お彼岸・・特に秋の彼岸には思い入れがある
次女が生まれたのは30年前の7月24日、実家の母が足が悪く来れなかったので産後は義母のお世話になった。
入院中に義父が来阪し我が家の3人目の孫の出産を喜んで見舞ってくれた。
夫は父親を日生球場で観戦したり天神祭りに連れて行ったり、あちこちに案内した、一番暑い大阪の夏に。
腰が少し曲がっていた義母だが、床上げの終わる3週間までいてくれてこまめに食事の世話をしてくれた。
幸い次女は飲んでは寝て、「手のかからん、きさんじな子や」と褒めてくれてほっとしたのを覚えている。
母乳にいいとお昼には団子汁を必ず作ってくれていた。 時々懐かしくて作るときがあるが有難く義母を思う。
暑さに負けたのか、義父は不調を訴え先に田舎へ帰った。 義母が帰って間無しに入院したと言う知らせ。
一ヶ月あまりの入院のあと、帰らぬ人となった。
今思えば、まるで自分で死期を悟っていたかのように、最後の力を振り絞って暑いとき暑い大阪へ来てくれた。
市内の義姉のところに寝泊り、我が娘にも息子にも会い最後の別れをしにきたのかも知れないと思っている。
何度か”太陽新聞”のタイトルで家庭新聞を作り子供のことや面白い出来事などを書いて病院へ送った。
最後に送った新聞と手紙が届いた日、目を通す事も無く永遠の旅に立たれた。
ちょうど次女が生後2ヶ月を迎えた翌日、彼岸の9月25日だった。
核家族の私には、結婚して6年ほどしか義父には嫁として接することが出来なかったけれど、
義母と過ごせた3週間、義父が最後に来てくれたときの夏のことは、一生の尊い大切な思い出となっている。
義父の2年前に他界した実家の父のこと併せ、秋、春の彼岸にはお墓参りのつもりでお供えを送る。
もう30年になる。 義父へのお供えなので、この時ばかりは義母が必ず電話に出てお礼を言われる。
とっても秋らしいお菓子を見つけてあったので、それに岸和田のだんじり祭りの写真と還暦を迎えた
夫の誕生日の時の、一番いい笑顔の写真に便りを添えて荷物を作った。
長いことその準備にかかっていたので、夫が何度か「お~い」と呼んだが「荷物してるから」と
みんな断った、偉そうに。 いや、別に自分でも出来ることばかりなのだけれど。
彼岸花の咲く頃、義父を偲ぶ。 時々、ちくりと耳の痛いことも言われたが、学びが多く好きだった義父を。