野球は小学校のころから楽しんでいました。といっても戦時中、ろくな道具もないのだけれど、父が小学校の校長で、住宅が校舎とくっついていましたから、遊び場が校庭なのです。遊びの一つが野球でした。よく一人でバックネットの板の部分にボールを投げて、跳ね返るのを取る、また、板に○を書き、そこに命中させる、コントロールの練習などをしたものでした。
それも永山農業に進学するまでのことでした。再びボールを握ったりするようになったのは、旭川師範の本科に入学してからです。その頃になると戦後でプロ野球も復活して、野球はとても盛んに成りました。旭川師範に入ってクラブはスキー部に入ったのですが、夏のトレーニングの中で、一度、野球部と試合をすることに成り、私も出させてもらったのですが、その第一打席で、ピッチャーがカーブを投げてくるのが判っていて、インコースに曲がって入ってくるのを、綺麗にレフト前に打ち返した記憶が今も思い出せます。 通学するようになって、石北線の通学生の懇親野球をしたこともありました。是は勿論軟式ですが、そのとき、バントのサインでバントのためバットを出して、ボールなので、当てなかったら、審判だった上級生がボールとコールし、敵のチームから今のはバットを引いてないからストライクだとクレームが付いたのを覚えています。審判はボールで通したのです。
沼田高校に奉職してから、職場野球の選手に成りましたが、私は以外に肩が強くサード・ショート・キャッチャーが主でした。ピッチャーもやりましたが、ブルペンで投げると、殆どキャッチャーのミットの構えたところに、直球ですが投げ込めるのに、いざ、本番になると全くノーコンになるのです。 沼田では、定時制農業科の教員でした。初めの頃は、文芸部の顧問をやっていましたが、文芸部が廃部となって、男子は野球部だけに成り、その顧問をしました。定時制の大会があり、全道大会までの道があつたのです。一度だけ、決勝まで行き、惜敗した残念な記憶があります。沼田を出る前の年、新しく入ってきた、とても素質のあるピッチャーに、私がコントロールをつける練習をした仕方を教えて、是非やってみなさいといっておいたのでした。それから数年たって、沼田に行った折、その生徒が沼田に勤めていて、会いに来てくれました。そのとき、私の教えたとおりの稽古をして、北空知の定時制大会で優勝したのですと報告してくれました。
その後、美唄では職場野球もなくて、札幌に来て、生徒の試験中の午後などに、野球の試合をしたことはあるのですが、自分ではやれそうに思うものの、50歳にもなったら、守っても飛んでくるボールが怖いし、投げようとすると肩が抜けるようで、全く駄目になっていました。
それでも、野球は好きで、プロ野球が始まると、テレビにかじりついています。出来た時からロッテのフアンで、去年は本当に楽しい年でした。