熊本が・・・・いや、九州が揺れている。
もう、余震なのか本震なのか解らなくなっている。
毎日、震度3だ5だとか、スマフォの告知が頻繁に鳴動する。
怯えて眠れない。
先日、博多の友達にそれとなく連絡を入れたら
そんなことを言いだした。
そして、冗談まじりに
「ガンで死ぬ前に地震で死んでしまいそうだ。不本意だ」
自覚して死ぬのと無自覚で死ぬのは大きく違うようだ。
もう、そんなコトを考える歳なんだ。
過ぎ去りし日々を語るよりも身の回りをキレイにし、別れ際のことを考えておかなければならない。
それは、モノであったりするけれど・・・・やはり隣人に対しての言葉だったりする。
「ありがとう」「ごめんなさい」
そんな言葉をたくさん口にするようにしよう。
そんなことはどうでもいいんだ。
内田樹。「もういちど村上春樹にご用心」の評論本を読んだ。
内田樹の考え方が好きだ。
率直であるからだ。自分で書いたことに対して逃げない姿勢。
反論に対して真正面で受取り、返す。
議論に勝つためのレトリックなど持ち合わせない。
潔さ
があるからなんだ。
その彼が絶賛する村上春樹の小説とはいかなるものなのか・・・?
実は、村上春樹の小説はそんなに多くは読んでいない。
ただ、こんなに世界的に読まれている小説家はどこを探してもいない。
で、何が魅力なのかを知りたかった。
僕が読んだ彼の小説て゛感じたことがいったいどうなのか?
正解か不正解か・・・・それを知りたいわけではない。
小説に正解も不正解はないから・・・・
読んでいる最中になぜかホッツとする瞬間が訪れる、いや、そんな感覚にならない時もあり
それがまちまちなのだ。同一の小説の中でそれが起こったりする。
で、なんだかんだとこいつは下手な小説家なのだ!と思う瞬間がある。
そんな単純な謎を解き明かせればいい。
しかし、そんな勝手な願望など、何の意味もないことが分かっただけだった。
村上春樹の有名なスピーチ。
「壁と卵」
どんな状況ても僕は卵の立場に立っていたい。
そんな視点で小説を書いていたい。
そんな意味なんだろう。
つまるところ人間はそんなに強くもないし、だらしないし、いい加減だし・・・・
それでも愛すべき生き物なのだと。
人間の業の肯定。
談志ではないか?
と、ふぅ~と思ってしまう。
しかし、小説も落語も一緒なのか?
物語であればいっしょだろう。
どちらも強くてかっこいい主人公なんかではない。
ごく普通の考え方をしている。
ただ、村上春樹の主人公は若者で日々を坦々とルーティンとしての暮らしを楽しんでいる。
しかし、どうやって生きていくのかは定まってはいない。
その点が若い人々の共感を呼ぶのだろう。
「この小説には僕のことが書かれてある」
熱烈な村上ファンは口を揃えてそう言うのだ。
さすがに年寄はそうは言わない。そう感じていてもだ。
若かった頃、思い返したて、あの頃の僕と同じだ・・・きっとそうなんだろうな。
しかし、過去の自分の歩いてきたみちなどはほとんど勘違いで
頭の中は勝手にカッコよく創作されていてよい思いでを作り上げてしまっているものなのだ。
過去に囚われていればまともになんか生きていけないからだ。
そう、村上春樹の小説は今の自分に目隠しをさせると同時にかこの歩んだ道のりを
カッコよくしてくれる手助けをしてくれるんだ。
全ての人間は全て前向きになり前のめりに生きている訳ではないし、
今の自分を肯定してくれる誰かが必要なのだ。
しかし、いつまでもとどまってばかりはいられないんだ。
先へ進まなければならない。どんなことがあったとしても。
しかし、下手をすれば一生とどまってしまうかもしれない。
彼の小説はそんな一面ももっている。
願わくば、談志のように、叱り飛ばしてほしいものだ。
「僕はナニをすればいいのでしょう?師匠・・・」
と、聞く弟子に、
「ばか!オレを喜ばせることを考えろ。そして実践しろ!」
前を見て歩くものには考える暇など与えられない。
行動だけが明日を作ってくれるのだ。