☆9月に数館で公開された作品が、段々と公開館を増し、遂に、私の「行きつけの映画館^^;」である<MOVIX昭島>で土曜から公開された。
こりゃ、去年の『パンズ・ラビリンス』以上の傑作ですな。
『トト・ザ・ヒーロー』にも匹敵するスケールの大きさだ。
・・・私は、死の床にあっては、この『落下の王国』や『バロン』のような作品をエンドレスで見つつ逝きたいと思っている。
どこが「『パンズ・ラビリンス』以上」かと言うと、前者主演の美しい少女(イバナ・バケロ)が、性的な暗喩を醸していたのに対し、今作主演の幼女(カティンカ・ウンタール:美少女ではないが、とても魅力的だ^^)は、可愛らしさの純粋さを発揮させて物語を引っ張っていった点が、だ。
その悲劇度も、考えれば考えるほど、深い。
また、『トト・ザ・ヒーロー』の人生時間的(縦軸)なスケールに対し、世界空間的(横軸)な大きさがあった。
ちなみに『トト・ザ・ヒーロー』にも美少女が出てくる(サンドリーヌ・ブランク)。
それから、『バロン』にも美少女が出てきていた(サラ・ポリー)。
◇ ◇
正直、私、傑作に対しては、特に語るべき言葉がないんですよね~^^
う~ん・・・、とても軽快な作品だと思った。
それは、事故で入院し寝たきりのスタントマンの青年(リー・ペイス)が、同じく入院していた少女に、世界中を飛び回る(飛び回り過ぎる^^;)空想を話して聞かせている、そのスケール感もあるのだが、何よりも、その話の臨機応変さが軽快だったのだ。
1秒前にはピラミッドの前、1秒後には万里の長城へ。
それらの短いカットが、一定の説得力ある映像で見せられる。
非常に制作費もかかっているのだろう。
よくもまあ、こんな脚本が通ったなあ。
監督二作目のターセムに、何でこんな大作が任されて、しかも、こんな堂々たる作品に仕上げられたのであろう・・・。
私は、こんなにも世界を飛び回る作品は、『ジャンパー』以外には知らない^^;
でも、『ジャンパー』には、それぞれのロケーションで元を取ろうとした気配がありありだったね^^;
◇ ◇
空想の世界には6人の戦士が登場する。
それぞれが、類型的でない苦悩のエピソードを持っている。
そして、それぞれの逸話は、それぞれに豪勢なロケ・美術・セットでもって語られている。
特に、インド人の、さらわれた奥方の話、・・・奥方が彷徨うことになった「青天の迷宮」のビジュアルに圧倒させられた。
この映画全体に言えるのだが、エッシャーのだまし絵の如き緻密な映像がそこかしこに見られ、また、作品構造自体も、数学的な尺度で成り立っているように思える。
少女アレキサンドリアの骨折したギプスの固定が、立体的であることも、何がしかの意味を秘めているようではないか。
寓話的であり、ヒロイックであり、陽性に充ちている。
◇ ◇
・・・物語の冒頭は、スタント事故に遭った青年が救出されるさまが、モノクロカットで描かれる。
アンティーク写真のような情景が、無声時代のような映画音楽に彩られ、この作品が「ただ者の手によっては作られていない」ことが分かる。
私は、その後、物語展開において、何度となく、いい意味で裏切られる。
◇ ◇
その物語の世界の「神」である青年ロイは、暗黒の失恋の痛手の中にある。
・・・青年は死にたいのである。
故に、動けない自分に代わり、その話を、少女を手なづけるため「だけ」に語っているに過ぎない。
青年は、少女を手なづけ、自殺のための「モルヒネ」や「睡眠薬」を取ってこさせようとしているのだ。
・・・自分が死ぬために、青年は、自分の夢ある空想を少女に聞かせ、少女を喜ばせるのだ。
その矛盾・・・。
◇ ◇
青年の稚気と、少女の拙い経験は、ファンタジーを映像化する。
故に、現実と空想は多くの「断片(キーワード)」で繋がっている。
それらは、意味のあるよな、ないよな、暗喩・伏線となって作品を彩る。
・・・オレンジ。
・・・入れ歯。
・・・チョウチョ。
・・・切り込みの入ったメモ。
・・・板氷。
ファンタジーの登場人物も、現実の世界のマスカレードの如く入り乱れる。
◇ ◇
病床の青年の自殺が未遂に終わり、青年の語る話は、どうしても悲劇的な様相を呈していく。
6人の戦死は次々に倒れていく。
少女は、小さな顔をくしゃくしゃにして、「どうしてみんな死んじゃうの?」と泣きじゃくる。
・・・少女は病院内で、青年の薬を得ようと高い棚への踏み台から転倒し、頭を打つ、その処置は、人形アニメーションで表現される。
私は、それまでの映像表現でもたいがい驚かされていたのだが、このシーンではほとほと呆れて圧倒させられた。
そして、病床にある痛々しい少女の前であっても、青年は、悲劇を語ることをやめられない。
失恋の内にある青年にとっての「世界」とは、悲劇でしかあり得ないからだ。
他の選択肢などは思いつかない。
だから、ロイと言う「神」が司る「空想」は、悲劇的結末こそが当然の帰結であった。
◇ ◇
私も、即興で話を作るのが得意である。
そして、かつての私の話も、陽気に語りつつ、最終的にとんでもない悲劇に突き進んでいた。
幼児であった姪っ子に聞かせて、よく泣かせていた。
当時の私は、世界をそう見ていたからだと思う。
だから、ロイの苦悩に、私は共感しまくった。
だが、同時に、私は、「失恋」と同時に、目の前の「チビ」も、同様に人生の大問題足り得た。
ロイもそう思っていたと思う。
だって、空想の途中から、茶目っ気たっぷりのアレキサンドリアがチョコチョコ登場し始めていたから^^
◇ ◇
物語は、突然の転調でハッピーエンドを迎える。
私は、それでいいと思った。
アレキサンドリアの魅力は、一つの世界の悲劇を食い止めたのだ。
少女の笑顔の魅力とは、そのためにある。
PS.もう一度映画館で観て、DVDも買おうっと!!^^v
(2008/11/19)
こりゃ、去年の『パンズ・ラビリンス』以上の傑作ですな。
『トト・ザ・ヒーロー』にも匹敵するスケールの大きさだ。
・・・私は、死の床にあっては、この『落下の王国』や『バロン』のような作品をエンドレスで見つつ逝きたいと思っている。
どこが「『パンズ・ラビリンス』以上」かと言うと、前者主演の美しい少女(イバナ・バケロ)が、性的な暗喩を醸していたのに対し、今作主演の幼女(カティンカ・ウンタール:美少女ではないが、とても魅力的だ^^)は、可愛らしさの純粋さを発揮させて物語を引っ張っていった点が、だ。
その悲劇度も、考えれば考えるほど、深い。
また、『トト・ザ・ヒーロー』の人生時間的(縦軸)なスケールに対し、世界空間的(横軸)な大きさがあった。
ちなみに『トト・ザ・ヒーロー』にも美少女が出てくる(サンドリーヌ・ブランク)。
それから、『バロン』にも美少女が出てきていた(サラ・ポリー)。
◇ ◇
正直、私、傑作に対しては、特に語るべき言葉がないんですよね~^^
う~ん・・・、とても軽快な作品だと思った。
それは、事故で入院し寝たきりのスタントマンの青年(リー・ペイス)が、同じく入院していた少女に、世界中を飛び回る(飛び回り過ぎる^^;)空想を話して聞かせている、そのスケール感もあるのだが、何よりも、その話の臨機応変さが軽快だったのだ。
1秒前にはピラミッドの前、1秒後には万里の長城へ。
それらの短いカットが、一定の説得力ある映像で見せられる。
非常に制作費もかかっているのだろう。
よくもまあ、こんな脚本が通ったなあ。
監督二作目のターセムに、何でこんな大作が任されて、しかも、こんな堂々たる作品に仕上げられたのであろう・・・。
私は、こんなにも世界を飛び回る作品は、『ジャンパー』以外には知らない^^;
でも、『ジャンパー』には、それぞれのロケーションで元を取ろうとした気配がありありだったね^^;
◇ ◇
空想の世界には6人の戦士が登場する。
それぞれが、類型的でない苦悩のエピソードを持っている。
そして、それぞれの逸話は、それぞれに豪勢なロケ・美術・セットでもって語られている。
特に、インド人の、さらわれた奥方の話、・・・奥方が彷徨うことになった「青天の迷宮」のビジュアルに圧倒させられた。
この映画全体に言えるのだが、エッシャーのだまし絵の如き緻密な映像がそこかしこに見られ、また、作品構造自体も、数学的な尺度で成り立っているように思える。
少女アレキサンドリアの骨折したギプスの固定が、立体的であることも、何がしかの意味を秘めているようではないか。
寓話的であり、ヒロイックであり、陽性に充ちている。
◇ ◇
・・・物語の冒頭は、スタント事故に遭った青年が救出されるさまが、モノクロカットで描かれる。
アンティーク写真のような情景が、無声時代のような映画音楽に彩られ、この作品が「ただ者の手によっては作られていない」ことが分かる。
私は、その後、物語展開において、何度となく、いい意味で裏切られる。
◇ ◇
その物語の世界の「神」である青年ロイは、暗黒の失恋の痛手の中にある。
・・・青年は死にたいのである。
故に、動けない自分に代わり、その話を、少女を手なづけるため「だけ」に語っているに過ぎない。
青年は、少女を手なづけ、自殺のための「モルヒネ」や「睡眠薬」を取ってこさせようとしているのだ。
・・・自分が死ぬために、青年は、自分の夢ある空想を少女に聞かせ、少女を喜ばせるのだ。
その矛盾・・・。
◇ ◇
青年の稚気と、少女の拙い経験は、ファンタジーを映像化する。
故に、現実と空想は多くの「断片(キーワード)」で繋がっている。
それらは、意味のあるよな、ないよな、暗喩・伏線となって作品を彩る。
・・・オレンジ。
・・・入れ歯。
・・・チョウチョ。
・・・切り込みの入ったメモ。
・・・板氷。
ファンタジーの登場人物も、現実の世界のマスカレードの如く入り乱れる。
◇ ◇
病床の青年の自殺が未遂に終わり、青年の語る話は、どうしても悲劇的な様相を呈していく。
6人の戦死は次々に倒れていく。
少女は、小さな顔をくしゃくしゃにして、「どうしてみんな死んじゃうの?」と泣きじゃくる。
・・・少女は病院内で、青年の薬を得ようと高い棚への踏み台から転倒し、頭を打つ、その処置は、人形アニメーションで表現される。
私は、それまでの映像表現でもたいがい驚かされていたのだが、このシーンではほとほと呆れて圧倒させられた。
そして、病床にある痛々しい少女の前であっても、青年は、悲劇を語ることをやめられない。
失恋の内にある青年にとっての「世界」とは、悲劇でしかあり得ないからだ。
他の選択肢などは思いつかない。
だから、ロイと言う「神」が司る「空想」は、悲劇的結末こそが当然の帰結であった。
◇ ◇
私も、即興で話を作るのが得意である。
そして、かつての私の話も、陽気に語りつつ、最終的にとんでもない悲劇に突き進んでいた。
幼児であった姪っ子に聞かせて、よく泣かせていた。
当時の私は、世界をそう見ていたからだと思う。
だから、ロイの苦悩に、私は共感しまくった。
だが、同時に、私は、「失恋」と同時に、目の前の「チビ」も、同様に人生の大問題足り得た。
ロイもそう思っていたと思う。
だって、空想の途中から、茶目っ気たっぷりのアレキサンドリアがチョコチョコ登場し始めていたから^^
◇ ◇
物語は、突然の転調でハッピーエンドを迎える。
私は、それでいいと思った。
アレキサンドリアの魅力は、一つの世界の悲劇を食い止めたのだ。
少女の笑顔の魅力とは、そのためにある。
PS.もう一度映画館で観て、DVDも買おうっと!!^^v
(2008/11/19)