旅をした。
丹後で海を眺めて鳥取に入り出雲へ。
丹後では離れ旅館に泊まり静かな食事で夜を過ごした。
いまの時期に訪れるものなどいない。と、思っていたが、大阪、神戸の客が数組宿泊していた。
関西の旦那衆が蟹を食べにやって来る。
客あしらいは丁寧で控えめだけれど気が利いた接し方。年配の女性ならではの配慮にリラックスできた。
早朝目覚めて、朝食まで時間があった。
海を眺めに行った。もともと海水浴場らしく人のいない海は秋の気配。
人ごみに埋もれた生活に慣れきってしまった僕は少し落ち着きがなくなってしまう。
それにしてもこの静けさの中で暮らす人々のことを思うと贅沢を感じる。
何もすることがない日々を送ることに恐れを感じてばかりいた。
それはあまりにも自分本位の感覚で、自分を中心に物事が進まないと気が済まないことに通じていたようだ。
別にいいではないか。中心になんかなりたくもない。頼られたくもないし、寄りかかられたくもない。
この海の一つの風景として、僕は存在しているだけなんだ。
そして、時が過ぎれば消えていくだけだ。
歴史に名を残したい・・・だとか、存在を周りの人間に認識してもらいたい・・・だとか。
もう、そんな気分にはなれそうにもないんだ。
ここに居る。ここにある。
この瞬間だけ、連続性はないのだ。
でも、欲を言えば、それを確認できる人がすぐ傍に居てくれればうれしいと思う。
昼前にこの町を離れた。
鳥取砂丘を目指してひたすら車を走らせ3時頃到着。
何も感想はない。ただの観光地なのだ・・・・
実は2回目。この前、ここを訪れたときは、場所が違った。多分、砂丘の外れだったんだろう。
普通の砂浜で人がいない。
そして、宍道湖にたどり着く。
この湖は想像をはるかに超えた大きさに驚いた。
さらにそれから1時間。 出雲大社に近づけば近づくほどに気持ちが落ち着く。
ちょうど夕暮れ時だったせいもありで、その尊大さに度肝を抜かれた。
実際にはもっと高いところに神殿はあったようだが、それにしても大きい。
伊勢神宮と比較してはならないようだけれど、出雲の雰囲気に圧倒されてしまった。
ホントに神はいるんだ・・・しかも、いっぱいいるんだと感じられた。
10月には年に1度の集会がある。
地元民は表に出てはならない。日本の奇祭。
目が潰れてもいいから・・・・みてみたい。
そして、夕刻、夕暮れ時、この湖に沈む夕日は見られなかったけれど、
ミレーの絵画に登場する農夫のように橋を歩く人を見た。