今回は、アニメ記事です。
前に『笑ゥせぇるすまん』について何度か書きましたが……そこからのつながりで、今回は『エスパー魔美』という作品について書きたいと思います。
『エスパー魔美』……
原作は、藤子・F・不二雄先生。つまり、藤子不二雄つながりです。
そしてもう一つ、アニメの『エスパー魔美』と『笑ゥせぇるすまん』には共通点があります。
それはなにかというと……音楽を田中公平さんが手掛けているということですね。
以前も書きましたが、田中公平さんはアニメ音楽の世界における巨匠で、じつにさまざまなアニメに音楽を提供しています。『エスパー魔美』も、その一つなのです。
『エスパー魔美』は、主人公の佐倉魔美が、あるときふと超能力に目覚め、その力でさまざまな事件を解決する……という筋立ての物語です。
おそらく、F先生の代表作の一つといっていいでしょう。
もちろん、作品としては『ドラえもん』ほどのポピュラリティをもってはいません。しかしこの作品には、F先生の集大成のようなところがあると私は個人的に思ってます。
それは一つには、F先生がたびたび扱ってきた“力と正義”というテーマがあることですね。
力を持つものは、その力をどう使うべきなのか、という……。
「ウルトラスーパーデラックスマン」などのいわゆるSF短編では、このテーマはシニカルに描かれることが多く、人間が強大な力をもつと不幸な結果になる、というような話が多いんですが、『エスパー魔美』では、そういうふうにはなっていません。魔美はエスパーとして強大な力を持っていますが、高畑君という、とても中学生とは思えない良識的な人物に支えられ、それを人助けのために使うのです。そこには、F先生がSF短編でみせる醒めた視線とはまるで正反対の、ある種の楽観のようなものがあります。F先生の晩年の作品では、この『エスパー魔美』や『チンプイ』のように女子を主人公とするものがありますが、ひょっとすると、そういう変化も関係があるのかもしれません。
そして、この作品は一話ごとにドラマがあります。
いろいろ悪事をはたらく人も出てきますが、単純に悪人をやっつけて終わりという話にはなりません。
悪人にもなにかそれなりの事情があって、魔美や高畑君の献身的な働きかけによって、それまでの行いを悔い改めます。
『エスパー魔美』は80年代後半に放映されていたアニメですが、このあたりは時代を感じますね。
今のアニメはあまりそういう描き方はしないんじゃないかと思います。私見では、90年代ぐらいから、「悪は悪であり、更生することはなく、排除するしかない」という考え方が優勢になってきたと思うんですが、80年代ぐらいにはそうじゃなかったような気がします。そういう意味では、このブログでよくいう「今の時代にこそみてほしい」的なアニメなんですが……
しかし、このアニメ、いまの時代に放映するにはなかなか厳しいものがあります。
ここも時代の変化を感じるところですが……ローティーンの女の子がフルヌードで出てきたりする場面が結構頻繁にあって、「絵のモデル」という理由が一応あるにせよ、現在の基準に照らすとちょっと問題があるということになるでしょう。
こういう変化はどうなんだろうな、ということも考えさせられます。
80年代ぐらいのアニメにはそういう描写はふつうにあったと思うんですが、今ではちょっと難しいですね。
倫理基準がだんだん厳しくなってさまざまな“配慮”が求められるようになった結果であり、そのこと自体は結構なことかもしれません。
しかしそれが、社会の不寛容や、いわゆる“つるし上げ”と表裏一体になっているようにも思えます。そしてその厳しさは、先述した、悪を悪として切り捨てる考え方と深いところでつながっているんじゃないか。糾弾することばかりに性急で、“あそび”の部分がないというか……『エスパー魔美』というアニメを今見ると、この三十年ほどの間に社会が失ってきたものを感じさせられるような気がするのです。
前に『笑ゥせぇるすまん』について何度か書きましたが……そこからのつながりで、今回は『エスパー魔美』という作品について書きたいと思います。
『エスパー魔美』……
原作は、藤子・F・不二雄先生。つまり、藤子不二雄つながりです。
そしてもう一つ、アニメの『エスパー魔美』と『笑ゥせぇるすまん』には共通点があります。
それはなにかというと……音楽を田中公平さんが手掛けているということですね。
以前も書きましたが、田中公平さんはアニメ音楽の世界における巨匠で、じつにさまざまなアニメに音楽を提供しています。『エスパー魔美』も、その一つなのです。
『エスパー魔美』は、主人公の佐倉魔美が、あるときふと超能力に目覚め、その力でさまざまな事件を解決する……という筋立ての物語です。
おそらく、F先生の代表作の一つといっていいでしょう。
もちろん、作品としては『ドラえもん』ほどのポピュラリティをもってはいません。しかしこの作品には、F先生の集大成のようなところがあると私は個人的に思ってます。
それは一つには、F先生がたびたび扱ってきた“力と正義”というテーマがあることですね。
力を持つものは、その力をどう使うべきなのか、という……。
「ウルトラスーパーデラックスマン」などのいわゆるSF短編では、このテーマはシニカルに描かれることが多く、人間が強大な力をもつと不幸な結果になる、というような話が多いんですが、『エスパー魔美』では、そういうふうにはなっていません。魔美はエスパーとして強大な力を持っていますが、高畑君という、とても中学生とは思えない良識的な人物に支えられ、それを人助けのために使うのです。そこには、F先生がSF短編でみせる醒めた視線とはまるで正反対の、ある種の楽観のようなものがあります。F先生の晩年の作品では、この『エスパー魔美』や『チンプイ』のように女子を主人公とするものがありますが、ひょっとすると、そういう変化も関係があるのかもしれません。
そして、この作品は一話ごとにドラマがあります。
いろいろ悪事をはたらく人も出てきますが、単純に悪人をやっつけて終わりという話にはなりません。
悪人にもなにかそれなりの事情があって、魔美や高畑君の献身的な働きかけによって、それまでの行いを悔い改めます。
『エスパー魔美』は80年代後半に放映されていたアニメですが、このあたりは時代を感じますね。
今のアニメはあまりそういう描き方はしないんじゃないかと思います。私見では、90年代ぐらいから、「悪は悪であり、更生することはなく、排除するしかない」という考え方が優勢になってきたと思うんですが、80年代ぐらいにはそうじゃなかったような気がします。そういう意味では、このブログでよくいう「今の時代にこそみてほしい」的なアニメなんですが……
しかし、このアニメ、いまの時代に放映するにはなかなか厳しいものがあります。
ここも時代の変化を感じるところですが……ローティーンの女の子がフルヌードで出てきたりする場面が結構頻繁にあって、「絵のモデル」という理由が一応あるにせよ、現在の基準に照らすとちょっと問題があるということになるでしょう。
こういう変化はどうなんだろうな、ということも考えさせられます。
80年代ぐらいのアニメにはそういう描写はふつうにあったと思うんですが、今ではちょっと難しいですね。
倫理基準がだんだん厳しくなってさまざまな“配慮”が求められるようになった結果であり、そのこと自体は結構なことかもしれません。
しかしそれが、社会の不寛容や、いわゆる“つるし上げ”と表裏一体になっているようにも思えます。そしてその厳しさは、先述した、悪を悪として切り捨てる考え方と深いところでつながっているんじゃないか。糾弾することばかりに性急で、“あそび”の部分がないというか……『エスパー魔美』というアニメを今見ると、この三十年ほどの間に社会が失ってきたものを感じさせられるような気がするのです。