『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[映画『ダンシング・チャップリン』を観た]

2011-07-11 22:34:47 | 物語の感想
☆何故か、周防正行監督作品は母親と観に行くのが慣例となっていた。

 ただ、作品の形式が、いつもの周防作品と異なるので、一抹の不安(面白くないんじゃないか?)を抱きつつ、観始めた。

 私にとっては、不安は的中した。

 理由は後述するが、何度も落ちた(寝た)。

 しかし、母親は、非常に喜んで見ていた。

 私が眠気と戦っているときに、母親が笑い声を上げていたので、私は、自分にはない感性が母親にあることに驚いた。

 そもそも、私は、映画好きのように思われているようだが、映画が好きな訳ではない。

 物語が異常に好きなのである。

 だから、自分の感覚に訴えない、ストーリー性のないジャンルの芸術に対しては、どうしても退屈さがつのってしまうのである。

 音楽ってものは、洋楽で言葉が理解できない時でも、それでも分かりやすいのだが、ストーリー性のないダンスとなると、私には、楽しむのが非常に難しいのである・・・。

 ダンス作品ではないが、ディズニーの名作『ファンタジア』など、凄い技術の作品だなぁ、と思いつつ、すぐに寝てしまったものだ。

 ここぞと言う時のイメージ演出は、私の心を虜(とりこ)にするパワーを持っているんだけどね。

   ◇

 作品は二部構成で、第一部は、周防監督をはじめとするスタッフやキャストが、フランスの巨匠振付家ローラン・プティによるバレエ『ダンシング・チャップリン』を映画化するにあたっての過程がドキュメントで撮られている。

 ここで先ず、私は躓いた。

 私には、バレエの「凄さ」が感覚的に理解できず、巨匠振付師プティと言われても、主演の名ダンサー、ルイジ・ボニーニと言われても、何が凄いか、てんで分からないのだ。

 周防監督が何でこの作品を撮りたいと思い、また、その初動をドキュメントとしてまで残したいのかも分からなかった。

 こちらは、何を「見る」目的にしていいか分からない中での鑑賞を余儀なくされる。

 バレエ知識のない人間に、「新しい価値・基準」の創造としての作品作りは為されていなかった。

 ちょくちょく画面に出てくる周防監督を見ると、次第にイライラさせられもした。

 周防監督の奥さんの草刈民代が美しいから嫉妬しているのかも知れない^^;

 ただ、二点だけ、「ダンシング・チャップリン」の映画化である第二部につながる物語性があった。

 それは、ドキュメントの中で映し出されていた、振付師プティの素直さと強情さであった。

 幾つかのシーンで、周防監督は、スタジオ内から、外界の公園でのダンスを映したいと演出プランを立てていたらしいのに、プティ氏は「そんならやめる!」などと言い出すのだ。

 さて、本番ではどうなるのか?

 それと、東京での踊りのレッスンでは、「パ・ド・ドゥ(二人のステップ)」をする中で、草刈嬢の体を、男がうまく支え切れないと言う状況が起こってしまい、

 その男を代えなくてはならなくなってしまった。

 本番での代役はうまくやってくれるのか?

   ◇

 第二部「バレエ」では、ほとんどがスタジオ内だが、映画としてのカメラの切り替えが縦横無尽で、非常に感心させられた。

 草刈民代が美しいだけでなく、演技派であることも分かった。

 公園での警察官のダンスも、その緑のイメージが、閉鎖空間とは異なった爽快感を感じさせてくれた。

 だが、見ながら何度も眠ってしまった・・・^^;

 楽しんだ母親に意見を聞くと、

「オペラの映画を(MOVIX MET ライブ ビューイング)二回見たけど、あれも最初は、作品ができるまでの過程を追っていたのよね。だから、今回の二部構成が理解できた。何よりも、私はダンスを見るのが好きなのよね」

 とりあえず、一緒に見た人が喜んでくれたので良かった。

                                                        (2011/07/11)

[映画『小川の辺 』を観た]

2011-07-10 21:08:58 | 物語の感想
☆静謐の良作だった。

 藤沢周平原作で、物語は至ってシンプル、脱藩した義理の弟・佐久間を討つ上意を受けた主人公が、藤沢作品ではお馴染みの海坂藩から江戸へと向かう一種のロードムービー時代劇。

 藤沢周平作品は、司馬遼太郎作品の歴史を揺るがす大事件を描くスケールと違い、当時の確固たる社会の中での一つの事件を扱うことが多いので、その雰囲気を楽しめば良い。

 でも、主人公の戌井朔之助(ひがし)は超硬派で、ロードムービーの持つマッタリ感はない。

 義理の弟には、幼い頃から勝気な妹が付き添っていて、主人公にも、妹と心を通わしていた従者が付き添うことになる。

 このようなシンプルな話は、細部の描写が命であるが、

 この時代の常識やシステム、武士道に沿った侍たち、丁寧な主従関係がきっちりと描写されている。

 道中、小川で口をゆすぐ朔之助に奉公人・新蔵(勝地涼)が手拭いを渡す、朔之助は口元を手拭いで隠しつつ、口の中の水を吐き出す。

 旅籠の女中は、部屋で食事をする朔之助や新蔵の給仕に付き添う、椀を空けた新蔵に、女中はおかわりを問う、新蔵は朔之助の許可を受けてからよそって貰うのだった。

 実にリアルな描写だった。

 藩内の上下関係は厳然と守られ、家族間でも厳守されつつ、そこは情の通い合いで、親族の追討を命ぜられた朔之助に不満をもらす母親の存在が許されるのも家庭内だからである。

 先日見た『アイ・アム・ナンバー4』と同じく、世界の日常が丹念に描かれ、物語の大きな起伏はクライマックスまで待たねばならない。

 しかし、ストイックな展開を経てきた後なので、クライマックスの盛り上がりはピカイチである。

 回想の中にあった佐久間との剣術御前試合のシーンも力が入っていたが、クライマックスのタイマン勝負も緊張感が漲った。

 そこには、決闘の必勝法も、自分の技も語られることはない。

 しかし、雨天中止の、三本勝負一対一で終わった勝負へのこだわりが、朔之助の道中での所作に表われている。

 朔之助を演じる東山紀之は、クールで優しい役を見事に演じていた。

 もう、今後、「必殺」シリーズも、この人に任せられよう^^

 髷を結った姿がこんなに似合う役者も珍しい。

 ただ、この作品、惜しむらくは、主人公の妹・田鶴を演じた菊地凛子の容貌がキッツイことだ。

 「ダダ星人」こと前田敦子と姉妹と言っても過言ではなかろう。

 その負けず嫌いの性格付けや、子役時代を演じた娘が菊地凛子にそっくりだったことも含めて考えると、物語的には非常に現実的なのであるが、

 作品構成を考えると、ここは正統派美女を配すべきだったと思う。

 自分の夫が討たれたことで、実の兄に刀を振るい、同じ流派とのことだが、その剣捌きが兄とは異質であるとこなど、なかなか良かったのだが、時代劇にはそぐわない顔だな。

 でも、エンディングの、登場人物の役割の無駄のなさが、シェイクスピア劇みたいで、非常に爽やかであった。

                                                     (2011/07/10)

[与党民主党考・130 「違いを分かろう(一昨日の続き)」]

2011-07-09 22:37:01 | 保守の一考
☆実は、一昨日のエントリーはもうちょい長いはずだったのだが、眠気に負けてしまった。

 続きを書く。

   ◇

 これは何度も書いたことだが、以前、テレビを見ていたら、映画監督の井筒と言う人が、なんかの映画作品を評していて、「この作品は駄目だ。若者が主人公なのに、なんで反体制的じゃないんだ!」とか言っていて、私は辟易とさせられた。

 この人にとっては、状況の良し悪しは関係なく、システムは常に反感の対象でなくてはならないのだな、と思った。

 恐ろしいのは、おそらく、この言葉を聞いて、視聴者の7割がたが疑問を持たないだろう事実だ。

 井筒監督と言うのは、戦後民主主義的な価値観に沿った作品(つまり、下卑たレベルのものさえ内包する「価値の多様性」の結果としての「無国籍」状況への移行を指向)の監督をしていて、それなりの良作を残しているようだ。

 だが、それは、作品舞台が、その左翼的なテーマに合致しているに過ぎない。

 私とて、そんな作品を批判するつもりはない。

 だが、世の中の全ての事象が、そんな思考回路で裁けると思ったら大間違いだ。

 そして、そんな作品に共感してしまった者が、そんな片寄った思考回路の人間に、自分の思考を左右されてしまうのも危険だ。

 特に、芸術分野だと分かりやすいが、それに秀でた者が「正」であることは少ない。

 ここで言う「正」とは、ちょいと照れくさいが、最大公約数が幸福である社会を求める気持ちだ。

 「正」じゃない者の政治的な主張に惑わされることほど危険なことはない。

 私など、D・リンチが大好きで、その才能に魅かれるが、D・リンチに道徳・正義を求めようとは思わない。

 私は、アートSMの峰一也監督にも心酔していたが、ミネックに「狭義の純愛」を説いてもらおうとも思わない。

 その辺の境界線は、絶対に誰もが持たなくてはならない。

 その「状況の違い」が分からないならば、芸術もスポーツも政治も性事も語る資格はない、と言っておく。

   ◇

 先ほどの「7割」と言うのは、私の勝手な憶測だが、「天才」の私が言うのだから合っている。

 一昨年の衆議院選挙で民主党に投票した国民と重なる。

 その「7割」がたの国民とは、ずばり、何も考えない愚民である。

 マスコミ情報を、吟味せずに鵜呑みにする人々である(「一億総白痴化」極まれり)。

 標語に騙されやすいバカであり、

 その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカである。

 「標語に騙されやすいバカ」とは、「国民の生活第一」とか「政権交代」と笑顔で言われると、その具体的な状況及び、その状況が為されるにあたっての反作用の大きさを想像できない無知な者を言う。

 「その標語に見合う状況と、見合わない状況の違いが分からないバカ」とは、

 究極的には、それまでの政権の施政と、民主党政権下の施政の違いが理解できなかった、もしくは、いまだに理解できない人々である。

 先の選挙に投票した反省を持たない人間である。

   ◇

 で、私は、井筒監督のように決めつけたい。

「現在、最大公約数に幸福をもたらす<正>は、常に表層にはない。必ず、背後に封じられている。保守派は、ゆめゆめ、騙されるな!!!」

 だって、国の決定は、7割のバカによって決定されちゃうからだ。

 西尾幹二のバカなどは、反原発で通すそうだが、「水素爆発」の「芸術さ」に恐怖し、心を奪われ、怯え、楽な左巻きに逃げた。

 まあ、この人は、元から「左」だ・・・。

 くれぐれも、保守派たるもの、楽な言論サイドには逃げないで欲しい。

 「正」は、多くの具体例・多くの可能性の綱渡りの果てに、か細く存在しているものだからだ。

   ◇

 私は、この文章を、菅政権後のために書いている。

                                                  (今回も中途半端な内容だな・・・。 2011/07/09)

[映画『アイ・アム・ナンバー4』を観た]

2011-07-08 22:45:51 | 物語の感想
☆イメージ的に、「超能力者が9人いる」と言う設定だったので、『サイボーグ009』のパクりかと思い、

 でも、私好みの、派手なジャンプ漫画的な超能力合戦が見れればいいと、それを期待して見に行ったら、意外に、地に足の着いた展開の、「トワイライト」シリーズの高尚なエンターテイメント版という趣であった。

 そして、終わってみると、「ハリーポッター」シリーズの如く、続編が楽しみになるのだった^^

 タイトルのナンバリングの安っぽさも、途中からグッとくるよ。

 主人公が異星人である設定も、敵の暴力的な異星人の一歩間違えばちゃちな描写も、見終えると、そこには、ほど良い深みがあった。

 物語に、それだけの仕掛けが施されていたように思う。

   ◇

 プロデューサーがマイケル・ベイだそうで、かつては私にとって「大味(おおあじ)」の代名詞だった方なのだが、今となっては、「安心」印で楽しめる^^

 まだ若い学生の主人公(ナンバー4)は、青春を謳歌しているようでいて、大きな秘密を持っていた。

 彼は、悪のモガドリアン星人に滅ぼされたロリアン星人の生き残りで、特に母星から幼くも脱出させられたのはナンバー1からナンバー9の<九人の勇士>であった。

 だが、モガドリアン星人の追求は地球までも伸びていて、ナンバー3までが抹殺されていた。

 いまだ、能力に覚醒していないナンバー4は、自分の守護戦士とともに、定期的に引越し・転校の逃亡生活を送っていたが、今回の町では、美しい女・サラに出会ってしまうのだった。

 やはり、物語を牽引するのは、見る者にとっての魅力的な異性なのかもしれない。

 女性にとって、主人公のナンバー4(アレックス・ペティファー )はどうか?

 私は、最近の「オタクの願望成就」系ではない、イケメン君であることに新鮮さを感じたけど、

 彼は謎を抱えているので、ちょいと影があり、東北から上京してきて都会に馴染んでない若者風に見えた。

 が、まあ、女性陣には初々しくて受けが良さそうだ。

 で、ヒロインのサラ(ダイアナ・アグロン)であるが、この娘、メチャ可愛かった。

     

 サラが嫌う家庭の描写も良いし、性格も可愛かったが、何よりもサラの容姿が徹底的に魅力だった。

 ずーっと、見とれた。

 で、このサラや、UFOオタクのクラスメイトが、クライマックスの敵との戦いの中でも、それなりにちゃんと絡んでいるのもいい。

 超能力者だけの戦いもいいが、ちゃんと普通の人間が加わっている戦いも身近でいい。

 で、戦いの途中から、女の<ナンバー6(テリーサ・パーマー)>も乱入してくる。

 切れ味の良いアクションで敵をなぎ倒し、じっくりと外見を拝みますれば、

 容姿がサラとダブっているのでぶったまげ!

     

 でも、これまた可愛い。

 監督の趣味なのか?

 耳で聞くと「宇宙人の生き残りが超能力を駆使して、悪の宇宙人と戦う」と野暮ったい感じもするのだが、

 実際、見てみると、例えば、守護者ヘンリーの厳しい後見人の言動に代表できる描き方など、かなりしっかりしている。

 冒頭から、画面の色調が暗いのがやたら気になったが、途中から夢中になれた。

 これは絶対に続編が見たいなぁ^^

                                                     (2011/07/08)

[与党民主党考・129 「国民道連れの自作自演(忙しくて中途半端)」]

2011-07-07 23:59:41 | 保守の一考
☆私は、総理大臣としてだけでなく、政治家としても、人間としても、鳩山由紀夫が最底辺だと思っていたが、

 菅直人は、それを上回っている(いや、下回っている、か)。

 昨日、ニュースで、その姿を久し振りに見たが、なんか、人間としての外郭がぼやけている印象だ。

 ただ、現在の地位への「ストーカー行為」だけが際立ち、それに伴う言葉だけは歯垢のようにこびりついている。

 フワフワした存在感。

・・・「あんたがその地位にいるだけで、復興が著しく遅れる」の意味の問い掛けに際しても、

「満身創痍、刀折れ、矢尽きるまで力の及ぶ限りやるべきことをやっていきたい」などと、自分の為している、置かれている状況に全くそぐわない、言葉自体は小奇麗なセリフを吐いて安心している始末だ。

 鳩山も、このような言い換えを得意としていた。

 「バカ」と言われたら、「バカ正直に頑張る!」とのたまう類(たぐい)のレトリックだ。

 良くも悪くも異なると思っていた鳩山と菅だが、実は似ている。

 予想が比較的容易な、「天然」の鳩山に比べ、その、バカかキチガイなのか、境界が定かでないが故に、菅の方が突発的で、より多くの国民を巻き込む危険を孕んでいる(既に日本国は、厳しい状況に巻き込まれている)。

   ◇

 詐欺師であった福永法源は、なんか世間様を騙す方便として、信者(詐欺仲間)に「足裏診断」なる詐欺テクニックを考えさせたのを思い出した。

 菅直人も、ここにきて、「脱原発」という方便を、周囲の詐欺仲間とこしらえて、その標語だけで、自分の地位保全を得ようとしている。

 だが、リスクの少ない代替エネルギーさえ商業ベースに乗れば、殊更に、原発エネルギーに固執し続ける者は少ないだろう。

 私だってそうだ。

 対立項になってないのに、菅だけは争点と勝手に思っている。

 問題は、大きなリスクが伴うにもかかわらず、原発を使い続けなければならない「状況」なのである。

 他国(アメリカ)に依存する国家防衛状況においてもそうだ。

 そう為らざるを得ない状況がある。

 バカは、そう言った意見に対し、妄想だけを振りかざし、標語で、一部の思考を持たぬ国民を煽動する。

 そして、国のまとまりを破壊せしめる。

 菅直人は運動家上がりである。

 総理という立場であり、配下が、現実的な対応で「原発再稼動」に動いている中、一人、原発の再稼動も進めつつ、「反原発」で国民の歓心を得ようとしている。

 国民の誰よりも現実的であらねばならない総理職が、一番の夢想家なのである。

 鳩山ならば、「愚かな夢想家」で済むが、菅に至っては、そこに「依怙地な執着の結果としての夢想家なりすまし」状況がある。

 そもそも、今回の原発事故で最大の被害(ビジュアル的にも実質的にも)をもたらしたのは水素爆発である。

 この時、最大量の放射線が全国に飛んだ。

 それを引き起こしたのは、菅直人の「事故現場訪問の都合」によってであることは、もう明らかにされている。

 自分が引き起こして、それを封じて、国民の支持を得ようとしているんだから、呆れて言葉が出ない。

 しかし、そんな狂人を支持する人間も多いのだから、まあ、日本は滅びてもしょうがないのかもね。

 でも、一部にまともな人々もいるのだから、そのために、私は、こうして、言葉を尽くしてみようと思う。

                                                       (2011/07/07)

[与党民主党考・128 「マッカーサーになりたかったバカ・松本龍」]

2011-07-05 19:45:08 | 保守の一考
☆ふむ・・・、辞任したね。

 一部に、総理の座に固執する菅を嫌悪しつつも、再三の就任要請に、「刺し違える」つもりで復興相に就任し、かように、言語道断な言動を繰り返して・・・、と言う報道もある。

 その観点にも、やや信憑性が感じられるほどの、昨日、私の記した<こんなステレオタイプな「ダイレクト・バカ」は、創作の中にしかいないだろう。>っぷりであった。

 だが、その観点が本当ならば、民主党と言う存在は、心底、深刻である。

 松本の示した民主党が危険であるのではない。

 松本みたいな人格を、高いパーセンテージで宿している民主党が危険なのである。

 先のオリンピックで、星野仙一監督は、晴れの舞台で「この投手をここで使い続けなければ、こいつ(その投手)が駄目になる」と考え、使い続け、結果、大敗北を喫し、大バッシングを受けた。

 それは、オリンピックと言う「国民・国家」の事情に、「個人」の筋(スジ)を持ち込んだのが、完全なる間違いであった。

 星野仙一は才能ある人物であるが、ここではボタンを掛け間違えた。

 それと似て、松本龍が、菅と「刺し違える」と言う妄想を描いていたとしたら、それは根本的に間違いだ。

 それこそ、松本龍の「個人・もしくは民主党」の事情に過ぎない。

 それに、この国難の時期に、就任から9日間を無駄にしてしまった罪悪は多大だ。

 ましてや、「差し違え」はバカ二人の問題ではなく、国民を巻き込んだ「自爆テロ」みたいな状況になった。

 私は、この松本と言う男は、もちろん、あらゆる意味で勘違いなのだが、「マッカーサー」を目指していたのではないかと思う。 

 おそらく、あたかも、震災の荒野原となった被災地に、あたかも、東京大空襲後の焼け野原を見たのだと思う。

 もちろん、それはバカな錯覚である。

 そして、就任時、グラサンをかけて、登場したのである。

 それも、完全な「勘違い野郎」の振る舞いである。

 そして、あたかも、自分が、被災地の復興の全権委任を受けたかのように、居丈高な態度で、被災地に挑んだのである。

 完全なる間違いである。

 サッカーボールのパフォーマンスをしたり、解任時に「ノーサイド」と言う言葉を使ったり、災害復興とスポーツを同レベルに考える、もう、民主党伝統の、世間様の常識との「ズレ具合」である。

 真面目に言うが、 「切腹を申し渡す!!!」

                                                       (2011/07/05)

[与党民主党考・127 「また、バカが炙り出された」]

2011-07-04 22:14:48 | 保守の一考
☆何で、こんな「勘違い男」が現われ、そして、あまりにも異常な人物であるのに、すぐに忘れ去られ、民主党政権は続いていくのだろうか・・・。

   ◇

 ・・・なんちゅうか、ある意味、その言動の激しさに「コンセンサス」を得ている石原慎太郎でも、こんな横柄ではない。

 そもそも、石原慎太郎は、一部の左翼が、自分らの左翼陣営の頂点でふん反り返っている、石原慎太郎の暴言に倍する異常人物を隠蔽するためのスケープゴートにされているに過ぎない。

 いやはや、松本龍!

 あんたには、そんな態度を取れるだけの「実績」はねぇ!

 うん、あんた、死ねばいいと思うよ^^

 心から、真心から、そう思う。

 呆れた。

   《松本復興相:自公「容認できない」 「助けない」発言で(毎日 2011/07/04 12:50)》

 <自民党の石原伸晃幹事長は4日午前、松本龍復興担当相が3日の岩手、宮城両県訪問で「知恵を出したところは助け、知恵を出さないやつは助けない」などと発言したことに対し、国会内で記者団に「ご自身が誤解のないように(説明)するか、辞めるかのどちらかだ」と述べ、松本氏の説明が不十分な場合は辞任を要求する考えを示した。
 石原氏と公明党の井上義久幹事長は4日の民主、自民、公明3党の幹事長・国対委員長会談で「容認できない」などと抗議。民主党の岡田克也幹事長は「松本氏に注意する。菅直人首相にも伝える」と回答。この後、松本氏に電話し「謙虚にやってほしい」と注意した。
 一方、松本氏は4日昼、首相官邸で記者団から「問題はなかったか」と問われ、「私は(問題は)なかったと思う」と述べた。「私が席に着いてから話が終わるまでを見てごらん」とも語った。
 枝野幸男官房長官は同日午前の記者会見で、「松本氏は強い責任感と使命感のもとで仕事をしている。私からあえて(真意を)確認する性格のものではない」と聞き取りはしない考えを示した。【影山哲也、念佛明奈】

 ◇松本復興担当相 発言の要旨
 松本龍復興担当相が3日に岩手、宮城両県庁を訪れた際の主な発言は次の通り。
 <岩手県庁での達増拓也知事との会談>
 俺九州の人間だから何市がどこの県とか分からない。仮設住宅はあなたたちの仕事だから、我々は次の恒久住宅みたいなのを構想するから、どういう知恵を出せるか、知恵合戦だ。知恵を出したところは助けますけど、知恵を出さないやつは助けない。それぐらいの気持ちを持って(対応する)。だから(首長には)もう「あれが欲しい、これが欲しい、は駄目だぞ、知恵出せよ」と話をしている。
 <宮城県庁での村井嘉浩知事との会談>
 何でも相談には乗る。だからしっかり政府に対して甘えるところは甘えて。こっちも突き放すところは突き放す。(漁港を)3分の1から5分の1に集約すると言っているが、県で(漁業者と)コンセンサスを得ろよ。そうしないと我々も何もしないぞ。ちゃんとやれ。今、(村井氏が)後から入ってきたが、お客さんが入ってくる時は自分が入ってからお客さん呼べ。自衛隊ならそうやるぞ。最後の言葉はオフレコです。>

 ・・・ムカムカする。

 こいつ、震災当時、防災担当大臣だったんだってさ!

 本来なら、自分の不甲斐なさを土下座して謝罪すべきだろう。

 なんだよ、その「命令口調」は!

 また、村井知事は元陸上自衛隊所属で、その人に向かって、知ってか知らずか、自衛隊の「長幼の序」の講釈を垂れるのである(追記:旧知の間柄だったとのこと)。

 その言葉の使い方も間違っているが・・・。

 自衛隊に頼りきった民主党が、自衛隊のOBに能書きを垂れるのである。

 「最後の言葉はオフレコです」の後には、こう続いたそうだ。

「・・・オフレコです。・・・はい、絶対書いたら、もう、その社(マスコミ)は終わりだから」

 いや、あんたが終わりですから!!!

 こんなステレオタイプな「ダイレクト・バカ」は、創作の中にしかいないだろう。

 自殺したらいいのに・・・。

 こういう奴は、「政治家は国民の奴隷」と言う極端な認識を、ロボトミー手術で大脳に刷り込んだ方がいい。

 ・・・しかし、国会は会期延長したってのに、そのぶん余計に、復興に向けた日々を無為に費やしているね。

                                                    (2011/07/04)

[映画『マイティ・ソー』を観た(短信)]

2011-07-02 23:59:43 | 物語の感想
☆北欧の神話を題材にしたヒーロー物なので、なんか重々しくて気が進まなかったんだけど、

 主人公・ソーが、シンプルにパワー一直線キャラクターだったので、気軽に作品世界に入っていけた。

 主演のクリス・ヘムズワースは、カッチョいい筋肉体型だけど、甘いハンサム顔だ。

 物語の序盤は、そのソーのパワーの爽快さに酔いしれた。

 武器のハンマーの打撃音も心地良い。

 それに伴う映像も申し分なかった。

 ただ、物語は単純ではなく、王宮内の世継ぎ争いと兄弟の確執と言う定番ながらも、そこここに細やかなオリジナリティが見られた。

 例えば、「虹の道」の番人のキャラの立ち具合や、

 宝物庫の曰くありげな兵器の数々、

 破壊の自動人形<デストロイヤー>の現代芸術的な造型と、その武器の放出の仕方、立ち居振る舞い、

 また、語られずに示され、後に分かるアスガルドでの超常現象、

 本来はダレ場であるはずの人間世界でのエピソードが、神話世界とのあまりにもの落差でホッと一安心で楽しめること・・・、など。

 ソーが人間世界で親しくなる娘はナタリー・ポートマンなのだが、『ブラックスワン』を見た後なので、その普通の女性振りに、またもホッとさせられる。

 でも、私は、ヒロインの友人役の「メガネをかけたいい女(カット・デニングス)」が好みだ^^

 父王オーディン(アンソニー・ホプキンス!^^)が雷(いかずち)とともに現われるシーンなどは、伝説のオーディンをなぞっていて嬉しい構図だ。

 アンソニー・ホプキンスの普通の役柄も、私をホッとさせた。

 さて、この作品だが、妙な格調高さがある。

 それは、ソーに屈折した思いを抱く第二王子のロキの存在だ。

 口八丁で、自分の立場を向上させようと暗躍するのだが、何かことを為すたびに、その詰めの甘さがあらわになる。

 それは、悪に徹することのできないロキの「情」であり、そこに短絡的でない人間の行動原理が見られるのだ。

 と、エンドクレジットを見たら、その理由が分かった。

 監督が、シェイクスピア俳優のケネス・ブラナーじゃないか。

 20年以上前、渋谷の<Bunkamura>で『ヘンリー五世』を見て後、しばらく、ケネス・ブラナーが気になっていた時期があったんだよね^^

 ケネス・ブラナーは、ロキの情緒と行動に、シェイクスピア劇のような起伏を付加させたんだね。

 つまり、ある意味、宮廷ホームドラマ^^

 惜しむらくは、浅野忠信も一員となっている「四銃士」の、格闘における、それぞれの個性があまり感じられなかったのが寂しいかな。

                                                        (2011/07/02)