ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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映画『ゴジラ-1.0』

2023-11-19 22:21:17 | 映画


『ゴジラ -0.1』、観てきました。

これは、なかなかすごかったと思います。

あんまりヨイショするようなことは書きたくないんですが……しかし、シリーズ屈指の傑作といってもよい作品ではないかと思います。
私の中ではゴジラシリーズでは第一作が別格の最高傑作というのは揺るがないというのがあるんですが、『-0.1』は、その第一作の存在に正面から向き合い、それに恥じない作品となったのではないでしょうか。


「第一作に向き合う」というのがどういうことか、少し詳しく書きましょう。


以前どこかで書いたと思いますが、第一作『ゴジラ』が別格の存在という感覚は東宝の制作陣にもあったようで、以後シリーズ作品が多数作られていくなかで、第一作に触れるのはタブーのようになっていたといわれます。
そんななかにあって、果敢に第一作と向き合った作品が、たとえば『ゴジラVSデストロイア』でした。これは東宝の枠組みの中でゴジラの終わりを描いた物語でしたが、禁忌に触れるのはむしろ外部の監督のほうがやりやすいということはあるでしょう。そこで、大胆な挑戦をしたのが庵野監督の『シン・ゴジラ』。『シン・ゴジラ』では、『ゴジラの逆襲』以降のゴジラシリーズではじめて、ゴジラの存在を前提としない作品でした。すなわち、ゴジラというものが認知されていない世界に、「謎の巨大生物」としてゴジラが登場するわけです。
そして、今回の『ゴジラ -0.1』です。
この作品も、ゴジラの存在を前提としていません。そもそも時代設定がゴジラ第一作よりも昔に設定されており、「続編」ではなく「リメイク」に位置づけられる作品となっています。
これは、相当に勇気のいることです。
なにしろ70年の歴史を持つ、日本を代表するばかりでなく、世界でもっとも有名といってもいい怪獣映画。大向こうでは、ゴジラシリーズをすみずみまで知り尽くした観客たちが鋭い目をむけています。そこに新たなゴジラを提示する……一歩間違えれば大炎上となりかねない、そのリスクは決して低くないなかでの登板なのです。たいへんな覚悟のいることでしょう。

この作品の大きなポイントとして挙げたいのは、ゴジラを完全に「恐怖」の存在として描いたこと。

本作におけるゴジラの熱戦はシンゴジラと同レベル、あるいはそれ以上の威力を持っており、キノコ雲のような爆炎をたちのぼらせ、しかもそのあとには「黒い雨」が降ってきます。ここには、あきらかに原爆のイメージがあります。核の恐怖という、ゴジラ本来の姿……庵野ゴジラでは設定変更がこの点にまで及んでいましたが、『-0.1』では、そこは踏襲しています。核、そして戦争の恐怖としてのゴジラをここまで徹底して描いたのは、実に第一作以来のことではないでしょうか。


もう一つのポイントは、人間ドラマとのかかわり。人間側のドラマが、丁寧に描かれているという部分です。
ゴジラシリーズ映画では、しばしば人間側のドラマは添え物であり、見る側もまあ、そこには多くを求めていないという部分がありました。
しかし、『ゴジラ -0.1』では、人間のドラマのほうも、きっちりそれ自体で一つのドラマとして成立するように描かれています。そして、そのドラマがゴジラとの戦いという部分と有機的に結びついているのです。

そのドラマの出発点といえるのが、「特攻」。

このあたりのことについて詳しく書くとネタバレになってしまうので詳細には触れませんが、このテーマの取り上げ方についても好感をもてました。
じゃあ第一作のあれはどうなんだ、という意見も出てくるかもしれませんが……芹沢博士は別に「特攻」したわけではないということは、申しあげておきたいと思います。


最後に、劇場で買ってきたグッズを。

一つは、アクリルスタンドです。


キーホルダーでもありますが、チェーンをはずしてアクリルスタンドにもできます。

そして、シャープペンシル。
尾部にゴジラのフィギュアがついています。



非常に小さいものですが、結構作りこまれています。


もう70周年を迎えるゴジラシリーズですが、『シン・ゴジラ』、そして今回の『ゴジラ -0.1』と、力の入った重量級の新作が続いたことで、まだまだゴジラは終わっていないな、と感じさせられます。新時代のゴジラに、今後も期待大です。






『ゴジラ2000 ミレニアム』

2023-09-22 23:06:35 | 映画

今回は、ひさびさに映画記事です。

このカテゴリーでは、ゴジラシリーズ作品を紹介するというのをずっとやっていて、前回は『ゴジラFINAL WARS』をとりあげました。
FINAL WARSは、いわゆるミレニアムシリーズの最終作。順番は前後することになりますが、そのミレニアムシリーズの第一作である『ゴジラ2000 ミレニアム』が今回のテーマです。

『ゴジラ2000 ミレニアム』 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第23作目

ちなみにこの作品は、先日の東京ブギウギの記事ともちょっと関係してきます。

服部良一さんの服部家が音楽家一族で、そのなかに服部隆之さんがいるわけですが……この隆之さんは、ゴジラシリーズでも音楽を手がけています。
一つは、第二シリーズの『ゴジラVSスペースゴジラ』。
当初はゴジラ音楽の大家である伊福部昭にオファーしたものの、脚本を読んだ伊福部さんがこれを断ったため、別の作曲家に依頼しなければならないということで服部隆之さんに話がいきました。これはいわばピンチヒッターということだったわけですが、その数年後、ふたたび隆之さんにゴジラ音楽のオファーがきます。それが、『ゴジラ2000』だったのです。


個人的な話になりますが、これは私がリアルタイムで観た最後のゴジラでもあります。
なぜこれが最後なのかというと……これを観て、以降のゴジラ作品を観る気がしなくなったからということです。
それぐらい、その当時の私にとっては評価が低かったのです。

しかしながら、いま観返すと意外と悪くないと思います。

観ていると、ちょっとエヴァを意識したようなところがあるのは、時代でしょうか。
この頃は、エンタメのあらゆるジャンルにエヴァンゲリオンが大きなインパクトを与えていて、ネコも杓子もちょっとエヴァっぽい演出を取り入れてました。そして、ゴジラ2000における「エヴァっぽい演出」は、その種の演出の多くがそうであったように、いささか中途半端で、上滑りしているようにも感じられるのです。

しかし、こうした演出は、新時代の新たなゴジラ像を作り出すという制作側の意欲を感じさせるものでもあります。
大河原孝夫監督は、「造型も、シナリオも出来るだけ見つめ直して、今まで見たことの無い絵を盛り込んでやろうと、新しさを最大の武器にしようという思いでしたね」と語っています。
「今まで見たことの無い」という点に関しては、たしかに監督の意図は達成されているといえるでしょう。

造型という点に関しては、実際かなり変わっています。
参考として、ミレニアムゴジラのソフビの画像を載せておきましょう。



もっとも目立つ変化は、背びれでしょう。見ようによっては、これもちょっとエヴァっぽく見えるのではないでしょうか。



そして、外見だけでなく、ゴジラのキャラクターというか、位置づけにも変化がみられます。

ミレニアムシリーズのゴジラは、よく“台風のような”と表現される存在となっています。
つまりは自然災害のようなものであり、本作の主人公は、トルネードを観測するような役回りになっているのです。

ただし、核の恐怖というゴジラが背負っているイメージは、一定程度踏襲されています。
本作では、根室に出現したゴジラがむかう先が、茨城県の東海村。
くしくも、1999年は、東海村の臨界事故が起きた年です。タイミング的にいって、あの事故が映画に反映されているかどうかはわかりませんが……「ゴジラは人間の作り出すエネルギーを憎んでいるのか」というせりふがあったりして、核の脅威というモチーフは継承されているのです。

その東海村で、ゴジラは謎の岩塊と遭遇し、交戦。

実は『ゴジラ2000』はVSものであり、この岩塊が、今作でゴジラの対戦相手となる宇宙生物です。
はるか昔に地球に飛来し、眠りについていた宇宙生物は、ゴジラの生命力を利用して肉体を得ようとするのです。
そうしてできあがった怪獣が、「オルガ」です。
おそらく、ゴジラシリーズに登場する全怪獣のなかでもっともマニアックなものの一つでしょう。
はっきりいって、噛ませ犬以外の何物でもありません。
新宿における最終決戦では、ゴジラのエネルギーを吸収してゴジラ化しようとするものの、その過程で死滅。いかにゴジラが強大な存在であるかということをしらしめるためだけの存在なのです。

ちなみにこのオルガという怪獣は、1998年版ハリウッドゴジラをモデルにしているといわれます。
98年版のゴジラは日本ゴジラのミレニアムシリーズにおいてちょくちょくネタにされている、と以前書きましたが、オルガもその一つです。ゴジラのエネルギーを吸収しようとしてゴジラになろうとしたけれど、そのエネルギーに耐え切れずに死滅……という展開は、このことを念頭に置いてみると意味深でもあります。そもそも、98年のGODZILLAがファンの間でも不評だったことから新たな日本ゴジラシリーズがはじまったという経緯があったりもするわけです。

そして、ここからのエンディングが本作の斬新なところとなっています。
これまでのゴジラシリーズであれば、ゴジラが敵怪獣に勝つということは、たいていの場合ゴジラが人類の側についているということを意味しているのですが、ゴジラ2000ではそうではありません。
ミレニアムゴジラはあくまでも人類にとって脅威であり、敵の宇宙怪獣を倒してもそのまま海に帰っていったりはしないのです。
オルガを倒したゴジラは、そのまま東京で暴れまわり、その姿を描きながら映画は終了します。
ゴジラが封印もされず、海に帰っていきもしない。なんの解決も与えられず、ゴジラが破壊のかぎりを尽くす状態で終了――これは、ゴジラシリーズ全作品のなかでも唯一のエンディングです。
人間との妥協の余地は一切ない、そういう新しいゴジラ像を打ち出しているのです。
エヴァの90年代を通過した、ミレニアムのゴジラがこれだということでしょう。
後になって俯瞰してみると、そういう意図が浮かび上がってきて、その着想自体は決して悪くはなかったんじゃないかという感想もあります。ただ、それまでのゴジラの歴史というところから考えると、あまりそのあたりに共感してもらえなかったようで……はじめに書いたように、私もまた、リアルタイマーとしては本作を決して高く評価してはいなかったわけですが、世間的にも評判はいまひとつで、興行的には厳しい結果となりました。そして、このときのファーストインプレッションをその後の第三シリーズ作品も引きずっていったように見えるのは、ゴジラ作品にとって不幸なことだったかもしれません。



『宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎』

2023-09-17 22:49:29 | 映画


先日、キャプテンハーロックのブルーレイボックスを手に入れたという記事を書きました。
そこでも書いたように、このボックスにはテレビ版42話と別に、劇場公開作品も収録されています。

せっかくなので、今回はその劇場版『アルカディア号の謎』についても紹介しておきましょう。
今回のブルーレイセットにはハーロックの設定などに関する資料がついているわけですが、そこに書かれている内容も参考にしつつ、書いていきます。



『アルカディア号の謎』は、劇場版とはいうものの、999の劇場版などとはちがって「東映まんがまつり」という企画で上映された作品です。
その予告動画のようなものがYoutubeにありました。ここで、レンタル視聴もできるようです。

宇宙海賊キャプテンハーロック アルカディア号の謎

東映まんがまつりは、いくつかのアニメ作品や特撮作品などをまとめて上映する企画です。ここで上映される作品はテレビ放映されたものの再編集だったりすることも少なくなかったようで……『アルカディア号の謎』もそうでした。テレビシリーズ第13話「死の海の魔城」をもとにしています。

その第13話は、謎の信号を受信して地球に戻ってきたアルカディア号が潜水艦から魚雷攻撃を受ける、というもの。
一体何者が……という話になるんですが、実は、原作のほうだとこのエピソードは謎のままで終わってしまっています。


ここで一応注釈をつけておくと、原作のハーロックは未完の作。松本零士先生が亡くなったことで、完結は望めなくなったわけですが……アニメのほうは漫画連載とほぼ同時にスタートし、基本設定を共有しつつ別の物語として展開していきました。その当時のアニメは、こういう形式が少なくなかったようです。
アニメは敵であるマゾーンと決着をつけるまでが描かれていますが、原作のほうは未完のままになっているため、なんらかの伏線と思われるエピソードが回収されないままになっている場合が散見されます。何者かによる魚雷攻撃というのはその一つで、アニメ版ではこのエピソードに一つの解決を与えていました。
そのエピソードが、タイトルにもなっている「アルカディア号の謎」に、まあ多少つながっているということです。

そこで重要なカギとなっているのが、大山マユという登場人物。
上に載せた予告動画にも出てくる女の子です。

このマユというキャラクターは、漫画版とアニメ版の設定における最大の違いでもあります。

アルカディア号を作った天才エンジニア、大山トチローの娘…この人物を登場させることに関しては、アニメ制作陣と原作者である松本零士先生との間で激しい議論がありました。

アニメ版でストーリーの骨格を作ったのは、脚本家の上原正三です。
これまでに何度か書いてきましたが、上原正三はウルトラマンの誕生にもかかわったレジェンド脚本家。特撮やアニメでも深いテーマを扱うことで定評があり、その例として『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」はよく知られています。ハーロックの最終話ではラストシーンで太宰治『右大臣実朝』の一節が引用されますが、これも上原正三によるもの。この人はこの人で、一本筋の通った人なのです。
女の子のキャラを出すべし、というのは、あるいはもっと上のほうが打ち出した方針かも知れませんが……ウエショーさんは大山マユという人物をアニメ版ハーロックの重要キャラとして創作し、松本零士先生はこれに難色を示しました。
原作のハーロックはもう完全に地球を見捨ててしまってるようなところがあって、いまの地球なんかに守る価値はないけれど、それでも己の信念に従って戦う……という、そういうヒロイズムです。いっぽう、上原正三の構想になるアニメ版ハーロックは、地球のために戦うという部分があります。亡き友の忘れ形見であるマユが地球にいるということが、その大きな動機となっているわけです。これは、ハーロックという人物の根幹にかかわるところで、それゆえに松本先生としても簡単には譲れないということになったようです。

最終的には、上原正三とりんたろう監督が松本零士先生と直談判することで、了承を得ました。

原作のほうにマユが登場することはありませんでしたが、ちらっと言及しているせりふがあります。さらに、マユの父親であるトチローは、その後ハーロックの親友として松本零士作品世界の主要人物となっていきます。
上原正三と松本零士という二個の奇才が衝突し、その摩擦のすえに生み出されたがゆえに、それだけの大きな存在になったということでしょう。
……で、その大山父娘とアルカディア号の関係を主題に据えたのが「アルカディア号の謎」ということになるのです。
そう考えると、なにげにこれは、松本零士作品を考えるうえで重要な作品といえるのかもしれません。



映画『燃えよ剣』

2023-08-12 21:40:00 | 映画


先日、司馬遼太郎は今年生誕100年だという話をしました。

当該記事では書き忘れてましたが、8月3日がちょうど司馬遼太郎の誕生日ということで、生誕100周年ということだったのです。

それはともかく、せっかくの100周年ということなので、司馬遼太郎原作の映画でも……ということで、映画『燃えよ剣』をアマプラで視聴してみました。

過去に映画やテレビドラマで何度か実写化されているようですが、今回観たのは一昨年公開された最新版です。
その予告動画を載せておきましょう。

映画『燃えよ剣』新予告映像(90秒)10月15日(金)公開!

原作は、私が最初に読んだ司馬作品でした。
もう二十年以上も前の話……なつかしいかぎりです。

内容は、新撰組を描く物語。
副長の土方歳三を中心にして、武州多摩の“バラガキ”たちが新選組を結成し、幕末の動乱に散っていく……尺の関係上だいぶいろいろ端折ってはありますが、新撰組最後の戦いとなる箱館戦争までを扱っています。

『城塞』がそうであったように、これもまたやはり“敗北の美学”でしょう。

しかし、やはりここには見るものを強く惹きつける何かがあります。
時流におもねることなく、筋を通す美学ということでしょう。

理屈からいえば、ばかげたことをしているわけです。

『城塞』の記事でもちょっと言及しましたが、戦闘を放棄するという徳川慶喜の方針には、慶喜なりの理があります。徹底抗戦で本格的な内戦状態に陥れば、日本は列強の植民地になってしまうおそれもあった。そういう意味では、戦おうと思えば相当程度戦える力があったにもかかわらず、あえてそれを投げ出したのは、慶喜の英断だったと私は思ってます。

しかしそれは、あくまで、政治のレベルでの理。
一介の剣士である土方に、そんな理はありません。
土方としては、ただ、動乱の世にあっても筋を通す。滅びゆく道だとしても、己の信じるもののためにのみ戦う――そう、これはまさに、キャプテン・ハーロックの美学ではないでしょうか。この美学が、やはり私のようなものを惹きつけてやまないのです。ゆえに、あれこれ司馬作品を読んだ後でも『燃えよ剣』は私のなかでベストの一作であり続け、今回映画を観ていても、やはりこの剣の世界にはたまらなく引き込まれました。
見え透いた嘘や責任逃れが横行する世間……人の生き様はこうありたいものです。



映画『ゴジラ FINAL WARS』

2023-06-19 21:54:48 | 映画

ひさびさに、映画記事です。

先日ELPの記事を書き、そこからの派生で、キース・エマソンがフォーサイス原作の映画『戦争の犬たち』で音楽を手がけていたという話がありました。

キース・エマソンという人は、それ以外にも映画音楽をいろいろやっています。
邦画としては『幻魔大戦』なんかが有名ですが、実は彼はゴジラシリーズの作品でも音楽を手がけています。
それが、『ゴジラ FINAL WARS』。
ということで、今回はひさしぶりのゴジラシリーズ映画記事として、このゴジラ史上最大の問題作について書きたいと思います。


『ゴジラ FINAL WARS』 | 予告編 | ゴジラシリーズ 第28作目

『ゴジラ FINAL WARS』は、いわゆるミレニアムシリーズの最終作にあたります。

公開は、2004年。これはゴジラ生誕50周年という節目にあたります。
そのアニバーサリーにふさわしいゴジラの集大成的作品が構想されます。そして同時に、その集大成をもって、ゴジラシリーズは完結するとされていました。

そういう位置づけの作品なので、ファイナルウォーズには相当なエネルギーが注ぎ込まれています。

シリーズ最多の怪獣が登場。
上映時間も最長。
制作にかけた金額も最高……

そして、俳優陣も豪華です。
こんな大物が、あんな意外な人が、というのをあげていくとキリがないぐらいですが、主要キャストを列挙すると、主演に松岡昌宏さんと、菊川怜さん。前作から、小美人役として長澤まさみさんも引き続き登場。ミレニアムシリーズで続いていたトレンディ女優路線を継承します。また、水野真紀さんも登場し、これでもかというまでに美女要素が盛り込まれています。
肉体派としてケイン・コスギさんも登場し、人間側のアクションを補完。そして、このブログ的にはずせない人物として、泉谷しげるさんが結構重要な役で出ています。
さらに、昭和ゴジラ作品で知られる水野久美さんや、宝田明さんが登場。特に、水野さんは「波川」という『怪獣大戦争』出演時の役名で登場するなど、往年のゴジラファンにアピールするようなキャスティングもありました。
ここに音楽がキース・エマソンとくるわけですから、キャストやスタッフは相当に豪勢です。
まさに50周年、そして最後のゴジラ作品という、この作品にかける意気込みが伝わってきます。

しかしながら……結果としては、その意気込みは空回りしてしまったといわざるをえません。
このファイナルウォーズ、興行成績はかなり悪く、観客動員数はミレニアムシリーズの中で最低。ゴジラシリーズ全体で見ても、歴代ワースト三位となっています。海外ではそれなりに高く評価されているようですが、日本ではだいぶ評判が悪い作品となっているのです。


アニバーサリーとか、複数の映画制作会社のコラボとかで総力を結集したような映画が壮大にコケるというのは映画史上よくある話で、近年でいえば『大怪獣のあとしまつ』がその例といえるでしょう。
私が見るところ、こうした例に共通しているのは人選ミスです。
豪華なキャストやスタッフを集めるということで、ネームバリューに注目してしまい、その作品に適しているかどうかが十分に考慮されていないという……

とりわけ、監督選びの失敗がその最たるものです。
おそらく、話題性を出そうという意図もあって、「あの○○が映画初監督」とか、「△△界で名を馳せた□□監督が特撮に初挑戦」みたいなことをやってしまうのです。これが、あとからみれば、なんで大事なアニバーサリー作品の監督をその人にやらせたのか、みたいなことになってしまうわけです。

そして、『ゴジラ FINAL WARS』は、まさにその轍を踏んでしまいました。
すなわち、北村龍平監督の起用です。

この人選に関しては、その前年に同監督の『あずみ』があって、それを見た富山省吾さんがオファーしたといいます。
富山さんとしては、怪獣特撮映画の枠を超えた作品を作りたいという意図だっといいますが……ここが最初のボタンのかけ違いではなかったかと思います。
別に北村龍平さんがどうこうということではありません。ただ、少なくともゴジラ映画の監督としてはミスマッチだったのではないかと。

外部の監督としてゴジラを撮った人は4人いて、北村監督はその一人です。
ほかの3人というのは、大森一樹(『ゴジラVSビオランテ』『ゴジラVSキングギドラ』)、金子修介(『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』)、庵野英明(『シン・ゴジラ』)の諸氏。いずれ劣らぬ個性的な作品となりましたが、北村龍平監督と好対照をなすのは、同じミレニアムシリーズの『大怪獣総攻撃』を撮った金子修介監督でしょう。
この方は、東宝の生え抜きではないにせよ、平成ガメラシリーズで怪獣映画を手がけており、また、子供のころからゴジラが大好きでいつかゴジラ映画を撮りたいと思っていた人です。
それに対して北村龍平監督は、子供のころにゴジラを観てはいたけれど、けっしてゴジラフリークではなかったとインタビューで語っています。金子監督とは結構温度差があるのです。
この温度差が、そのまま対照的な結果につながったと私は見ています。
金子監督の『大怪獣総攻撃』がミレニアムシリーズで最高の成績をあげたのに対して、『ファイナルウォーズ』は、先述したように映画興行としては失敗といわざるをえない結果となりました。

では、どのあたりがかけ違っていたのか。

最大の問題は、ゴジラへの愛が足りなかったということだと私は思っています。
もう少し詳しく言うと、ゴジラの歴史を踏まえていなかったというか……この映画が制作された時点でゴジラシリーズには50年近い歴史があったわけで、北村監督にはその歴史に対する理解が欠如していたように思えてならないのです。

北村監督は、インタビューにおいて『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)が好きだったと語っていますが、これがボタンのかけ違いを象徴していると私には感じられます。
インタビューでのやりとりを聞いていると、どうやら北村監督は、平成ゴジラはリアリズムを志向しすぎていて、かつてのゴジラ映画の原点を忘れてしまって、結果つまらないものになっている……というような認識を持っているように思われます。
しかしこれは、はっきりいってゴジラシリーズの歴史認識としては間違っているといわざるをえないのです。
おそらく、ある程度ゴジラシリーズ作品に触れてきた人なら、誰しもそういうでしょう。
というのも、一般的なゴジラ史観としては、70年代はゴジラシリーズがもっともダメだった時期であり、その反省から平成ゴジラは70年代ゴジラ的な演出を意識して避け、そのことによってゴジラは特撮映画の王者として復活したということになるのです。
70年代ゴジラ的な演出というのは、単純にいえば、過度に子供向けであること……その結果として、ゴジラが正義の味方となり、人間的な動作をしたりすることです。
それがよくなかったということで、平成ゴジラは、ゴジラが“正義の味方”化することを極力避け、人間的な動作にならないように演出し、子供向けにならないように一定のシリアスさをもたせました。

その歴史を踏まえてみれば、「ボタンのかけ違い」という意味がわかるでしょう。

70年代ゴジラがうまくいかなかったから、平成ゴジラは70年代風演出を避けることで成功した……という歴史があるにもかかわらず、北村監督は平成ゴジラ演出を避けて、70年代ゴジラへの回帰を目指してしまったのです。それはうまくいかなくて当然という話です。

これがつまりは、ゴジラへの愛が足りなかった、ということです。

ゴジラシリーズの全作品をみていて、全体を俯瞰する視点を持っていたなら、70年代ゴジラは概してファンの間でも評価が低いということがわかったはずです。もちろん、子どもの頃に70年代ゴジラ作品を観ていて自分はそれが好きだというのはあってかまいませんが……しかし、歴史的にいってそこはゴジラの原点とはとうてい言えないし、そこをゴジラの理想像とする見方に共感する人はごく少数でしょう。
しかしながら北村監督は、70年代への回帰を目指してしまったのです。
言葉は悪いですが、ある種の刷り込みというか、思い込みで70年代ゴジラを理想像としてしまい、ゴジラ史への総合的な理解を欠いていたがゆえに、その思い込みから逃れることができなかったということではないでしょうか。
ともあれ、こうして最初のボタンをかけ違ったために、以降すべてがずれていき、気づいたときにはもう手遅れということになってしまったのではないかと感じられます。

キース・エマソンの起用も、私にいわせればその一つです。
私は最初キース・エマソンが音楽担当と知らずにこの映画を観ていたんですが、音楽に対してはずっと違和感を持っていました。別にキース・エマソンの音楽がだめだというのではなく、やはり、ゴジラには合ってないということです。

そして、この映画でゴジラファンからしばしば問題視されるのは、人間側のアクションが多すぎること。
人間同士の格闘が怪獣の戦いと並行して描かれ、かなりの分量があります。
これもまた、富山省吾さんが北村龍平監督を起用した狙いの一つなわけですが、やはり裏目に出た部分のほうが大きかったと思えます。怪獣映画を期待しているのであって、人間同士の戦いをそんなに見たくはない……というのが、多くのゴジラファンが抱いた感想ではなかったでしょうか。

そして、このずれがさらに次のボタンのかけ違いを誘発します。

人間側のアクションが多い分だけ、怪獣同士のバトルが少なくなってしまうのです。
そうでなくとも、シリーズ最多14体もの怪獣が登場する作品です。一体あたりの見せ場はかぎられます。そこへ人間キャラのバトルが時間をとるぶん、尺が圧迫されてしまい、何体かの怪獣はほんの短時間しか出てこないのです。

この点で私が象徴的と思うのは、富士の裾野における、アンギラス、ラドン、キングシーサーとの戦いです。

ラドンは、ゴジラシリーズにおける最古参怪獣の一体というだけでなく、実は本作に至るまでゴジラと敵だったことはありません。はじめは敵対していたとしても、最終的には必ず同じサイドに立っていました。こんな怪獣はラドンだけなんです。ラドンは、ゴジラにとって無二の戦友なのです。

そしてアンギラス。アンギラスは、ゴジラがはじめて対戦した怪獣。ゴジラシリーズにおいて、ゴジラをのぞけば最古参の怪獣です。ゴジラの弟分というような存在になっていたこともあります。

キングシーサーはどうか。
沖縄の守護神であるキングシーサーが敵でいいのか。ファイナルウォーズではモスラが唯一ゴジラの味方として登場しますが、インファント島の守り神であるモスラが人類の味方なら、沖縄の守り神であるキングシーサーだって人類の味方でいいんじゃないか。そんなことも思います。
そして、キングシーサーには敵の放った光線技を片目で吸収してもう片方の目から打ち返すという能力があるんですが、本作にはそれも出てきません。ラドン、アンギラス、キングシーサーの3体は、まとめて秒殺されてしまうのです。
場所が富士の裾野だということもポイントです。富士の裾野というところは、ゴジラシリーズではたびたび最終決戦の舞台となり、幾多の死闘が繰り広げられてきた地なのです。それがこんな扱いなのかと……このへんもやっぱり「愛が足りない」と感じられるところなのです。

あとは、ヘドラも別の意味で扱いが雑です。
あの、神話的とさえいえる象徴性をもつヘドラが、完全に雑魚扱い。エビラとともに数秒で倒されてしまうとは……

その他の怪獣も、やはりゴジラ映画をずっと観てきた人ならばそれぞれにいろんな思い入れがあるでしょう。この怪獣たちをゴジラが秒でなぎ倒していくことによって、一つ一つの思い入れに対して、ことごとく「こんな扱いはひどすぎる」という印象を与えることになったのではないでしょうか。

こうしてどんどんボタンがかけ違ってずれていくわけですが……その最たるものが、ミニラの登場です。
第一シリーズ、第二シリーズに続き、第三シリーズでも最後の最後になって現れた“ゴジラの息子”……これが、この作品の失敗を決定づけたのではないかと私は見ています。
息子の存在はゴジラに“親”という属性を与え、ゴジラが“正義の味方”化する契機となります。“正義の味方”になることはゴジラというキャラの中に深刻な矛盾を生じさせ、やがて物語を破綻させていく……息子の登場は、ゴジラシリーズにとって躓きの石となるのです。そしてFINAL WARS はその禁断の存在に手をつけてしまった。このことが、あのラストシーンにつながります。この結末に関しては賛否あるでしょうが、私としては、これがゴジラの終わりであってほしくはないと思います。

……と、ここまで低評価の部分ばかりを書き連ねてしまいましたが、まあ、にぎやかな怪獣バトルという点では、決して悪い作品ではありません。
あれこれ書いておいてなんですが、私自身も、一部のゴジラファンがするほどにファイナルウォーズを低く評価してはいません。

今さらですが、一応ストーリーを説明しておきましょう。
まず、X星人という宇宙人が地球にやってきます。彼らは、最初は友好的な態度を見せ、地球人も歓迎していたものの、実はX星人たちの真の狙いは、地球人を家畜化することでした。地球の怪獣たちはN塩基というものを持っていて、これによってX星人に操られるのですが、人類の核実験によって誕生した怪獣であるゴジラはN塩基をもたないために、操られない。そのゴジラの力を借りて、人類がX星人と戦う……という話です。
重要な役割を果たすのが、ガイガンです。
ガイガンは、X星人が地球侵略を開始する先兵のような役割を果たし、南極での封印状態から目覚めたゴジラが最初に戦う相手が、ガイガンとなります。
その2004年版ガイガンの画像を貼っておきましょう。
昨年、兵庫に行った際にゴジラミュージアムで撮影した画像です。



ついでなので、同じくゴジラミュージアムで撮った轟天号。
ファイナルウォーズでは、人類に最後に残された兵器として活躍します。



ゴジラが核実験で誕生した存在であるがゆえに人類の最後の希望のような存在になる、という設定も、見ようによってはゴジラという作品の根幹にあるテーマを浸食してしまっているように感じられますが……この点に関して富山省吾さんは、「ゴジラは核実験で生まれながら、核実験の脅威を人間に教えることで破壊を否定しているキャラクターです」と語っています。したがって、「力には力を」という暴力の連鎖を断ち切ることがファイナルウォーズにおけるゴジラの意味合いだと。それを表現したのが、あのラストシーンということでしょう。作中に「力で相手をおさえようとする者は力によって敗れる」というせりふがあって、富山さんはこれを「いまの地球そのものの問題だ」と感じたそうですが、ここはまさにその通りでしょう。

最後に、この映画に登場する怪獣の一体として「ジラ」に触れておきましょう。

これは、今年のはじめに映画記事で紹介したハリウッド版GODZILLA(1997年)に登場するゴジラをもとにしています。
当該記事で、97年版のアメリカゴジラはミレニアムシリーズでちょくちょくネタにされていると書きましたが、ファイナルウォーズのジラもその一つです。
北村監督は「ハリウッドにケンカを売ってやる」ということをいったそうですが、ジラが日本ゴジラに瞬殺されるというのは、その一つの表れかもしれません。ファイナルウォーズは、日本ではあまり評判がよくありませんが、アメリカなんかでは結構評価されているようで……このへんの認識の違いも、ゴジラという存在をどうとらえているのかという国内外の温度差を表しているんではないでしょうか。