ロック探偵のMY GENERATION

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『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

2020-09-05 17:37:25 | 映画


今回は、映画記事です。

前回書いたように、最近ゲオの5本1000円システムを利用し、比較的新しい映画を5本ほど借りて観てました。

そのうち一本については、ミステリー的な作品で、ネタバレを避けながらあれこれ書くのは難しそうなのでスキップするとして……残る最後の一本である『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』について今回は書こうと思います。

映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』【予告3(日本語吹替ver.)】

昨年公開された、ハリウッド版ゴジラシリーズの最新作。

そのタイトルどおりに、多数の怪獣が登場。
総数は17体と、あの『ゴジラFINAL WARS』さえも越えています。

ただ、そのなかでメインに動くのは、ゴジラ、モスラ、ラドン、キングギドラの4体。
とりわけ注目されるのは、キングギドラ。やはり、ハリウッド版でも、ゴジラをシリーズ化するとなったらキングギドラの登場が避けられないということでしょう。

これら日本版ゴジラシリーズを彩った怪獣たちの登場もそうでしょうが、この作品では日本ゴジラへのオマージュが随所にみられます。
たとえば音楽では、伊福部昭の曲が使われています。また、モスラが登場するということで、「モスラの歌」をアレンジした曲も。以前このブログで書いたように、「モスラの歌」は古関裕而の作曲……というわけで、スタッフロールには Akira Ifukube とともに Yuji Koseki の名前もしっかり入っています。

また、スタッフロールには、2017年に死去した中島春雄、坂野義光両氏への献辞も。
中島春雄は昭和ゴジラの多くでゴジラの“中の人”をつとめたスーツアクター。そのことで世界的にも有名で、海外では“ミスター・ゴジラ”と呼ばれているといいます。
そして、坂野義光は、あの異色作『ゴジラ対ヘドラ』の監督。実験的な映像表現を探求していた坂野監督は、ゴジラのCG映像に関する権利を保有していて、ハリウッド版ゴジラを制作するにあたって坂野氏に話を通さなければならなかった――という事情がその背景にあります。

こうして日本ゴジラへのリスペクトを表明していることは、作品の内内容にも表れています。

たとえば、あの対G最終兵器オキシジェン・デストロイヤーが登場。
また、ネタバレになるので詳細は書きませんが、ストーリーの核心部分にも、ゴジラ第一作に対するオマージュがみられます。


しかしながら、日本ゴジラと決定的に違うと思えるのが、ゴジラの立ち位置です。

前作でもそうでしたが、今作でも、ゴジラは結果的に人類の味方ということになります。
ゴジラ、ラドン、モスラ、キングギドラというメンツは、日本ゴジラにおける『地球最大の決戦』と同じ顔触れ(ただし、陣営の別れ方が違う)ですが、あの作品で起きたのと基本的に同じことが、この『キング・オブ・モンスターズ』にも起きています。
“宇宙怪獣”という外からの脅威に対処するために、細かい部分はすっ飛ばしてゴジラと人類が共闘関係になるという……

もちろん、日本版でもゴジラはしばしば人類の味方となっています。
先述した『地球最大の決戦』以降は次第にその傾向を強めていき、第12作『ゴジラ対ガイガン』からは完全に人類の味方となったのは、このブログでも書いたとおり。その後、第二シリーズ、第三シリーズにおいても、当初こそ人類の脅威として登場しますが、程度の差はあれどこかの時点で人類側に“転向”してきました。

しかし、それでもやはり、日米ではゴジラに対する扱いが大きく違っています。

それはすなわち、“核”観の違いを反映したものと思われます。

『キング・オブ・モンスターズ』においては、キングギドラという宇宙からの侵略者との戦いにおいて、“核”が有効な手段ということになります。
一度はオキシジェン・デストロイヤーでゴジラに大ダメージを負わせるのですが、その後キングギドラを倒せるのは奴しかいないということで、ゴジラを復活させるために核弾頭によってエネルギーを供給するのです。
ゴジラ史を振り返ると、日本ゴジラの『ゴジラVSキングギドラ』で似たような話がありました。
やはりキングギドラに対抗するために、一度は葬り去ったゴジラを核弾頭で復活させようとするのです。
ただ、そこでは実際に核弾頭が使用されることはありませんでした。
日本人が制作し、基本的に日本人が鑑賞する映画ということになると、さすがにそれはどうなのか――という抑制が働いたものと私は想像してます。このエピソードは、結局のところ“核を世界中に蔓延させた人類の愚かさ”というところに回収されるのです。

その意味では、核というものをゴジラに対するカンフルとして使えてしまうのは、アメリカ映画だからこそかという気がします。
オキシジェン・デストロイヤーで倒したゴジラを核爆発で復活させるという展開は、ある意味で第一作『ゴジラ』を正反対にしたものともいえるわけで……この“倒錯”こそが、日米の違いなのでしょう。

ゴジラが人類の味方になるにしても、日本の場合は、長い時間をかけてためらいがちにそのポジションが変化していきました。それが、アメリカでは一気に最終形にまでいたる……この違いが、たとえば原爆投下の是非に関する日米の認識のずれにもつながっているでしょう。これは、なかなかに難しい問題が、はからずも表現されているのかもしれません。




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