人は人から何かをしてもらうことばかりを期待していて、それが実現できないと大変な行動を起こすことがあるそうです。
秋葉原で事件を起こした青年は彼女がいないことを延々と書き込んでいたそうで、その原因が「人に何かしてもらう」ことだったと作家の五木寛之さんは分析しています。(人間の覚悟)
そして、次のように人間関係を述べています。
『しかし、人間関係というのは、相手につくすことしか考えてはいけないと思う・・・女の子と恋愛すれば、男はひたすらつくす。しかしそれで相手から何か得られるとは最初から期待しないことです。それぐらいは常識として覚悟し、もし相手から少しでも「ありがとう」という言葉が返ってきたりしたら喜べばいいし、もし恋愛としてつきあえるなんてことになったら欣喜雀躍すればいいのです。』
小生などは、若いときの経験では、とてもこのような心境にはなれませんでしたね。恋愛は「ただひたすら相手に奉仕して、何も求めない」というのは、ただひたすら相手のことを思ってはいても、何も求めない無償の奉仕というのは無理な話ではないでしょうか。なぜ、人は恋愛するのかいまだに分かりませんが、「相手もこっちを向いてほしい」という強い思いが残っています。
また、失恋の寂しさや空しさ、悔しさなどは言葉に表せないものがあります。
でも、五木さんは、そもそも男の女性に対する姿勢を次のように述べています。
『男性の仕事は女性の対しての奉仕につきる、と私は思っています。彼は肉親だから何かをしてくれるはずだとか、どれだけ周りが自分のことをよく思ってくれるかばかりを気にするのではなく、自分自身はどれほど家族や周りの人のために無償の行為をしているのか、そこを日々反省しながら生きるしかないでしょう。』と。
まぁ、男は女性のため何でもいいから「黙って奉仕しなさい」ということでしょうか?それが世のため人のため、そして、自分のためでもあるのかもしれません。
若いうちは、なかなかそういう心境になれませんでしたが・・・
でも、男と女の関係だけではなく、生き方として「なんでもいいから世のため人のためにつくす」という考え方は理解できます。が、いまのところ、「つくす」対象は、自分の性格から考えて、かみさん以外にはないようです。
さて、小生は、勤めていたころからそういう友人、肉親などの人間関係が大事だと思っていましたが、人との付き合いをどういう距離で生きていけばよいのか迷っていました。
この点は、「本当の親友がいないから、そういう悩みが出るのではないか!」という疑念となって、いつも心に引っかかっていたのです。
五木さんは、この点を次のように述べています。
『この人とはほんとうに一生付き合っていきたい、と思ってもなかなかそうはいかないものです。』
『人間の縁というものも、あまり密着すると非常に難しいことになるのです。』
『・・・親しくなって期待するのはいいのですが、どうしても甘えが出てしまいます。・・・』
『どんな大事な友達がいたとしても、いつかはなくなります。永遠の友人というのは、思い出の中にしかいません。』
『五十くらいで出家した鴨長明は『方丈記』の中で、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」と言いました。私も、流れは絶えずして・・・人との付き合い、友情はただ長ければいいというものではありません。世間は「人脈」という言葉が好きなようで・・・。しかし私は、人脈を人とのつながりと置きかえれば、しょせんは自分で作ろうと思って作れるものではなく、見えない力によってもたされるとしか思えないのです。』
『固定しないというのが、人の付き合いの中で大事だと思います。ですから私は、本当にこの人間とは親しくなりたい、あるいはなりそうだと予感した時は、あまり近づかないことにしているのです。』
延々と引用してきましたが、これらの五木さんの言葉は、友人や肉親に対する距離をどう考えるかのヒントになったのではないでしょうか?
意識的に距離を置くという考えかたが良いのか疑問もありますが、親友同士の喧嘩別れや夫婦の生死などを考えると、このように接することが人の一生には必要なようです。
それは、五木さんの次の言葉に集約されているようです。
『これからの時代、自分でできる覚悟の一つとして言えば、できることは一つ一つ自分でやる、ということではないでしょうか』
小生の独り言・・・「何でもいいから世のため人のために行動し、そして、一人で生きていく」という覚悟が必要な時代が来たということでしょうか。俺にはできそうにないな!