以前、手塚治虫の『三つ目がとおる』のことを書きました。
そこで、手塚作品の中で特に『三つ目がとおる』をピックアップするのには三つの理由がある……と書いたのですが、その三つの理由のうち、最後の一つを書いていませんでした。
今回は、それを書こうと思います。
三つ目の理由……それは、以前このブログで取り上げた話題と通ずるところがあるな、と思ったということです。
「生まれつきの髪の色を変えなきゃだめ?」という記事ですが……そこでとりあげた、生まれつき茶色っぽい髪を黒く染めるように強要されたという話です。
そのニュースのことを考えていて、『三つ目がとおる』のなかの一つの話を思い出しました。
『三つ目がとおる』は、連載漫画でよくあるように、複数話で一つの大きなストーリーになる「〇〇編」というのがいくつかあるのですが、その一つに「地下の都編」というのがあります。
このエピソードでは、写楽の育ての親である犬持博士が、写楽の第三の目を手術で切除しようとするのです。
写楽をごくあたりまえの大人にしてやりたい
と、犬持博士はいいます。
第三の目があるがゆえに、写楽は手がつけられない。いっそ、それを切除して、普通の人間にしたほうがいい……と。
そして、話の後半では、学校の先生に退学のおどしをかけられ、手術に踏み切るのです。
生まれつき人と違うものを、“あたりまえ”の人と同じように矯正しなければならないのか……ここでは、そういう問いが投げかけられているのだと思います。
それは、生まれつき茶色い髪をまわりに合わせて黒くしなければならないのかという問題と通底するところがあるように思えます。
この話の前半では写楽は三つ目の力を使いません。
さえない少年のままで、遺跡を掘りあて、そこから巻き込まれる冒険を自分一人の力で切り抜けます。後半では三つ目の写楽が出てくるのですが、部分的とはいえ、三つ目の力を使わずに写楽が危機を乗り切るのは、『三つ目がとおる』という作品の中では異例のことです。
こういう話を用意したところに、手塚治虫の強いメッセージが感じられます。
それは、他人と違っていても、それを恥じたり、まわりに合わせたりすることはない……このエピソードを通じて、手塚治虫はそれをいいたかったんだと思うんです。
いよいよ手術がせまってきたとき、和登サンはいいます。
写楽クンは、手術なんかしなくたってがんばってるじゃない!!
バンソウコをとらずに
あんなすごい遺跡をたったひとりでほりあてたんですよ!!
かれはどんなじゃまにも悪口にもくじけずに
泣きながらほったのよ
そのえらさがおとうさんにはわからないの?
和登サンの涙ながらの訴えに、犬持博士も手術を断念します。
そして、それに応えるように、いつもは暴走する三つ目の写楽も、すべてが終わった後、バンソウコを貼って自らを封印するよう和登サンに促します。ふだんなら考えられないことです。
なんであれ、生まれもったものを否定されてはいけない……言葉でいえば陳腐ですが、手塚治虫は『三つ目がとおる』という漫画によってそれを見事に表現しています。
ほかの手塚作品にも、そういうメッセージは流れているように思います。
肌の色、髪の色、目の色……生まれ持ったものへの差別がまかりとおって見える昨今、このメッセージが大切なんじゃないかと思いました。
そこで、手塚作品の中で特に『三つ目がとおる』をピックアップするのには三つの理由がある……と書いたのですが、その三つの理由のうち、最後の一つを書いていませんでした。
今回は、それを書こうと思います。
三つ目の理由……それは、以前このブログで取り上げた話題と通ずるところがあるな、と思ったということです。
「生まれつきの髪の色を変えなきゃだめ?」という記事ですが……そこでとりあげた、生まれつき茶色っぽい髪を黒く染めるように強要されたという話です。
そのニュースのことを考えていて、『三つ目がとおる』のなかの一つの話を思い出しました。
『三つ目がとおる』は、連載漫画でよくあるように、複数話で一つの大きなストーリーになる「〇〇編」というのがいくつかあるのですが、その一つに「地下の都編」というのがあります。
このエピソードでは、写楽の育ての親である犬持博士が、写楽の第三の目を手術で切除しようとするのです。
写楽をごくあたりまえの大人にしてやりたい
と、犬持博士はいいます。
第三の目があるがゆえに、写楽は手がつけられない。いっそ、それを切除して、普通の人間にしたほうがいい……と。
そして、話の後半では、学校の先生に退学のおどしをかけられ、手術に踏み切るのです。
生まれつき人と違うものを、“あたりまえ”の人と同じように矯正しなければならないのか……ここでは、そういう問いが投げかけられているのだと思います。
それは、生まれつき茶色い髪をまわりに合わせて黒くしなければならないのかという問題と通底するところがあるように思えます。
この話の前半では写楽は三つ目の力を使いません。
さえない少年のままで、遺跡を掘りあて、そこから巻き込まれる冒険を自分一人の力で切り抜けます。後半では三つ目の写楽が出てくるのですが、部分的とはいえ、三つ目の力を使わずに写楽が危機を乗り切るのは、『三つ目がとおる』という作品の中では異例のことです。
こういう話を用意したところに、手塚治虫の強いメッセージが感じられます。
それは、他人と違っていても、それを恥じたり、まわりに合わせたりすることはない……このエピソードを通じて、手塚治虫はそれをいいたかったんだと思うんです。
いよいよ手術がせまってきたとき、和登サンはいいます。
写楽クンは、手術なんかしなくたってがんばってるじゃない!!
バンソウコをとらずに
あんなすごい遺跡をたったひとりでほりあてたんですよ!!
かれはどんなじゃまにも悪口にもくじけずに
泣きながらほったのよ
そのえらさがおとうさんにはわからないの?
和登サンの涙ながらの訴えに、犬持博士も手術を断念します。
そして、それに応えるように、いつもは暴走する三つ目の写楽も、すべてが終わった後、バンソウコを貼って自らを封印するよう和登サンに促します。ふだんなら考えられないことです。
なんであれ、生まれもったものを否定されてはいけない……言葉でいえば陳腐ですが、手塚治虫は『三つ目がとおる』という漫画によってそれを見事に表現しています。
ほかの手塚作品にも、そういうメッセージは流れているように思います。
肌の色、髪の色、目の色……生まれ持ったものへの差別がまかりとおって見える昨今、このメッセージが大切なんじゃないかと思いました。