漂流6日目を迎えていた。沖縄から乗った疎開船・対馬丸が米軍の攻撃で沈み、9歳の平良啓子さんはいかだの上にいた。10人ほどいた大人たちも、次々と力尽きていく。渇きと絶望。80年前のきょうである▼船は、学童や一般人1700人超を乗せて長崎へ向かっていた。生き残ったのは300人ほど。平良さんは7日目に、ようやく島へ漂着して命をとりとめた▼沖縄戦を前に、軍や政府が疎開を促したのはなぜか。本土の防波堤たる島に民間人がいたら思い切ったいくさができぬ、というのが理由の一つだった。それでは、当時の「疎開」と、いま台湾有事を念頭に計画されている「避難」はどう違うのか▼そんな声が今月初め、石垣島での住民避難の説明会であったと地元紙が報じていた。発言したのは79歳の女性。有事になれば宮古・石垣などの12万人はみな、九州・山口に移らされる。つまりは強制疎開ではないか、と女性の目には映るのだろう▼家を捨て、畑を捨て、墓を捨てる。ふるさとは戦場となり、戻れても元の風景はないかもしれない。かつて味わったような想定をまた突きつけられ、頭を抱える人がいる。そのことに心が痛む▼避難計画が無用だと言いたいのではない。だが政治家にまず求めたいのは、何としても戦争は起こさぬという決意である。肝心なところが最近揺らいではいないか。平良さんは88歳で亡くなるまで、疎開の記憶を語り続けた。避難の記憶を新たに語る。そんな未来を作ってはならない。朝日新聞朝刊2024-8-27