手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

学を求める  

2017-05-11 19:47:04 | 随想

 戸時代を見てみると、各藩ごとに藩校を作り特に武士の子弟教育が広く行われていた。江戸幕府直轄の学問所,昌平坂学問所=昌平黌の教学の理念が各藩の教育理念になっていた。そんな中でも、私塾がどんどん増え、藩学に飽き足らない多くの若者は、優れた指導者を求めて学問にはげんでいた。

 広瀬淡窓の桂林荘雑詠などを読むと、大分県まで全国から教えを受けたくて集まっていたことがうかがわれる。藩学ももともとは藩士の子弟の教育が目的だったが、次第に一般庶民も受け入れるようになっていったようだ。

 江戸幕府の鎖国政策で、海外の様子が分からなかったとはいうものの、欧米諸国の植民地活動をかなり良く理解している向きも多く、攘夷の備えに当たっていた藩も多かった。特に御三家筆頭水戸藩は積極的に諸藩にも攘夷の備えをさせる運動をしていたようだ。幕府が率先して攘夷の運動に取り組まなければならない中で、将軍継嗣問題と絡み、尊王攘夷の運動へと発展していった。特に安政の大獄は桜田門外の変へとつながり、尊王攘夷に討幕が重なることになった。

 あの黒船問題の中で、日本が植民地の対象とならず貿易の対象国として遇されることになったのは、いろいろな理由があると思うけれど、日本人の学問の高さが、例えば中国でのアヘン戦争のような侵攻も日本では通用しないとみていたからではないだろうか。

 そんな日本が維新で開国し、諸外国との交流が始まるとすごい勢いで西洋文化を取り入れ、亦教育制度もどんどんと新しいものへと変わっていった。

 終戦後新学制が施行されるまでの学制は角帽を頂点として、中学、高等学校は憧れの対象だった。単に学力の問題だけでなく経済的にも厳しい時代だったから、高嶺の花のように思えた人も多かったと思うけれど、中学生の帽子の白線だとか、高等学校の生徒の長鍔帽子にあこがれたものだった。今、高等学校も大学も昔のようなあこがれの対象ではなくなっているように感じる。学問にあこがれてではなく将来の就職のための手段として大学を選ぶ時代になっているように思う。高等学校での勉強の楽しみ、大学での勉強での楽しみ、そんなものが何か薄れてきているように思える

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする