おにいちゃんだったか、おねいちゃんだったか、小学校の入学式で校長先生が
「ご飯を食べるときはいっしょうけんめいご飯を食べましょう。友だちと遊ぶときはいっしょうけんめい遊びましょう。」と祝辞で述べられたことが、おかあさんには印象に残っています。
多分このあと、勉強するときはいっしょうけんめい勉強しましょう、と続いていたのかもしれない。
今、自分が何をしているのかを気づくということが大切。意識する、としない、とでは、せっかくの人間に生まれたかいが無い。
最近読んだ、大井玄『老人という海を行く』(この本もなかなか良かった)の中に、テイク・ナット・ハンという禅僧の本のことが書かれていて、気になって図書館で借りてみた。
mindfulness ブッダの<気づき>の瞑想
気づきの対象には4つの領域、それを入念に観察していくことで、私たちは守られ、喜びが育ち、心の痛みは変化して、真実を見抜く力が得られる、と。
4種とは「身体」「感覚」「心」「心の対象」
息を吸っているとき、息を吸っていることに気づき、息を吐くとき、息を吐いていることに気づく。長く吸っているときは長く吸っていると知り意、長く吐いているときは長く吐いている、と知る。
息を吸い、体を静める 息を吐き、微笑む 今ここに心をとめて すばらしいひとときを味わう
歩くときには歩いているtと気づき、立つときは立っていると気づき、座るときは座っていると気づく。その身体の姿勢に気づく。
不快を感じたときはその感覚を急いで打ち消そうとせずに、意識的な呼吸に戻って観察をする。「息を吸う、不快感が心に生まれたのがわかる。息を吐く、不快感が心にあることがわかる。」
快感であれ、中性の感覚であれ、その感覚自体に意識を向け観察してみる。感覚こそ自分自身であり、感じているとき自分は感覚そのものであることがわかる。
心に怒りがあるとき、自分の心には怒りがあると気づき、怒りが無いとき、心に怒りが無いと気づく。怒りが生じはじめたとき、それに気づき、すでに生じた怒りを放棄したとき、それに気づく。すでに放棄した怒りがそこから後にも生じないとき、それに気づく。
おもいやり。人の苦しみに接すると、、、、、、理解しようとしてよく見ること。呼吸を集中し、気づきを働かせて相手を観察するならば、その苦しみに触れることができ、思いやりのエネルギーが心のなかから湧いてくる。
自分をいじめないこと。無理強いを続けていると、心からの安らぎと喜びが失われるだけでなく、気づきと集中が奪われる。瞑想は大きな苦痛の耐えられる勇者になるためだけではなく、解放、安らぎ、喜びのために行うのです。
こんな大事なことを、あの校長先生はおっしゃっていたわけです。