私の会は、この団体に所属してまだ7年なので経緯はわからないのだけれど、資格審査会の審査委員長講評で「もっと訓読の稽古をするように」という言葉を再三聞く。初めはその先生だけが間違に気が付かないで使っているかと思ったけれど、どうやら皆様そのように信じていられるようです。
詩吟の詩文を訓読しなさいといわれてもできるわけが無い。訓読というのは日本語に直して読むということです。詩吟で私たちが使っている詩は日本語なのですから、それをどうやって訓読しろというのでしょう。
漢文・漢詩なら訓読が出来ますが詩吟は漢文が素材だけれど、実際に使っているのは漢詩の「書き下し文」、「訓読文」なのです。既に漢詩が訓読されたものなのです。「訓読をしなさい」ではなくて「素読をしなさい」でなければならないのです。
「素読」も漢詩の素読と、詩吟の素読は違います。漢文の素読は将に棒読みでいいのです、意味は考えなくてもいいのです。昔、武士の家では、子供が6歳になると論語の素読をさせられたといいます。要するに漢詩・漢文を訓読法にしたがって読む稽古をさせられてたのです。ですから殆ど意味は判らなくても良かったのです。
詩吟の「素読」は詩文に節をつけないで読むことで、詩文の意味を理解し、アクセントなども大切にして読まなければなりません。野球の選手がボールに向かわずにバットを振るのは「素振り」といいますし、剣道の選手が相手と向かい合わずに一人で竹刀を振るのも「素振り」です。全くそれと同じなのです。野球の選手も剣道の選手も唯訳もなく振り回しているのでは在りませんね。それと同じなのが詩吟の素読なのです。
これはどちらでも言いという言い方は出来ないことなのです。
私たちはも詩吟をやっているのであって、漢詩の勉強をしているので無いことを詩吟の指導者ならなおさら分かっていなければならないのです。
私はお弟子さんに説明してあげなければなりません。私は常に「素読」といって稽古をさせていますので、きちんと説明をしておかなければならないのです。審査委員長が「訓読をもっとしなさいといいました」といって、私の言っていることか間違いと取られたら困りますす。ですから「訓読をしなさい」は間違いなのだと筋を通して話してあげています。
私の教室の生徒さんは「訓読をもっとしなさい」は間違いだと理解しています。
そんな程度の先生に審査されることはたまらないというかもしれません。
所属の同じ方でこれを読む方もおいでと思います。くれぐれもこの言葉は使わないで下さい。できれば、組織として間違いを認めて欲しいものです。</font>
詩吟の詩文を訓読しなさいといわれてもできるわけが無い。訓読というのは日本語に直して読むということです。詩吟で私たちが使っている詩は日本語なのですから、それをどうやって訓読しろというのでしょう。
漢文・漢詩なら訓読が出来ますが詩吟は漢文が素材だけれど、実際に使っているのは漢詩の「書き下し文」、「訓読文」なのです。既に漢詩が訓読されたものなのです。「訓読をしなさい」ではなくて「素読をしなさい」でなければならないのです。
「素読」も漢詩の素読と、詩吟の素読は違います。漢文の素読は将に棒読みでいいのです、意味は考えなくてもいいのです。昔、武士の家では、子供が6歳になると論語の素読をさせられたといいます。要するに漢詩・漢文を訓読法にしたがって読む稽古をさせられてたのです。ですから殆ど意味は判らなくても良かったのです。
詩吟の「素読」は詩文に節をつけないで読むことで、詩文の意味を理解し、アクセントなども大切にして読まなければなりません。野球の選手がボールに向かわずにバットを振るのは「素振り」といいますし、剣道の選手が相手と向かい合わずに一人で竹刀を振るのも「素振り」です。全くそれと同じなのです。野球の選手も剣道の選手も唯訳もなく振り回しているのでは在りませんね。それと同じなのが詩吟の素読なのです。
これはどちらでも言いという言い方は出来ないことなのです。
私たちはも詩吟をやっているのであって、漢詩の勉強をしているので無いことを詩吟の指導者ならなおさら分かっていなければならないのです。
私はお弟子さんに説明してあげなければなりません。私は常に「素読」といって稽古をさせていますので、きちんと説明をしておかなければならないのです。審査委員長が「訓読をもっとしなさいといいました」といって、私の言っていることか間違いと取られたら困りますす。ですから「訓読をしなさい」は間違いなのだと筋を通して話してあげています。
私の教室の生徒さんは「訓読をもっとしなさい」は間違いだと理解しています。
そんな程度の先生に審査されることはたまらないというかもしれません。
所属の同じ方でこれを読む方もおいでと思います。くれぐれもこの言葉は使わないで下さい。できれば、組織として間違いを認めて欲しいものです。</font>