手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

熱血指導、愛の鞭、暴力行為

2013-01-31 18:15:16 | 随想
 私は戦時中といっても終戦の年に永山農業に入学した。入学して寮に入りました。戦時中のこの学校の上級生は、2年生は仏様、3年生は神様でした。仏様、神様くらいに偉かったのです。

 入学して一週間目くらいだったと思います。寮で異様な雰囲気が流れました。同室の3年生がいなくなったら、2年生が何か落ち着かなくなりました。そして食堂に集められました。そうこうしているうちに私たち1年生が食堂の前の廊下に集められました。食堂の中からものすごい怒鳴り声が聞こえてくるのです。そして何か殴られるような音まで聞こえてくるのです。そのあと、2年生が出て行き、代わりに1年生が入れられました。壁を背に一列に並ばされました。前に3年生がずらっと並んでいてそれから説教をされました。そして焼きを入れるといって端から次々平手打ち(ビンタ)を食らわせられたのです。

 このときの説教が下級生としての為すべきこと、寮や学校での行動についての指導でした。そしてそれを守らなければいつでも焼きを入れると宣言されたのです。

 恐ろしかった。私は殴られた経験はこのときの一度だけで済みましたが、随分やられた仲間もいました。

 軍隊では当然為されていることを、学校でもされていたということだと思います。

 この経験を私は極めて素直に受け入れていました。そして、この説教で人間としてのあり方のようなものを私は知ったような気がしました。

 田舎の育ちで、しかも校長先生の子供として一目置かれる状況でしたから、世間知らずもいいところだったのです。このときの教えを胸にたたんでいて、二度と殴られるようなことはしないと思ってすごしました。恐ろしいという思いはありましたが、この恐ろしさ故、礼節のようなものが私にそなわることになったように思い、私にとっては良い試練だったように受け止めてきました。

 教員生活36年、私は生徒に怖がられる先生になれませんでした。また熱血先生でもありませんでした。生徒を殴り、それでも生徒に人気のある先生を見ていて、羨ましくも思いました。生徒を叩くことの出来る先生は自信にあふれていました。

 退職に近くなった頃から、生徒を叩く先生がいなくなってきました。PTAのお母さんたちは遠慮なしに殴ってくださいという方も多かった。でも、そうでない父兄が多くなったのは事実でした。

 次第に生徒の態度も嘗てと違ってきていました。義務制の学校では学級崩壊みたいなことが起こったりしてきていました。

 暴力で言うことを聞かせる指導は許されない。そうでなくても生徒をひきつけ、立派に指導している先生は多い。私はどっちにもつけない駄目先生でした。今なら勤まらないのかもしれません。

 オリムピック女子柔道の監督が辞職しました。仕方がないと思います。それが愛の鞭でも暴力は暴力なのですから。
コメント
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