ロック探偵のMY GENERATION

ミステリー作家(?)が、作品の内容や活動を紹介。
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映画『燃えよ剣』

2023-08-12 21:40:00 | 映画


先日、司馬遼太郎は今年生誕100年だという話をしました。

当該記事では書き忘れてましたが、8月3日がちょうど司馬遼太郎の誕生日ということで、生誕100周年ということだったのです。

それはともかく、せっかくの100周年ということなので、司馬遼太郎原作の映画でも……ということで、映画『燃えよ剣』をアマプラで視聴してみました。

過去に映画やテレビドラマで何度か実写化されているようですが、今回観たのは一昨年公開された最新版です。
その予告動画を載せておきましょう。

映画『燃えよ剣』新予告映像(90秒)10月15日(金)公開!

原作は、私が最初に読んだ司馬作品でした。
もう二十年以上も前の話……なつかしいかぎりです。

内容は、新撰組を描く物語。
副長の土方歳三を中心にして、武州多摩の“バラガキ”たちが新選組を結成し、幕末の動乱に散っていく……尺の関係上だいぶいろいろ端折ってはありますが、新撰組最後の戦いとなる箱館戦争までを扱っています。

『城塞』がそうであったように、これもまたやはり“敗北の美学”でしょう。

しかし、やはりここには見るものを強く惹きつける何かがあります。
時流におもねることなく、筋を通す美学ということでしょう。

理屈からいえば、ばかげたことをしているわけです。

『城塞』の記事でもちょっと言及しましたが、戦闘を放棄するという徳川慶喜の方針には、慶喜なりの理があります。徹底抗戦で本格的な内戦状態に陥れば、日本は列強の植民地になってしまうおそれもあった。そういう意味では、戦おうと思えば相当程度戦える力があったにもかかわらず、あえてそれを投げ出したのは、慶喜の英断だったと私は思ってます。

しかしそれは、あくまで、政治のレベルでの理。
一介の剣士である土方に、そんな理はありません。
土方としては、ただ、動乱の世にあっても筋を通す。滅びゆく道だとしても、己の信じるもののためにのみ戦う――そう、これはまさに、キャプテン・ハーロックの美学ではないでしょうか。この美学が、やはり私のようなものを惹きつけてやまないのです。ゆえに、あれこれ司馬作品を読んだ後でも『燃えよ剣』は私のなかでベストの一作であり続け、今回映画を観ていても、やはりこの剣の世界にはたまらなく引き込まれました。
見え透いた嘘や責任逃れが横行する世間……人の生き様はこうありたいものです。



長崎原爆忌 2023

2023-08-09 21:37:44 | 時事


今日は8月9日。

長崎原爆忌です。

というわけで、今回はこのテーマについて書こうと思います。


6日の広島原爆忌では、原爆をテーマにした歌について書きました。
そこで、長崎に関しても、原爆をテーマにした歌を一つ紹介しようと思います。

さだまさしさんの「祈り」という歌です。


映画「祈りー幻に長崎を想う刻―」主題歌『祈り』MUSIC VIDEO(ショートver.)

さださんは長崎出身ということで、こういう歌を歌っているわけです。

この動画はショートバージョンで1番しか歌ってませんが、2番では次のように歌われます。

  この町がかつて 燃え尽きたときに
  私達は誓った 繰りかえすまじと
  生命を心を 奪い去ってゆく
  ちからも言い訳もすべて許せない


6日、広島の記事では、原爆の記憶の風化という問題について書きましたが……最近いくつかのネット記事を読んだところでは、アメリカでも変化があるようです。

世論調査をすると、原爆投下が「正しかった」とする人の割合は減ってきているんだとか……
これは皮肉な逆説ですが、アメリカの場合、原爆が遠い過去のことになるにつれて、「原爆を落とした側」という意識が薄れてきて、その結果として核兵器の使用を正当化しようという動機もなくなり、加害の側面にも目が向けられるようになってきていると考えられるようです。

それはそれで歓迎すべきことかもしれませんが、しかしそのいっぽうで風化という問題があることも否定できない現実でしょう。
この問題に抗するためには相当な力が必要です。なにしろ相手は、“時間”という強敵。その強敵に立ち向うためには、音楽というのが一つの力になるのかもしれません。そういう意味では、今回と前回の記事で紹介したような歌が歌い継がれていくことに、一つの希望を見出せるのではないでしょうか。



死んだ女の子とバーベンハイマー……と、ジャクソン・ブラウン

2023-08-06 21:54:45 | 時事
今日は8月6日。

広島原爆忌です。

毎年この日は広島の原爆に関する話を書いていますが……今年は、広島に注目する話がいくつかありました。

一つ大きいのはもちろん広島サミットですが、ジャクソン・ブラウンが来日公演で広島に来たなんていうこともありました。
今回会場となったのは、東京・大阪・名古屋という三大都市に加えて、広島。ジャクソン・ブラウンは長年核廃絶をうったえてきた人であり、最近では来日すると必ず広島に来るということで、今回も広島公演があったのです。

広島の原爆に関する音楽関係での話として、今年、元ちとせさんが、「死んだ女の子」をサブスクリプションで配信しています。

 
この曲に関しては、一昨年紹介しました。

原爆の災禍を歌った歌で、古くは高石ともやさんも歌い、また同じ詩を英訳した別の曲でバーズが歌ったりもしていました。

元ちとせさんは毎年夏にこの曲は期間限定で配信しており、2015年にアルバム『平和元年』に収録されてからもそれは続けていたということですが、今年はサブスクリプションでの配信もやっています。
長引くウクライナ戦争で核の危機が現実味を帯びつつあること……そして、この曲をプロデュースした坂本龍一さんが今年亡くなったということもあるでしょう。


原爆といえば、最近いわゆる「バーベンハイマー」というのが話題になりました。

核爆発と思われる炎を背景にして笑みを浮かべるバービーという絵は日本人の目からみればかなりグロテスクなものですが、それが「忘れられない夏になりそう」だと……
まあ、原爆に対する海外の認識はその程度のものということなんでしょうが、もっと深刻にとらえるべき点もあるのかもしれません。
一つは、これがアメリカの話だといういうこと。
原爆に対してさほど関心がないというだけでなく、原爆を肯定、正当化するというアメリカ特有の思考回路も今回の件の背景にあると思われます。
さらに、時間の経過による風化。
これは日本でも年々問題になってきていることですが、まして海外、とりわけアメリカでは……という話です。
まもなく原爆投下から80年にもなろうとしているなか、いかに風化を防ぐかということを真剣に考えなければならなくなっているということでしょう。

話をちょっと戻すと、ジャクソン・ブラウンがまさにそういうことをいっています。

広島公演を控えて、彼が中国新聞のインタビューに応じた音声が同紙のYoutubeチャンネルで公開されています。

【ヒロシマの声 NO NUKES NO WAR】シンガー・ソングライター ジャクソン・ブラウンさん

このなかで、ジャクソン・ブラウンは、「我々は未来に架ける橋を築かなければならない」といっています。
まさに、そういうことなのです。

ここで、せっかくなので、ジャクソン・ブラウンの歌を一曲。
The Crow on the Cradle です。

The Crow On The Cradle (Live 1982 FM Broadcast Remastered)

核の脅威をテーマにした歌で、今年の広島公演でも披露したそうです。
カバー曲で、他にもいろんな人に歌われており、そのなかには今年亡くなったデヴィッド・クロスビーも。
クロスビーはジャクソン・ブラウンと親交がありましたが、彼の在籍していたバーズは先述したように「死んだ女の子」の英語バージョンをやっていて、そこで元ちとせさんの話ともつながってくるわけです。
元ちとせさんの「死んだ女の子」をプロデュースした坂本龍一、英語バージョンをやったデヴィッド・クロスビー……この二人は今年世を去りました。
もちろん、生身の人間、いつか死ぬのは避けられぬさだめですが、その魂を継承していけるか、‟未来への橋”を築くことができるのか……そんなことを考えさせられる原爆忌でした。



6周年

2023-08-04 22:26:17 | 3DCG

今年も、8月4日がやってきました。

ここ数年は、拙著の舞台となるホテルカリフォルニアを3DCGで再現するということをやってきました。
今年もその一環として、中央の塔を作ってみました。




この塔は過去に一度作りましたが、今回はちょっとテクスチャを工夫しています。

建物系のCGを作っていて何が難しいかというと、ただの「白い壁」というのが案外難しいのです。今回は、そこをどうにかそれらしくできないかということでやってみました。
まあ、あまり時間がなかったということもあって、細かいところまで作りこめていないんですが……今年はこのぐらいで。



司馬遼太郎『城塞』

2023-08-03 22:08:16 | 小説


司馬遼太郎の『城塞』を読みました。

 

シバリョウさんは、今年で生誕100周年を迎えます。
音楽関係の話では50周年という話をしていて、クイーンが50周年、エアロスミスが50周年ということなんですが、司馬遼太郎は100周年。そこで、ひさしぶりに読んでみようかと。しかしなんだかんだいって主要作品は結構読んでいるので、未読の作品のなかでまあ、それなりにメジャーであろうという作品を選ぶと、この『城塞』となりました。


ここでいう城塞とは、大坂城のこと。
いわゆる「大坂の陣」を描く作品です。
徳川VS豊臣、戦国の世を名実ともに終わらせる最後の大合戦……今年の大河ドラマは徳川家康ということでやってますが、そのあたりともからんできます。
その『どうする家康』ですが、だいぶ視聴率が伸び悩んでいるとも聞きました。
脚本がどうとか、美術がどうとか、史実と違いすぎるとか、いろいろ理由は考えられるでしょうが、もっと根本転機なところで、徳川家康という人物の不人気に負う部分が大きいのではないかと個人的には思います。

『城塞』を読んでいると、とにかく家康という人物は非常にイメージが悪いです。
手練手管を弄して大名たちを服従させ、圧倒的な数で大坂をつぶそうとする。そうして、数にまかせて力押ししているにもかかわらず、真田幸村らの猛反撃に遭い、一時は本陣にまで斬りこまれ、命からがらで逃走する……カッコ悪すぎでしょう。まあ、司馬遼太郎一流の脚色もあるでしょうが、それにしても無様なのです。

そうすると、策謀を尽くす古狸に立ち向う大坂城の将たちのほうが断然かっこいいという話になってきます。
家康の率いる大軍を迎え撃つのは、真田幸村をはじめとする“大坂城七将星”とも呼ばれる武将たち。「七将星」なんていう呼び方からして、もうかっこいいでしょう。(ただし、『城塞』に「大坂城七将星」という言葉は出てきません)
彼らには、それぞれドラマがあります。
秀頼の乳母子で義兄弟ともいうべき関係にあるイケメン武将・木村重成、父子にわたる豊臣家への恩義のためにすべてを捨てて馳せ参じた毛利勝永、切支丹復興のために戦う明石掃部など……家康への忖度に終始し、お家大事と強い者にひたすらこびへつらう東軍方の大名らに比べれば、彼らのほうに肩入れしたくなるのが人情というものでしょう。
しかし、やはりこれは“敗北の美学”なのです。
老獪で卑劣な権力を相手に筋を通してよく戦った、結果として負けたけど……という例のあれです。
それはそれで余韻を残しはしますが、やはりそれだけで終わってはいかんとも思うのです。敗北の美学をこじらせると、「清廉潔白なものは勝つことができない」から「勝者は勝利している以上清廉潔白ではない」となりかねず、実際日本の社会運動はそのレベルにまでこじらせてしまっているケースがあるように私には思われます。こうなってしまうと、はなから敗北を前提とした戦いを延々と続け、うっかり勝ちそうになると慌てて後退するというような……日本の左派運動はそういうところがあるんじゃないでしょうか。
そういうふうにみると、ここに描かれる敗北の美学は、日本における権力のあり方と、それに抗する抵抗運動のあり方を象徴しているようにも感じられます。


いっぽう“敗北の美学”と対になるのが、“カッコ悪い勝者”としての徳川家康ということになります。
一応家康を弁護しておくと……彼にしてみれば、強い者が戦に勝ち天下をとって何が悪い、ということでしょう。大名らが家を維持するために強い者の傘下に入るのは戦国の世では当たり前のことであり、そこに旧主への忠義などという価値観は入り込む余地がない、といわれればそれまでです。現実問題として、徳川家が完全勝利することで平和な世が到来するわけであり、一般庶民としてみればこれは歓迎すべきことで、武家の論理で乱世が続くのはたまったものじゃないということになるかもしれません。
徳川家のほうも、秀頼が一切復権可能性がない状態で隠居すれば矛をおさめるという一応の譲歩はしています。それ自体無茶な要求ではありますが、江戸時代の終わりに徳川家が同じ立場に立たされたときには、実際にそうすることで大戦争を回避しているわけで……まあ、徳川家として筋はとおっているともいえるでしょう。
と、そんなふうに考えれば、家康を非難するのは筋違いかもしれません。
しかし、そうはいってもやはり、この小説に出てくる家康を好きにはなれないんですが……