手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

俺の昭和が遠くなる  6 貧乏だったが楽しかった

2016-12-08 19:43:25 | 随想
  10人兄弟だから戦後の我が家の生活は大変だった。両親がどんな苦労をしていたのか私にはよくわかりません。私の進学には大変苦労もしたのだろうと思います。

 ただ、終戦直後ですから買うものもなく、遊ぶところもないのですから、それほどお金に困ったという感じはありませんでした。大学に進学したころになるとかなり世の中が落ち着き、戦時中にはなかった娯楽が広まってきました。映画館は満員、パチンコ屋が出来、キャバレーができ、酒場もはやり始めました。又ダンスホールもにぎわっていて私もしばしば金子君に連れられて出かけた記憶があります。アルバイトもやりました。主に新旭川にあるパルプ工場でした。ほかに小学生の家庭教師などもやりました。愈々、お金に困って時計を質に入れたりすることもありました。

 そんな貧乏な私でしたから女性の友達を作ることは考えも及びませんでした。でも大学の三年のころからですか、金子君に連れてゆかれたスナックのような飲み屋さん、昼から店は開けているのです。そして私と同じくらいの女性の従業員がいて、親しくしてくれ、昼間暇なときはそこに行きレコード係りをしてあげておしゃべりをしたりした記憶があります。

 結局結婚も見合い結婚で、恋愛という経験もない青春でした。就職したころはよく飲みに出かけ、従業員と恋愛の真似事みたいなことはいくつかありましたがレはそれなりに楽しかった。でも結婚は見合いだったのです。正月にお見合いをして11月までお付き合いをして結婚したのでしたから、その間は恋愛をしていたといえばいえるのでしょう。借金をもっての結婚でしたが、少しの波風を立てながらもこの年まで二人の子供を育ててこの歳になっている。これは昭和という良い時代に現役時代があたからでしょう。やっぱり昭和は良い時代だった。
コメント
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