皆さんはどうでしょう。

 どっちが好き?とたずねられれば、

私は前者の句かな?