日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 夢にまで・・ *

2011年01月26日 | 雑感

夢を見た。 (わーー!!)
私は次々と現れて来る食器の中に囲まれていた~~!

ここのところ、(何しよ・・これかな・・いや、あっちが・・) 次女と覗いては迷っていたから。



昔は結婚式等の引き出物やお祝いのお返しは、品物でした。 若い時はそれでも良かったのですが、
人生ここまで来るともう物は溢れています。
今や、カタログギフトの時代。 味気ない気もしましたが、今はこれに限ります。

好みも年齢や人によって違うし、送る方も悩まなくていいし、受け取る方も選択肢がある方がいいのです。
品物は重なったりしますが、自分がこれ欲しいなぁ今あったらいいなぁと思うものは即使用するので嬉しい。
今やカタログは何でもあり、旅行、ブランド品、グルメ、癒し、家具など年々多様化されています。

全てショップ任せと言うのには、味気なさもありますが・・年末結婚した姪っ子から届いたのは、お菓子とカタログ
それに2人の写真を添えて姪っ子の手紙、旦那さんの手紙が入れてありました。 
(味気ないかとも思いましたが・・カタログにの言葉も添えてあり・・) 充分心がこもっています。

妹から送られてきた婿さんの還暦の内祝い、「私はしなかったよ」と言うのに「いやもらったのをちゃんと覚えている」と、
何度も言葉が行き交いましたが、どちらの記憶違いなのか・・還暦ともなると・・それすら分かりません。

そんなこんなで今年に入って(って一ヶ月も経っていないのに)4冊分のカタログギフトから選んでいた訳です。 
高額なのは、一泊旅行もいいけれど・・家具にしました、私の部屋様に。 (夫のものは何ひとつありません!)
2冊は続いたので、忘れないうちに・・と娘とあれこれと選んでいたのです、そりゃぁ夢にも出てきます。
なんと葉書を出さずに、ネットで注文が出来ました、早くていいですよと言う訳。
結局器にしました。 新しいものを入れれば、消去するものもある飽和状態の食器棚ではありますが。

賞品を受け取ったら、送ってくれた人に「こんな品物にしたんですよ」と、写真入りでお礼の葉書を出すのも
カタログギフトの簡素化にも心が通い、双方の仲をいっそう暖かいものにして、いいのではないでしょうか。
使う方も、(これは誰誰の結婚式の時のやわ)とか使いながら思い出したりします。


* 月命日 *

2011年01月25日 | 雑感

 

義父の月命日です。 今日は忘れずに朝一、好物のコーヒーをお供えしました。  甘党の義父、お砂糖ありです。
木彫りの熊は、義父が最後になった北海道旅行のお土産、形見になりました。 今年は義父の33回忌です。

なつめが3歳まではサイドボードが義父の居場所で、写真、お花、お水やお線香、頂きものはお供えしていたし、
炊きたてご飯は、なつめが供える役目でした。 いい習慣がつくと喜んでいましたのに・・。
かんたの精です、おいて置くなんて写真もお花もお水も何もかも置いておくなんてとんでもなくてもうそれは大変です。
たちまち手の届かない場所へ大移動しました。 高い場所なので、なつめ自らがお供えすることが殆どなくなりました。
なつめは炊きたてのご飯をお供えに行きつつ食べてしまったりすることもあり、愉快な可愛い思い出がありましたのに。

尊敬する細木数子さんのお墓に関した著書の中に、お仏壇は人気(ひとけ)の無い場所でなく、いつも家族が団らんする、
賑やかな居間等へ置くのが望ましい。 いつもみんなを見守り喜んでくれているのです。
昼間はお仏壇は閉めない方がいいとか、そんな事を書かれた本を読んだ事があります。 その通りだと思い心にとめています。
核家族なのでお仏壇はありませんが、大切にしたい事がらなので写真を置いて手を合わせるようにしています。

私たちの日々の姿を見ていてくれる、本当は生きていてひ孫も抱いて欲しかったのですが(8人を抱いた実家の母のように)
笑いかけている義父の写真、きっと私たちを静かにあるいは喜んで毎日見てくれている事でしょう。
(時には、おいみくよ・・もうちょっとなんとか痩せられんか?)と言っているかも。

5年くらい前、夫と2人暮らしで少し働いていた時でした。 朝、必ずシャワーした私は、バスタオルを巻いたまま父の遺影の前で、
(ちょっとだけよ~)なんて、特に25日の月命日には大サービス、写真の前で着替えたものですが、今はもちろん同居だし無し!
(若かったなぁ・・私も)ははは・・と、今は懐かしく思い出し笑いをしています。


* もういない・・ *

2011年01月24日 | 雑感

夏の暑い夕方だったと思います。 2年前くらい。
夫と自転車で出かけようとしていたとき、近所の公園のそばで出会いました。
「よろしいなぁ、けんつくさんとこは。 子供さんがみんな近くに住んでいて、お孫さんもいていつも賑やかで・・」

以前は良く夫の友人が何人も来られては、飲んでわいわいする時がありました。
親しい友人の仕事の流れでその方ともお付き合いさせていただくようになり、15年くらいでしょうか。
腰の低い、やさしいお人柄を感じさせる、とてもいい方でした。
子供たちが結婚するときには、必ず大安の日の朝(まだ夫が会社に行く前)きちんと背広を着てお祝いを持って来て下さり、
奥さまと帰省したり旅行に行かれた時など、必ずお土産を持ってきてくれました。 
お正月やお盆にはご自分の孫のように、孫たちに心付けを頂いたり本当に良くして頂きました。
とっても律儀で真面目すぎるくらいな方ですが、それはそれは心底いい方でした。 

いつか夫がひろとを八幡屋公園で遊んでやっているとき、出てきてくれて一緒に遊んで下さったことがあります。
その方がパソコンを習うようになって、夫や私のブログを「楽しみにいつも拝見してますよ」と言っていましたが、
孫たちの成長も喜んで見て下さっているので、まるで自分ごとのように声をかけて可愛がってくれました。
「下手な小説読むより、奥さんのブログの方がよっぽど面白いわ」そんな事を言ってくれた人です。
お世辞でも・・あのときのあの方の言葉と笑い顔は忘れることはありません。 
我が家のファンだとも言って下さいました。

本当ならお葬式の、最後のお別れのとき・・
「Sさん! まだまだ読んで下さいよ、お父さんや私のブログ! 読んで下さいよ」そう言いたかったんです。
身内の方だけなので、言えませんでした。 
「本当に・・本当にありがとうございました。 ゆっくり休んで下さい・・」 泣きながら、そうつぶやくだけでした。
心臓が悪かったので、ここ1年位は寝られない・・しんどい・・疲れると、良く言っておられました。
「私も聞いているのですが、寝られないのでしたらNHKのラジオ深夜便聞かれたら? あれはいいですよ」と言ったら
「そんなん聞いたら、よけいに寝られへんようになりますわ」珍しく「そうでんなぁ」とは言われませんでした。
電話でしたが、よほど辛かったのでしょう。 

「お父さん、電話して様子聞いてみないと」 今年に入り夫に言っていたのですが、気い使いの友人夫も気を使い、
「電話に出るのもしんどいかも知れんし、しんどそうな声を聞くのもそれも辛い」気になっているのに、躊躇していた夫。
遠慮していたことが、今では悔いとなっているはずです。

思い出しては目頭が厚くなります。 一人になられた奥さまのことも合わせて。
こんなに親しい人が、あんなにいい人が・・もういない・・。 このような別れは初めてのことです。


* お葬式 *

2011年01月23日 | 雑感



「お父さんを送ることになるか、先に私が送られるか、どっちか分からへんけど・・流す曲お父さん何がいい?」
「ハう・・・ん、ハード・タイムズ,(カム・アゲイン・ノー・モア)かなぁ、いやシェナンドウ・・・いややっぱりハード・タイムズやなぁ」
「稲葉さんの歌入り?」 「いや・・メロディーだけで」 「私は・・、アニー・ローリーかな」 
とっさに浮かんだのですが、どちらも2人にとって大変思い深い一生忘れられない曲なのです。

葬儀場に入ると耳慣れた曲が・・ボリュームを下げて流れていたのは、阪神タイガースの応援歌でした。
正面に掲げられた夫の親しい友人の遺影の写真の顔が、爽やかに微笑んでいました。
見た途端に涙が頬を伝います。
家族葬とは聞いていましたが、20名足らずの親族の方々と後は仲人をしてもらったと言う夫の親しい友人、
その友人との流れの中で、15年前くらいに知り合った私たちの3人です。

端の喪主席に着座された奥さまは深くうなだれたまま・・終始、一寸の動きもないままの姿でおられました。
ご焼香の時も、遺影に目をやることもなく手早にすまされ、また深々と頭をうなだれて座っておられました。
憔悴しきったような奥さまでしたが最後のお別れの時は「お父さん、何か言うてよ・・何か言うてよ・・」
号泣しながらその言葉を繰り返しておられました。 
静かな館内に奥さまの嗚咽が響きわたり、ご親族の方は更なる悲しみを増しておりました。
泣き崩れた奥さまは立っておれない状態になり、身内の方が身体を支えておられます。  
私たち3人も泣きながら、人数の少ない分、言われるままに何度も棺に花をたむけさせて頂きました。 
タイガースのシャツをかけられた友人、寝顔のような安らかな顔をして・・。
奥さまに重なり、声をかけられる身内の方が泣きながら、「なんであんたがおらへんようになるのよ」本当にそうです。
私たちもその言葉につきるのです。
出棺の時は、ボリュームをあげてタイガースの応援歌が流れていました。
その友人ご夫婦が京セラドームで観戦した日、私たちも同じドーム内で観戦していた事がありました、負け試合でしたが。

同じ妻の立場として、そして・・あんなにもいい人がこの世からいなくなるなんて、悲しく辛く涙がとめどもなく溢れます。
子供さんがおられなかったのですが、とても仲の良いご夫婦でした。 

最近は家族葬が多いです、出棺の時見送ったのは私たちだけでこんなに少ないのは初めてですが、
奥さまが崩れられた葬儀も初めてでした。
一般の参列の方が多ければ、きっと気丈にふるまわれたかも知れません。
夫に知らせた以外は恐らく電話もしておられないのでしょう。 もしかしたら律儀なご主人の遺言だったかも知れませんが。
身内だけの葬儀で最後の別れには奥さまのように思い切り泣き崩れてもいいかも知れない・・そう感じました。
私だったらどうするだろうと思います。 

「私の場合はほんまに身内だけでいいよ。 でもお父さんは友達いっぱいいるから賑やかに見送って欲しいしね、盛大になるね」
「今はまだ現役やし、そりゃぁ多いわな」 
「もうこの年になったらそんなこと決めておいてもいいかもね、突然なこともあるかも知れへんし」縁起でもないのですが。
「そうやな」 年の瀬にご主人さまが旅立たれたご近所の方がそうでしたから。
「私も写りのいい、お気に入りの写真があったら、置いとこ、曲はやっぱりアニー・ローリーやね」

夕方温泉一休に夫と行く道すがら、そんな会話をしていました。  ほんと縁起でもないのですが。
でも・・(こんな事は、まだずっとずっと先でありますように・・いつまでも夫婦でいさせて下さい・・)
心の中でそう祈っていました。


* 誕生日のお祝い *

2011年01月22日 | 雑感

部屋の前の葉をすっかり落としたプラタナスの木には、沢山の雀が群がっていました。

” 我と来て 遊べや 親のない 雀 ” そんな一茶の句を思い出してしまいます。

「やかましいけんど賑やかにピーチクしゃべるのを聞いているのも、時には楽しいもんやで」
そうかも知れません。 だってそれはそれは楽しそうに・・おかしくって笑えるくらい賑やかなのです。

神戸の夫人の誕生日のお祝いをするために、半ドンの夫が帰宅するなり出発。
昨日より2度高い気温、風のない分日差しがとても暖かく感じられる土曜です。

震災後16年、埋立地に復興住宅だけが建っていたこの辺りも今やイオンや学校、美術館、日赤、大型飯販店など、
驚くほどの速さで様変わりしました。 震災後通いつつその変化を眺めながら、人間の力のすごささえ感じております。
本当に街は何事もなかったように、見事に復興しています。

しかし・・問題はこれからです、一人暮らしの高齢者の方々が住まいする復興住宅はやがてその契約期間を終ると言うのです。
市営住宅は高い家賃の公団になるようですが、多くの人たちは何処へどのように住居を移すのでしょうか。 

夫人は17日の2日前の午後、住宅で会った女性記者さんを家へ呼んで暖かい飲み物を入れてあげて、
長い間震災のことなど色々と話をしたそうです、まるで寒いところから帰って来た我が子にそうするように。

「なんで初めての私に、家に呼んでこんなにお話ししてくれたのですか?」
「だって私、今日まだ誰とも一言も言葉交わしてないんやもん」

夫人からこの話を聞いた時、普段6人で暮らす私には気付かなかったことに衝撃でした。
(もっと電話してあげなあかんわ、葉書も出してあげよう・・)

「17日寄せていただいてもいいですか?」 「いいけんど、もう思うこと今日全部話したよ」
いつも「頭が悪うて・・が口癖の夫人ですが、話は好きでそれにしっかりしているのです。
記者さんの心に響いたのは「震災を今は辛かったとか、みじめとか何にも思っていないけれど、これからの住まいの事が
一番の不安なのです」 そんな夫人の話が、記者になって3年だと言う彼女の心をついたのでしょうか。

17日大きなカメラを持ったカメラマンさん、音声さん、彼女の3人が訪ねてきて、しばらく部屋で時間を過ごしたそうです。
夕方6時頃出るかも知れないですと言われ、夫人は6時までTVを見ていたけど出てないわとチャンネルを変えたそうです。
なんと6時過ぎに出たようで、知っている住宅の方や病院の看護師さんやあちこちからTVに出ていて驚いたと言われたそうです。
本人は見ていないのに。 TVさんは夫人の何を訴えとして放映したのでしょうか、私はそれが気になります。
17日当日電話しようかと思いながら、震災のことは思い出したくないだろうからと翌日にしたのです。
その時はそんな話しなかったのです。  

ベランダの窓を開けると一気に、雀の賑やかなおしゃべりが耳につきます。 それはそれはやかまし過ぎるくらい。
しかしそれさえも夫人には、” 我と来て 遊べや・・”そんな一茶のやさしい思いに重なっているのでしょう。
私にも、雀たちが何やら楽しい会話を交わしているように聞こえます。 

母には高校を出て以来このようにして、誕生日を祝ってあげたことはありません。
兄夫婦や、その子供たちがこのようなことには心をいっぱいかけて、してくれています。 

神戸の母・・夫人が会社にいるときから、夫がおかんおかんと慕っていたことのお陰で今の私があります。
家庭を持たなかった夫人の娘にしては、足りない私ですがそのまねごとでもさせて頂ける事を有難いと思います。

しかし・・そんなやさしい夫はいつも会話から逃げて、近くの温泉へ行くのですよね、ずるい。 
気になっていたのよと言うエアコンのフィルターや掃除をしてあげたらそれだけで大喜びな神戸の母。
夜用にとすき焼きもいっぱい炊いたのですが、肝心な昨夜作った筑前煮忘れて来た馬鹿な私。

持って来た時にはまだ緑色だったチューリップが、部屋の暖かさにピンクの顔色を覗かせています。
「また来てや」
通夜に行くのでなければ、もっとゆっくりいたかったのですが。  
気持ちの切り替えをするのが辛い夜でした。  夫人の5日早い85歳の誕生日を祝った土曜は。