しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

台湾沖航空戦⑤レイテ沖海戦、特攻へ

2022年01月22日 | 昭和16年~19年

日本が、マリアナ沖海戦で敗れサイパン島を失ったところで、太平洋戦争の勝敗は、ほぼ決していた。
本来、冷静な立場にたてば、ここで和平を乞うという道もあった。
それでも、あきらめきれずに、なんとか一回大勝利をおさめ、有利な条件で講和に持ち込みたいと願いつつ決戦を呼号していたのである。
それが、なまじ
台湾沖航空戦で大勝利をおさめたと発表してしまったために、日本は戦争に負けているのではなくて、勝っていることになってしまった。

以後、大本営発表による幻の戦果の連呼のもとで、日本は絶望的な戦いをつづけることになり、
沖縄や本土空襲や原爆投下やソ連参戦など、数々の悲劇を生むことになる。



(海軍鹿屋基地)




もうひとつ、特攻作戦に与えた影響を指摘しておきたい。
大本営発表は、もはや歯止めがきかなくなった。
レイテ沖海戦以降、頻繁に行われるようになった航空機による特攻も、
そのつど大戦果が報じられた。
しかし、特攻の事態はと言えば撃沈した空母は商船改造の数隻にすぎなかった。
にもかかわらず大本営はアメリカ軍空母部隊を殲滅するほどの大戦果があがっていることを自ら信じ込むようになっていく。
そして、その結果、さらに大規模な特攻を企画するようになり、特攻が常態化し、
ついには一億総特攻、つまり国民すべてが特攻という掛け声が生まれるのである。
もし特攻が、
その犠牲の大きさに比して、さほど大きな戦果をあげてはいないと冷静に分析することができていれば、事態はちがったものになっていたにちがいない。

特攻という常軌を逸した戦い方が、後の日本人に対する世界の人々の目を、どれだけ偏見に満ちたものにしたか。
それを考えると、特攻を肥大化させ助長していく一因となった幻の大戦果創出のメカニズムがもたらしたものの大きさに、あらためて愕然とせざるをえない。






「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行





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台湾沖航空戦④大勝利後の国民大会

2022年01月21日 | 昭和16年~19年

昭和19年10月20日、東京の日比谷公会堂で国民大会が開かれ、
壇上、小磯国昭首相は次のような演説を行なった。


「諸君。
我々国民、待望の的であった決戦の幕は切って落とされました。
敵の空母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦40数隻を撃沈、殲滅せられたのであります。
古来、戦史にその類例を見ざる、限りない輝かしさであると言わねばなりません」
その話しぶりや表情、しぐさを見るかぎり小磯首相は戦果を信じきっていたと判断せざるをえない。





一国の首相が知らされないとすれば、太平洋戦争中の大日本帝国は
外見は軍部独裁でありながら、その内容は自分の属する組織の利害のみにとらわれて、
ばらばらに行動し、なんの連携も統率もないまま、迷走をつづける奇妙な機械のような国家にすぎなかったのではないかと思わざるをえない。

小磯首相が演説した翌日の10月21日、
海津美治郎参謀総長と及川古志郎軍令部総長は、宮中に召され、天皇から御嘉尚の勅語を賜った。
海軍が戦果の誤りを、ともに戦う陸軍はおろか、首相にも天皇にも知らせなかったとすれば、
ましてや国民に真相が伝えられることはなかった。








真相を国民に知らせかったのは、知らせた場合、パニックがおきることを恐れてのことだったのか、
事態の責任を追及されるのが怖かったのか。
しかし事態はますます悪くなったのである。
国民は疑心暗鬼におちいり、政府や軍部のいうことを信用せず、面従腹背の行動をとるようになる。
そして日本は、いよいよ崩壊への道をたどることになる。

10月22日、レイテ決戦に反対していた山下大将はレイテに兵力を派遣せよという命令を申し渡された。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行



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台湾沖航空戦③搭乗員が見たもの

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
搭乗員が見たもの

陸攻機長だったTさん(83才)
電探(レーダー)の能力が悪いんですよ。目で見た方が早いの。
「我、燃料なし、自爆する」というような無線がはいりますし、
結局攻撃はできずに沖縄に帰っていたんです。

・・・
どうやって、敵艦隊を見つけることができたのか。
それは、なんと、敵艦が打ち出す対空砲火によってだった。

・・・

陸攻、副操縦士だったOさん(76才)
主砲みたいなのを撃つわけですよ。
青白い光がパーッと出るんですよ。
機銃がザザザザっとこう撃ってきますから、ああ、いるってわかるんです。

空母を攻撃せよというのが至上命令だったです、もしくは戦艦と。
空母は17隻というから、一つや二つはやれるかと思ったけれども、それが全然見えない。
ただ出てくるのはグラマンばかりでしたね。
今思えば、ちょっと考えられない無謀な作戦でしたね。
向こうはレーダーでこちらを捕まえるんですから。
われわれは「行ってこい」と言われれば、必ず行かねばならないですからね。







本来ならば、避けなければならない対空砲火を逆に目印にして、その中に突っ込んでいくことしか敵艦を攻撃できなかった。
しかも米軍の高射砲にはVT信管が装着されている。
一式陸攻は、わずかな被弾でも、すぐに燃料に火がついて「一式ライター」とあだ名されていた。
そういう一式陸攻の群れが、猛烈な弾幕の中に突入したのである。
日本軍機は次々に撃墜された。



鹿屋基地飛行要務士(参謀の秘書役)Aさん(79才)

「われ雷撃す」というような無電が一本入ったきり。
報告する前にやられちゃったの。
無電を打つ前に落とされちゃたのが多いんじゃないですか。


一式陸攻の副操縦士Hさん(当時19才)

鹿屋を出発したのは12時半か1時ごろ、戦場到着が4時半か5時ごろか。
--対空砲火は、かなり激しかったですか。
かなりなんていうもんじゃなかったですね。
想像していたより、もっとひどかったです。
夜間ですから、曳光弾というのが、それが火の玉みたいに尾を引いてずっとつながって飛んでくるわけですよ。
花火の五連発、七連発、あれを何十本も何百本もパーっとやるのと同じような感じです。
その中を機首を上げ下げして、くぐったり飛び越えたりしていくわけです。
考えたら、当たらなかったのが不思議という感じです。
--戦果の確認は。
見ていないですね。仮に命中したとしても、われわれの落とした魚雷であるとかいうことは全然わかりません。


--沈んだかどうか
とても確認できませんよ。
もうそれよりも逃げるが勝ちですからね。
--轟沈
5分以内に沈むのを轟沈だといいます。
まずないと思いますよ。
魚雷一本で沈むほどやわくは(敵艦も日本軍も)ないですから。





参加した搭乗員の大部分は初陣である。
異常な心理状態である。
赤い尾を引く曳光弾や、1分間に10万発と俗にいう、
猛烈な対空砲火の弾幕のなかをくぐりぬけて生還してきたばかりの彼らにとって、あたかも地獄の底から戻ってきたばかりのような心理状態であったろう。
自分たちが見た火柱や水柱の正体がなんであったのか、冷静に判断ができない人がいたとしても不思議ではない。


戦果報告の過程

I機長の報告
空母(推定)を雷撃命中、その他火柱二を確認せり

・・・

その報告書に、新たに二隻の戦果が書き加えられている。
艦型不明の轟沈を認む
艦種不明の轟沈を認む

・・・

高雄の司令部で艦種不詳は空母の算大なりに変化した。

航空参謀と搭乗員のやりとり

参謀「ほかには何か見なかったか」
搭乗員「遠くでオイルタンカーか、空母が燃えていたかもしれません」
参謀「空母だろう」
搭乗員「そうかもしれません」
参謀「空母が撃沈されていたのだな」
搭乗員「そうかもしれません」
こうした一種の誘導尋問がおこなわれていた。

あまりに未帰還機が多く、直協機や隊長たちが帰ってこなかった。
初陣の若い搭乗員とのやりとりをもとにせざるをえなくなった。

夜間の攻撃で目標を誤認しやすい状況下におかれた搭乗員が、
味方機が墜落して発した火柱や対空砲火の火焔などを敵艦の火災や魚雷の命中と見誤り、
それを一種の誘導尋問によって、実際にあげた戦果であると誤断するという経緯のもとに生み出された。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行


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台湾沖航空戦②台湾沖航空戦の大勝利

2022年01月20日 | 昭和16年~19年



昭和19年10月19日、大本営は台湾沖で、敵の過半の兵力を壊滅したと発表した。

日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で歴史的大勝利をとげたが、
その再現ともいうべき快挙だった。

戦果
撃沈・・・空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。
撃破・・・空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。


我が方損害
未帰還機312機

戦争は勝ったも同然との気分が広まり、
新たに作られた『台湾沖の凱歌』(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)という歌がラジオから流された。

昭和天皇は大戦果をあげた部隊に対しお褒めの言葉を賜った。
「朕が陸海軍部隊は緊密なる共同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」






その当時ハルゼー大将率いる母艦は、改造軽空母を含めても17隻だった。
これはいったいどういうことだろう。
数え間違いか、勘違いか、あるいは重複して数えたとか。
数え間違いがあった、どころではない。

そもそも、大戦果はまったくの幻だったのである。
現実には、撃沈した敵艦は1隻もなかった。

日本軍は航空部隊の過半を失ってしまった。
しかも、この幻の大戦果を、現実のものと信じた日本陸軍は、既定の方針を変更して、アメリカ軍に対して無理な決戦を挑み、悲惨な敗北を喫することになる。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行



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台湾沖航空戦①「絶対国防圏」とサイパン陥落

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
昭和19年10月の台湾沖航空戦の”大勝利”の前後をまとめた。



絶対国防圏

1943年9月、日本軍は「絶対国防圏」を設定、
戦場を縮小するかわりに、これより内には米軍を一歩も入れないとの決意を示した。
マリアナを失えば日本列島の大部分はB-29の航空圏内に入り、戦争継続は不可能となることが分かっていたからである。
東部ニューギニア、ソロモン、マーシャル方面には多数の陸海軍部隊が残っていたが、事実上見捨てられた。


サイパン陥落

1944年6月、米軍は空母15隻を基幹とする機動部隊の援護のもとマリアナ諸島サイパンに上陸。
迎え撃つ日本機動部隊(空母9隻)とマリアナ沖海戦が起こった。
米軍は高射砲弾にVT信管を使用、日本機動部隊は事実上壊滅した。
孤立無援となったサイパンは陸海軍2万人、民間人1万人の犠牲と共に陥落した。
つづいてテニアン、グアム両島も「玉砕」陥落した。
東条内閣はサイパン失陥の責を負って総辞職した。

これより先の1944年春、日本軍は二つの大作戦を開始した。
3月インパール攻略作戦を開始した。

参加兵力10万人中、死者3万人、戦傷病者数4万5千を出して総退却という惨憺たる敗北に終わった。
4月大陸打通作戦を開始した。
約41万もの日本軍が約2.000キロの距離を南下、
いちおう作戦は完了したものの、補給の軽視・貧弱な衛生施設のため多数の戦傷病者・餓死者を出した。
しかも作戦中にマリアナ諸島が失陥し、B-29が日本本土に発進していたから無意味な作戦であった。

日本軍の補給軽視は前戦線に共通のものであった。
日中戦争、太平洋戦争における広い意味での「餓死」者数は、全戦死者数230万人中の実に過半数、140万人にのぼったとの推計がある。


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行




(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 NHK出版)


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「愛ちゃんはお嫁に」

2022年01月19日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
城見小学校の校長先生や教頭先生が、「子供は流行歌を歌ぉちゃあいけん」と生徒によく話していた。
いや訓示していた。

しかし城見小の生徒が流行歌を歌うのを止めることは微塵もなかった。
村の子供たちに一言説教するようなおじさん・おじいさんもいたが、流行歌については、奨めることはなかったが、それを止めということもなかった。
それもあり先生に言われても、子供は学校以外ではおおっぴらに流行歌を歌っていた。

告げ口をする訳ではないが、歌が嫌いな子が流行歌を歌う子に「歌ぉたらいけんが」と言ったときに決まったように返す言葉があった。
それが「こりゃあ流行歌じゃあねぇ」。


その代表が”愛ちゃんはお嫁に”
〽愛ちゃんはお嫁に・・・、と歌うところを〽〇〇ちゃんはお嫁に・・・と変えて歌う。「愛ちゃんはお嫁に」





〽お~~い、船方さんよ~、と歌うところを〽〇〇さんよ~と歌う。「船方さんよ」
(〇〇は村にいる実名の人)





〽お富さん~、と歌うところを〽おトラさん(漫画の主人公)と歌う。「お富さん」






流行歌を歌うことに家族からも、やめるように言われたことはまったくない。
しかし今思えば、「芸者ワルツ」のように大人専用の歌でなかったから許容範囲だったのかな、とも思う。



・・・・・

「童謡の百年」  井手口彰典  筑摩書房  2018年発行
童謡をうたわない子供たち

1952年『婦人公論』12月号では、美空ひばり、江利チエミ、伊達みどり、草葉ひかる、白鳥みずえなどの名前を列挙し、
少女歌手は子供の自然な世界から無理やりひきはなされて大人の世界に放り込まれている矛盾と不幸を見て取っています。
また童謡歌手・古賀さと子は純粋さがあると持ち上げています。

ともあれ、一部の大人たちからどれだけ顰蹙を買おうとも、
美空ひばりの成功によって童謡という頸木から解き放たれた子供たちの歌は次第に社会のなかへと広まっていきました。

その結果、
「童謡は子供が歌うもの」あるいは「子供は童謡を歌うもの」という従来の常識は弱まっていき、
何が童謡なのかをめぐる社会認識にもぐらつきが生じるようになります。



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「歌と戦争」

2022年01月18日 | 昭和16年~19年
「歌と戦争」  櫻本富雄  アテネ書房 2005年発行

音楽の戦争貢献

日本にレコード会社が創設されたのは1909年の日米蓄音器商会といわれている。
コロンビアレコードの前身である。

1934年(昭和9)には次のような会社が設立されていた。
日本ビクター、日本ポリドール、キングレコード、テイチクレコード、タイヘイレコード。
レコード文化や歌謡の隆盛の烽火に油を注いだのは映画の出現であった。
いわゆる映画主題歌の出現である。
松竹映画『愛染かつら』の「旅の夜風」
東宝の『熱砂の誓い』の「馬」
松竹の『蘇州の夜』の「蘇州の夜」
東宝の『燃ゆる大空』の「燃ゆる大空」
東宝の『決戦の大空へ』の「若鷲の歌」・・・
などの主題歌を続出させた。




音楽は、戦争推進に多大の貢献をしたのである。
ところが、それらの音楽を生産した「死の音楽商売人」の責任はほとんど問題に
されていない。
「音楽挺身隊長」の山田耕筰は文化勲章を授与され、
おびただしい軍歌や戦時歌謡を作曲した古関裕而は「日本の行進曲王」などと称されている。


米英音楽の追放

1940年(昭和15)は、国中が「紀元2600年」で大騒ぎした年だが、
この年、内務省は俳優などの芸名から風紀上面白からぬもの、不敬にあたるもの、外国かぶれのものなどの追放を指示した。
俳優・藤原釜足は藤原鎌足を冒涜する名前とされ、ディック・ミネは三根耕一となった。
学校の授業から「英語」が追放される。




堀内敬三は『音楽の友』1942年新年号で、
「ここに米・英の音楽を閉め出すべきことを提唱する」とのべ
「音楽家にとっても戦いである。皇軍と共に我等はたたかわねばならぬ」と、
内務省と情報局が本格的に「敵性語」「敵性音楽」を始める前に、音楽家の方から政府の排外主義を先取りした。
「米英のジャズ音楽、米英の匂いをぷんぷんさせて、それで米英に勝とうというのか。
日本人として出直すことが先決問題だ」
レコードは音盤と呼び変えられ、
ポリドールは「大東亜」、コロンビアが「ニッチク」、キングが「富士」、
ビクターが「日本音響」に改名した。
「アロアオエ」「星条旗よ永遠なれ」「スワニー河」などを廃棄した。








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「童謡」と「唱歌」

2022年01月18日 | 江戸~明治
「童謡の百年」  井手口彰典  筑摩書房  2018年発行

童謡と唱歌

童謡と唱歌は同じものだろうか?
違うとすれば、どう違うのか?
どちらにしても、それがどうした

今の日常生活には何の関係もないことだ・・・といったところが自分を含む大多数のように思う。








2018年は「童謡誕生百年」だと言われている。
大正7年鈴木三重吉が児童向け雑誌「赤い鳥」を創刊し、そこを舞台に多くの童謡が生み出されました。
鈴木は、わざわざ「童謡」という言葉に、新しい意味を込める実践を始めた。
その背景には、子供たちに提供されていた歌、すなわち唱歌に対する鈴木の強い反発意識がありました。
 

明治政府と唱歌

明治5年近代的な学校制度である「学制」を発布します。
この学制の中に「唱歌」があり、今の「音楽」に近いものでしょう。
この科目に子供たちにうたわせる歌曲の総称としても「唱歌」の語は使われるようになりました。
明治17年までに『小学唱歌』三編を発表します。
これら3冊のなかには、今でもうたわれる「仰げば尊し」「アニーローリー」「蝶々」「庭の千草」「蛍の光」など含まれています。
多くが外国の旋律を借用したものです。

明治44年から大正3年にかけて文部省が刊行した『尋常小学唱歌』(全6冊)は、歌詞も旋律もすべて日本人によって作られた唱歌集でした。
政府の主導によって作られた唱歌集の他に、
民間で作られたものもありした。
たとえば「故郷の空」を含む『明治唱歌』、「お正月」を含む『幼稚園唱歌』、
「箱根八里」や「荒城の月」を含む『中学唱歌』などが編纂されました。

そこには重要な特徴があり「ヨナ抜き長音階」を使ったものが多い、
当時の文部省は日本の音楽と西洋の音楽を「折衷」するものとして利用しました。

第二の特徴として日本の成員たるにふさわしい国民を育てるための格好のツールとして導入された。


「わが日の本」や「皇御国(すめらみくに)」などストレートな部類や、

ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ
なのはにあいたら 桜にとまれ
さくらの花の さかゆる御代に
とまれよあそべ あそべよとまれ

この歌詞からは、御代、つまり天皇の治世のもとでこそ、
蝶たち(=国民)も楽しく遊べている、そんなメッセージを読み取ることができそうです。


童謡は先行する唱歌との「対決のなかから生み出された」ものであり、
『赤い鳥』に多くの童謡を提供した北原白秋も、しばしば激しい口調で非難しました。

興味深いのは、当の唱歌関係者もある程度認め受け入れている、という点です。
今日では「故郷」「紅葉」などの作詞者として知られている高野辰之は1929年、
「凡そ学校の教科書ほど自由を拘束されるものはない。
唱歌にしても、文字文体よりはじめて、終身歴史地理理科等の他のあらゆる学科と阻隔させてはならぬのである。
自由と解放と希ふ詩人が、どうしてこれに満足しよう」

童謡は、従来の教訓的で子供の心に沿わない唱歌を批判的に乗り越えようとするなかから生まれてきた音楽でしたが、
唱歌と童謡を繋いだり、また双方の創作に携わった者もいた。
たとえば、童謡「夕日」で知られる葛原しげるは唱歌集にも関わってきます。
童謡「春よこい」「靴が鳴る」の弘田竜太郎は、唱歌「鯉のぼり」の作曲者の可能性が指摘されています。
さらに音楽面においても決定的に異なっていたわけでありませんでした。

鈴木三重吉は1919年東京丸の内の帝国劇場で「赤い鳥音楽祭」というイベントを開催し、プログラムに童謡を加えた。
「かなりや」や「あわて床屋」などを歌った。
1920年「かなりや」を含む数曲をリリースした。
そこで歌唱を担当したのは少女唱歌会で、大人の歌手ではなかった。

1925年(大正14)年JOAKのラジオ放送が始まった。
初期から子供の声によって歌われた。

昭和になりレコード会社が増え、ラジオが普及した。
童謡は市井に響き、一部の限られた人から、一般大衆が日常的に聴いて楽しむものへと変質していきました。
唱歌と童謡の境界がぼやけ、区別されないようになっていった。


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ひいひい祖母さんの機織り

2022年01月17日 | 江戸~明治

ひいひい祖母さんは弘化3年(1844)に生まれ、昭和18年(1943)に死んだ。
今風ならば岡山県知事か厚労大臣からの長寿表彰や全国紙の新聞記事になるくらいの長寿だったが、戦時中のことでもあり、塵のように去っていったようだ。



ひいひい祖母さん=母の話ではいつもの時間に起きてこないので見に行くと亡くなっていたそうだ。
ボケもなく、病気もない、完全なる(?)老衰死。)


父の話では、家に長く機織り機があり、ひい祖母さんや、ひいひい祖母さんが使っていたそうだ。

・・・

(母の話)
機織り
賀山(実家のこと)にゃあ、もう棄ててないかもしれんが
ええ機織があった。ぎったんぎったん踏んで反物ができる。
それで縞の着物ができょうた。
糸は買ようた。
着物から織ったそれで学校に着ていきょうた。
談・2004.9.5



・・・・


機織り
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

ハタオリ(機織り)

女の仕事で、家族の着物から、布団、蚊帳、手拭にいたるまで全部織り出した。各戸に機があって、冬の農閑期には賑やかな機の音が聞こえていた。
女は明けても暮れても、糸引きと機織りで、機が織れねば嫁にもらい手が無いとまでいわれた。
明治中期ごろから腰かけて織る高機(たかばた)になった。



・・・・

糸つむぎ・ハタ織り (神島村史)


衣類は自給自足で、ほとんど女性が手がけた。
明治時代までは女は綿を畑で作り、それをつむいで家中の者の着る物、フトン、カヤ、前掛、手拭、穀類を入れる袋まで自分で織ったのである。
家の者に四季着せたものを傷んだら解いて洗い直し、繕いをしてよれ替えて縫い直し、着れなくなるまで着た。
少しでも無駄な布は無く、古くなって使えなくなったらぞうきんや、草履あみに組み入れた。
野良仕事、寒気の機織り、夏期の真田編み、縫い物、育児洗濯、台所仕事、養蚕と、女は働き通しであった。


・・・・


「女子衆が織った木綿で家族みんなの着物をこしらえるのが、
戦前まで当たり前の時代でした。
木綿は、
まず着物で着て、
次に野良着、
その後赤ちゃんのおむつ、雑巾になって
最後は壁に塗り込んで終わり、
と最後まで使いきる。」

「井原の歴史 第3号」  


・・・・

「金光町史」

機織り

明治期までは家庭で機織りをしていた。
農閑期の冬は、外の仕事が出来ない時期で機織りをした。
着物から布団、蚊帳、手ぬぐいまで、
衣類はすべて手織りであった。
明治以前の地機(じばた)から、腰掛て織る髙機(たかはた)になる。
さらにそれにシャクリという装置を取り付けると、
上から下がった紐を引っ張るだけで、緯糸(よこいと・ぬきいと)を入れた杼(ひ、さいともいう)が左右に自動的に動いていくシャクリ機になった。
高機では2~3日で一反、シャクリ機では1日一反織ったという。
機織りの上手な娘は良縁が得られるといった。



・・・


「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 2002年発行

機織りと裁縫

農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。
明治末期の村では、一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のように機を織り、針仕事をして家族成員すべての衣料品を用意することが期待されていたし、
婦人たちもそれを当然の作業としてみずからに課していたのである。
かつての農村では老若男女をとわずハダカに近い恰好をしていたようである。
機織りの音と裁縫する主婦のすがたは明治の文明開化によってもたらされた「ゆたかな社会」の象徴であったのかもしれない。
みずから機織りをしたり、あるいは綿布を購入して着物を縫ったりするようになったのはせいぜいここ百年ほどのあたらしい現象だったのだ。

「味噌や醤油、豆腐や漬物などの一切を自給し、家族全員の外出着や仕事着を夜なべに織る。
蚕の屑繭から袖や羽二重の背広布地を織り、綿を紡いでは縞の着物やモンペを作る。
母は愚痴一つこぼさずやってのけた。
その織物は7人兄弟の上から下に着継がれても破れないほどの厚地であった」


針仕事は、かつての日本の婦人にとっての最低必要な技能のひとつでもあったのだ。
裁縫の腕は娘たちの競争の領域であり、また結婚にあたっての資格でもあった。
嫁入り道具のなかには、かならず「針箱」があったし、「絎台(くけだい)」もすべての家庭の常備品だった。
技能さえしっかりしていれば、女性にとっての数少ない「内職」のひとつでもあった。
主婦の仕事のなかに、つくろいというのがあった。
穴のあいた靴下にツギをあてたり、ほつれをなおす作業があった。

 

・・・

 

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快速サンライナー

2022年01月17日 | 無くなったもの
場所・JR山陽本線(福山駅~岡山駅間かな?) 
無くなった日・2022年3月12日・ダイヤ改正
撮影日・2008年4月6日(撮影場所・笠岡市笠岡)

10年ほど前までは、笠岡駅発着の電車は1/2程度が快速だった。
年々減っていって、最近は乗ろうとした電車が快速だと「おっ今日はサンライナーか」という感じだった。
今回の改定で全廃するそうだが、既に減っているので何も思いはない。



それよりも、
金光駅発着が数本新設されるそうだ。
生まれてこの方、金光駅が終始発駅、とは経験もないし、想像したこともない。

笠岡から岡山や倉敷に行くときは、
「上り」だけでなく「行先」も確認しなければならない。
難儀なことだ。
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