手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

「残響」  東先生の声無き声に私は応える

2005-03-06 22:20:45 | 随筆「残響」
「残響」の作者田中さんに会った日、3月2日、後で判ったことなのだが、その日に東先生が他界されたのでした。この田中さんと事務局長の芳村さんは、岩見沢に国鉄の関係でいたことが有り、その時同席していた俵氏も岩見沢機関区に勤務したことが有り、くしくも岩見沢でつながった。そればかりではなく、私が詩吟をやっているというと、牛崎さんを知っていますかと聞かれた。この牛崎先生は私の二人目の詩吟の先生だったのです。そして、この牛崎先生とこの日亡くなられた東先生は詩吟の兄弟弟子で、牛崎先生の力強い吟と東先生の大らかな吟風が、連吟をすると不思議にマッチしていい感じになるのでした。東先生が仕事の関係で指導が出来なくなり、その後を託したのが牛崎先生だったのです。更に芳村さんは、詩吟を笠原先生のところに習いに行ったのだというのです。ただ1日で止めたのだそうですが、この笠原先生は、豊泉流から恵山流日本吟道会を立ち上げた時の指導的立場の人で、会長となった人なのです。
 
 笠原先生、牛崎先生それに吉岡先生、和泉先生の四人が佐々木象堂さんと対立して、北海道詩吟連盟に移られたのですが、東先生は、親友、同志がそのようにして去っていく中、宗家を守ってきたのです。その東先生を干しあげるような仕打ちをしてきた宗家、だから私も象堂流から脱会する事にしたのです。そして私も今北海道詩吟連盟に加盟することがきまったばかりなのです。このことを報告するはずの東先生の亡くなった日に、初めて会った田中さん、芳村さんと私の詩吟の歴史で忘れることのない方々の話をしたというのも不思議な気がします。

 私は東先生の「残響」 声無き声を聞きながら、襟を正して行かなければと思う。
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