昨日近所のご主人の通夜に出かけてきました。読経が終わって説教がありました。禅宗のお坊さんです。戒名について話されていました。マイクの調子があまり良くないからか、よく聞き取れないのです。
そんな中で一つだけ心に残った言葉がありました。故人の名前が正人ということで、戒名に「正」を取った。この「正」という字についての話です。
「正」は、「一で止まる」という意味で、「この宇宙のすべては一つ」という意味だといった説明だったと思う。仏教では特に大切にされる言葉と説明されていたように思う。 人間にとって死は誰もがたどりつくただ一つの道とすれば、人間にとって止まるところそれはただ一つ死である。宇宙の営みの中で人間が誕生し、その人間をまた宇宙が受け入れる。いわば宇宙は一つなのだ。輪廻と同義語なのかもしれない。
また、私たちの現世での「正」は正しく生きることだけれど、正しく生きたという基準をどこに置くか。難しい問題だ。
芭蕉が最後に「愚なればこの一筋につながる」と述懐したけれど、俳諧一筋に生きた自分を振り返っているが、これはまさに「一にして止む」=「正」なのではないだろうか。その一筋につながったがゆえに芭蕉は存在しているのだ。
一つになることは難しい。それに徹することは難しい。私にとって詩吟が私の半生を支えてくれている。だがこの一筋につながる生き様とは程遠い。正しい生き方をしていないというしかないのだろう。こんな無結論になってしまった。
そんな中で一つだけ心に残った言葉がありました。故人の名前が正人ということで、戒名に「正」を取った。この「正」という字についての話です。
「正」は、「一で止まる」という意味で、「この宇宙のすべては一つ」という意味だといった説明だったと思う。仏教では特に大切にされる言葉と説明されていたように思う。 人間にとって死は誰もがたどりつくただ一つの道とすれば、人間にとって止まるところそれはただ一つ死である。宇宙の営みの中で人間が誕生し、その人間をまた宇宙が受け入れる。いわば宇宙は一つなのだ。輪廻と同義語なのかもしれない。
また、私たちの現世での「正」は正しく生きることだけれど、正しく生きたという基準をどこに置くか。難しい問題だ。
芭蕉が最後に「愚なればこの一筋につながる」と述懐したけれど、俳諧一筋に生きた自分を振り返っているが、これはまさに「一にして止む」=「正」なのではないだろうか。その一筋につながったがゆえに芭蕉は存在しているのだ。
一つになることは難しい。それに徹することは難しい。私にとって詩吟が私の半生を支えてくれている。だがこの一筋につながる生き様とは程遠い。正しい生き方をしていないというしかないのだろう。こんな無結論になってしまった。