ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です!

“超隠し玉”、発売から50日

2017-09-22 17:10:27 | 小説
早いもので、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』を含む“超隠し玉”発売から50日が経過しました。

この間、いろんなことをやってきました。

友人知人に告知してまわるのはもちろんのこと、こうしてブログをはじめ、長いこと放置状態になっていたツイッターも再開しました。

それらがどの程度効果があるのかというのはわかりませんが、とにかくできることは何でもやるしかないという心境です。

というのも、時間が経っていけば、本の世界での生存競争という厳しい現実に否応なく直面せざるを得ないからです。

書店に行くと、私の作品を含め、超隠し玉の3作品とも、今はまだ平積みの扱いをしてもらえているようです。

しかし、今後も新刊本は次々と出てきます。
それは、宿命です。
そのなかで、埋もれていくかどうかというところに今いるわけです。

なので、ここでもう一度、声を大にしていっておきたい。

“超隠し玉”、よろしくお願いします!



イーグルス「呪われた夜」(Eagles,"One of These Nights")

2017-09-21 16:50:08 | 音楽批評
 

昨日は身辺雑記のようなことを書きましたが、今日は、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』に登場する曲を紹介するシリーズを書いていきます。

今回は、順番通りに、第三章の章題となっている「呪われた夜」です。

この曲もまた、アルバムのタイトルチューンですね。
「呪われた夜」というのはかなり大胆な邦題で、原題は One of These Nights 。直訳すると、「これらの夜の一つ」という意味になります。
ただ、曲中には devil とか demon といった単語が出てきたりして、その曲調なんかから考えても「呪われた夜」という邦題はあながち的を外したものでもなさそうです。
むしろ、古き良き「名邦題」といえるかもしれません。


発表は、1975年。

この頃のイーグルスは、質的に変化を遂げようとしていました。

よく知られているように、イーグルスはもともとリンダ・ロンシュタットのバックバンドとして出発しており、当初はウェストコーストらしさを前面に出したサウンドでした。

しかし、時代の変化、ロックの変化というものが彼らにも影響を及ぼします。

以前書いたように、70年代初頭、ロックの世界は大きく変化しつつありました。

それまでは、細かい違いはあっても「ロックンロール」と一くくりにされていたものが、細分化し、多様化していったのです。

また、60年代のラブ&ピース的な価値観は急速に訴求力を失い、多くのアーティストがその状況への対応を迫られていました。

そういう時代に世に出たため、イーグルスも自分たちの目指す方向性をあれこれと模索していた様子がうかがえます。それが、『呪われた夜』というアルバムにも表れているわけです。

タイトルチューンである「呪われた夜」は、それまでのイーグルスにはなかったようなサウンドになっています。

タム系のドラムを使った重めのイントロ。
ところどころファンクっぽいギター。
ハードロックっぽいギター高音域の単音弾き……


個々の要素を取り上げれば、それまでにも決してなかったわけではありません。全体的な曲調としては、「魔女のささやき」と似ていなくもありません。
しかし、やはり、それまでとはかなり違ったイメージがあります。
ギターの音色がハードロックよりになっていることが大きいと思いますが、そこに、あの無気味なアルバムジャケットや不穏な歌詞もあいまって、まったく異質な世界に足を踏み入れたような感じになっているのです。

結果として、これが受けました。
アルバム『呪われた夜』は、イーグルスにとって初の全米No.1ヒットとなったのです。

このあたり、日本の例でいえば、フォークグループだったRCサクセションがハードロックバンドに生まれ変わって大成功したというのと通ずるところがあるかもしれません。
やっぱり、実力のあるアーティストは、時代の変化にもきちんとアジャストするということなんでしょう。イーグルスは、見事に時代の変化に対応したのです。

しかしそれは、手放しで成功と呼べるものでもありませんでした。

「時代の変化に対応した」といえば聞こえはいいですが、意地の悪い見方をすれば、「日和った」「売れるために自分のポリシーを捨てた」というふうにけなすこともできるわけです。
実際のところ、こうした音楽性の変化をめぐってメンバー間で確執が生じ、そのことがバーニー・レドンの脱退につながったともいわれています。
また、「時代の変化に対応した」ことは、「計算高い」とか「商業主義に染まっている」といったネガティブなイメージがイーグルスについてまわる一因にもなっているかもしれません。


このあたりは、難しい問題です。

ほかの多くのアーティストも、音楽性を変えることで時代に適応しました。
なかには、ジェファソン・エアプレインのように、名前まで変えてまったく別物になったバンドもあります。一方で、“適応”を拒んで、低迷、あるいは表舞台から姿を消してしまったアーティストもいます。

では、イーグルスはどうなのか。

彼らは日和ったのか。

私は、そうは思いません。
これはなにも、自分の本の題材にしたということからのひいき目でいっているわけではありません。

彼らは、音楽的なスタイルを変更しながらも、その基本にあるアティチュードは保ち続けていたと思うのです。

この「呪われた夜」にしても、そうです。

ここで歌われているのは、都会の退廃です。
切り口は変わっていますが、やはりこれまでこのブログで書いてきた物質文明批判というスタンスは、消えてはいません。
このアルバムには「いつわりの瞳」(Lyin' Eyes)という曲が収録されていますが、この曲もまさにそうです。
つまり、彼らはその根底にあるスピリッツは変えていない。そしてそれが、翌年の『ホテル・カリフォルニア』に結実し、さらに30年以上後の作品である『エデンからの道、遥か』にいたるまで底流に流れ続けています。
『エデンからの道、遥か』の段階では、音楽的なスタイルにおいても、もとの形に回帰しているように聞こえますが、これもそのゆえでしょう。
通底するものがあったがために、時代がさらに流れていったときにそれが再び表面に出てきたのです。
その点については、またいずれ、別の機会に書きたいと思いますが……重要なのは、なにしろイーグルスがレジェンド的存在であり続けているということです。

単に時代に適応して音楽性を変えていくだけだったら、レジェンドとみなされるような存在にはなれないでしょう。
それでは、一度は時代の変化に合わせられても、またどんどん時代が変わっていくうちに、埋没していってしまいます。

実例を挙げるのはなんですが、先に名前の出てきたジェファソン・エアプレインが、そういう意味でレジェンドになり損ねたグループだと思います。

ジェファソンの場合も、やはり70年代初頭に、これからの方向性をどうするかということが問題になり、メンバー間で確執が生じ、激しいメンバーチェンジ、名前の変更を経て、スターシップというまったく別のバンドになりました。

スターシップは、当時の流行だった路線に完全に乗って、成功しました。
しかし、そういう時代の流行もやがて廃れていきます。結果として、スターシップはもう次の時代の波に乗ることはできませんでした。

これは、時代の変化に適応した悪い例だと思えます。

スターシップだって今でも有名なグループではありますが、それは「青春時代の懐かしのメロディ」的な意味であって、レジェンドたりえてはいないと思うのです。

この“悪い例”と対照してみると、イーグルスがレジェンド的な存在であるのは、やはり、根幹のところを変えなかったからではないかと思えます。
スタイルを変えるところはあっても、芯の部分にあるアティチュードは変えない。
そうだからこそ、イーグルスはレジェンドなのではないでしょうか。

免許更新

2017-09-20 17:23:04 | 日記
どうも、村上暢です。
『ホテル・カリフォルニアの殺人』(宝島社文庫)発売中です。


突然ですが、今回から、このブログで日記的なことや、身辺雑記的なことも書いていこうと思います。

前にも書きましたが、このブログは、基本プロモーション用です。
駆け出しの作家が、少しでも存在を知ってもらおうという……

しかし、小説や音楽の話ばかりだと、どうしても偏りが出てきてしまいます。
興味のある人は読んでくれても、興味のない人はスルーでしょう。
なので、日記的なことも書いて少し幅を広げていこうかと。


ということで、まず身辺雑記として、免許更新の件。

本日、運転免許を更新してきました。

いつもどおり、期限ぎりぎりの更新です。



ゴールド免許。ただし、ペーパードライバーの証として。

5年間、無事故無違反。
当然です。車に一度も乗ってないんですから。

車には乗りませんが、身分証明書として運転免許証は必須です。

失効なんかしたら目もあてられないので、とりあえず更新できて安堵。

で、最後にあらためて。
なんの脈絡もありませんが、『ホテル・カリフォルニアの殺人』、お願いします。

『ホテル・カリフォルニアの殺人』あらすじ・その4 第二の殺人 

2017-09-17 19:39:15 | 『ホテル・カリフォルニアの殺人』
これまでの数回、イーグルスの曲を紹介してきましたが、今回は、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』の内容をテレビドラマの番宣ふうに紹介していくシリーズに戻りたいと思います。
そもそも、このブログはプロモーション用という位置づけなもんで……


4回目となる今回は、後半に発生する第二の殺人についてです。


それは、一件目の殺人が起きてから2日目の夜のことでした。

眠っていたトミーは、真夜中に物音で目を覚まします。

闇の奥から、誰かの声が聞こえたのです。
そして、それに続いて、アメリカ先住民の伝統音楽であるバードソングが……

トミーは、殺人事件発生と時を同じくして行方不明になっているアメリカ先住民ベンのことを想起します。

ベンがここに戻ってきているのか?

しかし、窓の外を見ても、そこには誰もいません。また、砂の上の風紋には、誰かがいた形跡もみられません。

不審に思ったトミーは、二人の刑事にそのことを報告することにしました。


それからちょっとした騒動があって、トミーと刑事たち、そしてその他大勢が、ホテルの中央ホールに集まってきます。

そこで、事件が起きました。

突然の雷鳴とともに、稲光がひらめきます。

そして、その光のなかに、無気味なシルエットが浮かび上がったのです。
それは、馬に乗って剣を掲げる人の姿でした。




その直後、中央ホールに悲鳴が響き渡ります。

……いやな予感がするぜ

刑事のボガートが、つぶやきます。
そうして、あたりを調べようとしたそのとき……

天井近くにある高窓が割れて、そこから何かが落ちてきました。
それは、ホールの床に激しく叩きつけられ、女たちの間から悲鳴があがります。

畜生、一体なんだってんだ……


トミーとボガートは、近寄って検分します。

するとそれは……イザベラの死体でした。

歌い手たちのナンバー2であるイザベラは、その体に数本の短剣を突き立てられた状態で、絶命していたのです。


この第二の殺人には、奇妙な点がいくつかありました。

あの、無気味な影はなんだったのか?

そもそも、このホテル・カリフォルニアに馬などいません。
それに、どうやってあの場所まで行ったのかという問題もあります。
中央ホールの屋根は、はしごなど設置されておらず、そう簡単に行ける場所ではないのです。



殺害現場が屋根の上ではないという可能性もありますが、仮にそうだとした場合、おそらくイザベラは塔で殺害されたということになります。ならば、塔のほうに血痕が残っているはずですが、そのような痕跡もありません。

では、この殺人はいったいどのように行われたのか……?

その答えは、例によって、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』をお読みになってください。
なにしろ、番宣ですから。

イーグルス「ならず者」(Desperado)

2017-09-14 17:35:19 | 音楽批評
 

今回も、拙著『ホテル・カリフォルニアの殺人』に出てくる曲について紹介するシリーズです。

3回目は、第二章の章題になっている Desperado。

いわずとしれた、屈指の名曲ですね。
邦題は、「ならず者」。同じタイトルのアルバムに収録されています。


Desperado というのは、西部劇に出てくるような無法者を指す言葉です。
ロックというジャンルは、結構西部劇をモチーフにすることが多いのですが、この曲もまさにそうで、『ならず者』というアルバム全体が西部劇をイメージしたものになっています。
そのタイトルチューンである「ならず者」は、作品のハイライトといっていいでしょう。5曲目に収録されていますが、アルバムの最後にも、この曲をアレンジして別の曲と融合させたものが出てきます。


この曲は、イーグルスとしては珍しく、ギターが一切使われておらず、その代わりにピアノとストリングがふんだんに入っています。この美しいアレンジも、「ならず者」を名曲たらしめている所以の一つでしょう。

イントロは、ピアノ。
G→G7→C→Cmというコード進行です。
ここで使われるⅣのマイナーというコードは、よくメランコリックな響きと表現されますが、この曲でもやはり切ない感じを醸し出してくれます。


ならず者
正気に戻れよ

と、歌は始まります。


そのあとには、you've been out riding fences for so long now と続きます。
この歌詞を直訳すると、「お前は長いこと柵の上に乗っかっている」ということになります。
そのままでは意味不明ですが、洋楽でこういう歌詞に出くわしたときは、なんらかのイディオム表現という可能性が考えられます。
ひょっとすると私の知らないそういうイディオムがあるのかもしれませんが、同じ fence という単語を使ってsit on the fence なる言い回しがあり、その変形なのではないかと今のところ私は考えています。

sit on the fence というのは、「柵の上に座っている」ということから、柵の向こう側とこちら側、どちらともつかない状態にある、という意味です。
こういうふうに解釈すると、その後の歌詞もすっと理解できるように思えます(その点については後述します)。


サビの部分では、次のように歌われます。


ダイヤのクイーンなんてひくもんじゃない
そいつは隙あらばお前を打ちのめそうとしてるんだ
いつだってハートのクイーンに賭けるのが一番さ

これもまた西部劇じみて、場末の酒場でトランプに興じているような光景です。
しかしここにも、これまで何度も書いてきたイーグルスの反・物質文明思想が反映されています。

一般的な解釈……といっていいと思いますが、ここでいう「ダイヤのクイーン」、「ハートのクイーン」は、象徴的な意味を持っています。
「ダイヤのクイーン」とは、「ダイヤ」ですから、金銭的・物質的な価値の象徴。
それに対して、「ハートのクイーン」は「ハート」すなわち心ですから、精神的な価値の象徴と考えられます。また、「ハート」は、ハートマークの一般的なシンボリズムからして、精神的な価値の中でもとりわけ「愛」という意味にとれるでしょう。

その前提をおくと、この部分は、「金銭的な価値よりも精神的な価値に目をむけろ」というメッセージと読み取れます。
物質的な豊かさを追い求めるのではなく、足元にある精神的な価値を重視しろ……これまでに幾度も紹介してきたイーグルスのスタンスがここにもあるのです。

そうなると、前述した riding fences という言葉の意味も理解できます。
柵の向こう側とこちら側というのは、拝金主義の世界か、それとも精神性の世界か、ということです。「正気に戻れ」というのは、どちらつかずの状態にいるならず者に、選択を迫っているということでしょう。

曲の最後では、それがストレートな呼びかけとなって表れます。


柵の上から降りてこいよ
扉を開くんだ


これはもちろん、柵の上から降りて、「こちら側」=精神性の世界へ来いということでしょう。


雨が降っているかもしれない
だけど空には虹がかかるだろう


そして最後は


愛してくれる誰かをみつけたほうがいいぜ
 手遅れになる前に


というフレーズで、歌はしめくくられます。
やはり、ダイヤのクイーンではなく、ハートのクイーンなのです。

「愛してくれる誰かをみつけたほうがいいぜ」というフレーズは2回繰り返され、途中にはコール&レスポンス風にコーラスが入ってきます。

コール&レスポンスというのは、労働歌に起源をもつともいわれるスタイルです。
厳しい労働のなかで、一人が呼びかけ、それに仲間たちが応じる……この形式はつまり、「どんなにつらいときも一人じゃない、仲間がいる」ということを表現しています。

どっちつかずの状態ではなく、正気に戻って精神性を重んじる世界で暮らせ、そうすれば、お前には共に生きる仲間がいる……この歌は、そんなメッセージソングともとれるのです。

音楽として美しいだけでなく、そういうメッセージも含んでいるからこそ、Desperado はロック史上屈指の名曲として名を残しているのでしょう。



追記:大変はずかしいことに、本文中「クイーン」と書くべきところを「エース」と誤記している箇所が複数ありました。
   投稿後に読み返していて間違いに気づき、訂正しました。