ちょっと前に、このブログでは古関裕而に関する記事をいくつか書きました。
それらの記事でも書いたとおり、古関裕而は、戦時中に多くの軍歌を作っています。
もちろん、戦前・戦中には、多くのアーティストが戦争に協力していたのであり、それは、必ずしも本人の望むところではなかったかもしれない――とも書きました。
戦時下になると、それまでのモダンな大衆文化を背景とした歌謡曲の需要がなくなり、食いつなぐためには軍歌を書くしかない……という経済的な事情もあったようです。
しかし、そんななかにあって、軍歌を作らなかった音楽家として知られる服部良一がいます。
というわけで、今回はこの服部良一という人について書こうと思います。
服部良一は、大阪出身の作曲家。
昭和初期を代表する作曲家に古賀政男がいますが、コロムビア・レコードに在籍していた古賀が新興のテイチクに引き抜かれた後に、コロムビアがその後釜として白羽の矢を立てたのが服部良一でした。
古賀政男や古関裕而ほどではないでしょうが、彼も有名な曲をいくつか残しています。
たとえば「蘇州夜曲」や、淡谷のり子の「別れのブルース」など。
そして――なんといっても服部良一の代表作は、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」でしょう。
昭和歌謡なんか興味がないという人でも、一度ぐらいは聞いたことがあるはず……そういう、日本歌謡曲史上に残るヒット曲です。
下はハモネプの応募動画ですが、こうして現代でも歌われているということも、その証でしょう。
【ハモネプ応募動画】「東京ブギウギ」笠置シヅ子/伽藍堂ベイビー
「東京ブギウギ」といっていますが、この歌のきっかけは、服部良一の上海での活動にあります。
戦時中、服部は上海で活動していて、ブギのリズムと出会ったのも、上海にいたればこそのことだったのです。
服部良一は、古賀政男とは対照的です。
彼はジャズを音楽的なルーツとしている人なので、やはりその感覚が作品に表れてきます。
そして、その先にあるのがブギウギなのです。
20世紀初頭にシカゴの黒人労働者たちのあいだで発生したとされるブギウギのスタイルは、初期のロックンロールにも大きな影響を与えました。
ロック革命とはベース革命だったのではないか――というのが私の持論ですが、その観点からすると、ブギウギはまさにベース革命というところに直結しているといえるでしょう。
一説には、不況期に家賃を稼ぐためにパーティーを行い、そこで行われていた演奏がもとになっているといいます。ピアノ一台だけで演奏するために、低音部をパーカッション的に使ったのがはじまりとか……
そのベースラインは、いま聞けば古風に聞こえるでしょうが、出てきた当時は斬新だったわけです。
そして、上海でそのブギの楽譜を手に入れた服部良一は、さっそくこれを取り入れます。
「夜来香」にブギのリズムを取り入れて演奏してみたところ、これが非常にうけて、上海でブギが流行したそうです。それが、後の「東京ブギウギ」につながりました。
このような活動をしていたために、服部良一は軍歌を作らなかった作曲家として戦後評価を受けることとなります(ただし、軍歌こそ作らなかったものの、上海での活動は軍に協力するかたちのものではありました)。
この点に関して、ジャズの作曲家だから「書かなかった」のではなく「書けなかった」のだという評がありますが……これは同じことでしょう。
生粋のジャズマンが、燃えろ一億火の玉だなどという曲を作りようがないわけです。
それは、イデオロギーや国籍といったことと関係なく――軍歌を「書かない」ことと「書けない」ことがイコールとなる地平にあったのが、ブギウギなのです。
そしてこのセンスこそが、戦後日本にマッチしたということでしょう。
東京ブギウギは、終戦直後の日本で大ヒットとなりました。
笠置シヅ子のステージパフォーマンスとあいまって、それは抑圧からの解放、自由の空気といったものを感じさせたのだと思われます。その意味では、まさに今こそ響いてほしいブギウギなのです。