昭和54年、開校3年目の札幌西陵高校へ転勤となった。一学年10学級のマンモス高校でした。前年、手稲に我が家を立てたばかりでしかも車で25分程度のところですからありがたかった。仕事は大変だったけれど、とても良い友達がすぐ出来た。学校のことを書こうとしているのではありません。学校を離れ、手稲での生活の一部を書いてみたい。
手稲の我が家の周囲には数軒あるだけで、道路ももちろん舗装されていなく、しかも泥炭地ですから、砂利が敷かれてもどんどん沈んで行って何ともひどい有様だった。でも、2年目に舗装と下水工事がされて、一気に住みやすくなった。茶の間に座ったまま手稲山を眺めることができたのです。又、今のドリームビーチ元は大浜と呼ばれていましたが、車で10分とかからないで行けるのです。夏休み、進学講座などを終えて帰宅したら、直ぐ大浜に行って泳ぎ、車の運転席に、ビニールを敷いて水泳パンツそりのままで帰ってきたのしたものです。今は周囲に空地が無くなりました。来た当時は虫の鳴き声も聞けたのですが、今は聞けなくなりました。
又、手稲の街はこじんまりしていますが、適当な飲み屋さんがたくさんあって、私は飲み歩くことの楽しさを知らなかったのですが、同じ手稲に住居を構えたF先生がなかなかの社交家で、楽しい飲み屋さんを見つけては誘ってくれるのです。ほかに私の初任校から一年前に西陵に来ていた酒豪のTさんが仲間になり、三人での飲み屋詣でが始まりました。初任地の沼田では独身時代良く成沢先生と二人で飲んだものでしたが、美唄の15年はまともに飲みに出たことはなかった。何かの二次会などで行くことはあったものの、飲んで楽しむことを忘れていた。
それが、ほとんど毎週一度は飲みに出て、しかもはしご酒を楽しんだのです。私の現役は昭和で終わりました。楽しい思い出が山ほどあります。それが平成になってどんどん飲み屋さんが無くなり、最後「いの平」という居酒屋さんだけが残ったのですが、私の詩吟のお弟子さんだったり私のダンスの良いパートナーだった小野ママが亡くなって私の酒場がよいも終わった。
手稲の我が家の周囲には数軒あるだけで、道路ももちろん舗装されていなく、しかも泥炭地ですから、砂利が敷かれてもどんどん沈んで行って何ともひどい有様だった。でも、2年目に舗装と下水工事がされて、一気に住みやすくなった。茶の間に座ったまま手稲山を眺めることができたのです。又、今のドリームビーチ元は大浜と呼ばれていましたが、車で10分とかからないで行けるのです。夏休み、進学講座などを終えて帰宅したら、直ぐ大浜に行って泳ぎ、車の運転席に、ビニールを敷いて水泳パンツそりのままで帰ってきたのしたものです。今は周囲に空地が無くなりました。来た当時は虫の鳴き声も聞けたのですが、今は聞けなくなりました。
又、手稲の街はこじんまりしていますが、適当な飲み屋さんがたくさんあって、私は飲み歩くことの楽しさを知らなかったのですが、同じ手稲に住居を構えたF先生がなかなかの社交家で、楽しい飲み屋さんを見つけては誘ってくれるのです。ほかに私の初任校から一年前に西陵に来ていた酒豪のTさんが仲間になり、三人での飲み屋詣でが始まりました。初任地の沼田では独身時代良く成沢先生と二人で飲んだものでしたが、美唄の15年はまともに飲みに出たことはなかった。何かの二次会などで行くことはあったものの、飲んで楽しむことを忘れていた。
それが、ほとんど毎週一度は飲みに出て、しかもはしご酒を楽しんだのです。私の現役は昭和で終わりました。楽しい思い出が山ほどあります。それが平成になってどんどん飲み屋さんが無くなり、最後「いの平」という居酒屋さんだけが残ったのですが、私の詩吟のお弟子さんだったり私のダンスの良いパートナーだった小野ママが亡くなって私の酒場がよいも終わった。